振り下ろされた剣
すっかり寛いだ様子のルリシアレヤがクスクス笑う。チュジャンエラが何か冗談を言ったのだ。ララミリュースは魔術師の料理に興味を持ったようで、ジャルスジャズナにあれこれ訊いている。世話係の二人は、花に詳しい片方が花の利用法を解説し、もう一人は熱心に耳を傾けている。背後から迫る悪意は徐々に距離を縮めている。
「甘い香りは松見草のものでしょう? バチルデアにも松見草はあるけど、こんなに見事な松見草は初めて見るわ。房が大きくてとても長いのね」
頭上を見ながらルリシアレヤが嬉しそうな声をあげる。
「フェニカリデの街もそうだけど、王宮のお庭も年間を通して花が途絶えることはないって聞いたわ」
「グランデジアは真冬でも雪が滅多に降ることのない温暖な気候、それもあっての事と思います。さらに、温暖とは言え、暑さ厳しい夏、凍える冬もあり、雨期もある。そんな変化が草花の成長を促すのです」
「あら、雪が降らないの?」
「えぇ、僕は雪を見たことがありません……サシーニャさまは見たことがおありですか?」
急に話を振られたサシーニャ、なぜ今この時に話を振るか、と思うが、
「カルダナ高原でちらほらと舞うのを見たことがあります」
穏やかな笑みを浮かべる。
背後から迫る者への、表面には見せない集中を途絶えさせたくなかった。判っていながらチュジャンエラがサシーニャに話しかけたのは、自分でその脅威を取り除くつもりがあるからだ。何をする気かと、チュジャンの動きにも警戒を強めるサシーニャだ。
「カルダナ高原とはどんなところですか?」
ルリシアレヤがサシーニャに話しかけてくる。話し相手をサシーニャと交代しようとしたチュジャンの思惑通りだ。
「今はまだ開発途上の山地です。生い茂る森林のほかはこれと言って何もないのですが、有効利用するための調査に道なき道を分け入りました――今は春、雪の話よりも今の季節のお話をされるがよいかと。チュジャン、この四阿の周囲に咲く花をご説明したか?」
と、今度はサシーニャがルリシアレヤの相手をチュジャンエラに渡す。
近付く気配は僕に任せればいいのにと言いたげに一瞬ムッとしたが、すぐにそれを引っ込めたチュジャンエラ、そんなチュジャンエラに気が付いていないルリシアレヤが
「そう言われれば、松見草に気を取られて他の花を忘れていたわ」
と急に立ち上がる。
「ねぇ、チュジャン、そこに咲いている紅色の花は何?」
「ルリシアレヤさま、お待ちください!」
チュジャンエラが止めるのも聞かず、ルリシアレヤは四阿から出て躑躅に駆け寄っていく。仕方なく後を追うチュジャンエラ、サシーニャとジャルスジャズナが意識だけでそんな二人を追っている。
「躑躅と言います。この辺りに咲いているのはすべて躑躅です」
「そう言われれば、こっちの白いのも、薄紅色のも、花の形が同じだわ」
「とても丈夫で育て易く、この庭に限らずあちこちに植えられています。僕の生家の庭にもあって、子どものころ、花を摘んでは蜜を吸ったものです」
「そうなの? 美味しかった? 楽しそうね。どうすればいいの?」
ルリシアレヤが躑躅の花に手を伸ばす。それをチュジャンエラが止める。
「おやめください、王女さまが召し上がるようなものではありません……いえ、大人が楽しむものではありません」
サシーニャが穏やかな表情を変える事なく立ち上がり、チュジャンエラとルリシアレヤがいる方を向く。
「あまり変なことを王女さまにお教えしないように」
と、チュジャンエラに声を掛ける。
「申し訳ありません」
謝るチュジャンエラ、密かにサシーニャに目配せする。ジャルスジャズナは気づかぬふりで、相変わらず調理法を尋ねるララミリュースに笑みを浮かべて対応している。
悪意が敵意に変わり、恨みに変わり、嘆きに、絶望に、そしてまた敵意に変わる。ルリシアレヤが立ち上がってから、追跡者は目まぐるしく心を変えている。
幸いルリシアレヤは、いったん追跡者に近付いたものの、そのあとは遠ざかって進んでいる。
「わたしのせいで怒られちゃったわね」
チラッと舌を出してルリシアレヤがこっそり笑う。
「叱られるのはいつもの事ですから」
チュジャンエラが笑顔を返す――ゆっくりと、サシーニャがルリシアレヤたちの方へと移動していく。ジャルスジャズナはララミリュースを守る態勢に入った。
「サシーニャさまはよく怒るの?」
「叱られることはあるけど、怒られはしないかな。サシーニャさまを怒らせるのは難しそうです」
「サシーニャさまは温厚なかたなのね」
「どっしりと構えて、多少の事では動じない、そんな感じです。公の場ではね――むしろ怒るのはいつも僕……」
「あら、チュジャンがサシーニャさまを叱責するの?」
「えぇ、僕が叱らないとサシーニャさまは、自分の事は後回しにしちゃうから。個人的な事となると途端にだらしないんです。しっかり生活させるのも弟子であり補佐役でもある僕の勤めです」
「ねぇ、チュジャン、それ、サシーニャさまの悪口?」
「えぇ? そんなつもりは!」
慌てるチュジャンエラ、笑いながらルリシアレヤが親し気にチュジャンエラの腕に手を添える。
「冗談よ、慌てないで」
その瞬間、悪意が殺意に変わった――チュジャンエラがルリシアレヤを後ろに庇うように振り返る。手を振り解かれたルリシアレヤが勢いで踉蹌いたのを近くに来ていたサシーニャが支えた。
剣が鞘から抜かれる音、勢いをつけて近付く男、ジャルスジャズナも立ち上がり、ララミリュースが何事かと驚く。
チュジャンエラが振り向くと同時に投げた魔法が、ルリシアレヤを支えながらサシーニャが投げた取り消し魔法で解除される。
「なにを?」
サシーニャの行動にチュジャンエラが怯み、その隙を剣が襲う。世話係の二人の魔術師も、事態に気が付き剣を振り上げる男に攻撃魔法を投げつけた。
「誰も攻撃するな!」
叫ぶサシーニャ、同時にチュジャンエラを庇う。戸惑うチュジャンエラ、振り落とされる剣をサシーニャが魔法で払う。世話係の二人が投げた攻撃魔法が男に届く直前、これもサシーニャが解除する。
チュジャンエラを庇うため動いたサシーニャ、その後ろにいたルリシアレヤに、男が瞬時に狙いを変えた。察したサシーニャ、が、さすがに間に合わない。チュジャンから離れ、ルリシアレヤ抱き込むように庇えば、サシーニャの背を男の剣が斬り裂いた。
「なに!?」
叫びは男のもの、サシーニャの背に当たった剣はガンと鈍い音を立て、宙へと弾かれた。呆気にとられた男、自分で斬りつけ、怪我を負わせたサシーニャの背を恐ろし気に見詰める。その隙にサシーニャが掛けた魔法で松見草が動き出す。スルスルと蔓を伸ばして男を襲う。
「なんだ、なんだって言うんだ!?」
起きた出来事と起きている出来事に戸惑う男が抵抗するが、松見草は容赦なく男を縛り上げていく。
「暴れれば、余計に締め付けられますよ」
懐に抱き込んだルリシアレヤを放しながらサシーニャが言う。ルリシアレヤは起きたことに理解が追い付かない顔で、サシーニャを見上げている。じっとサシーニャの顔を見詰めている。
静かなサシーニャの眼差し、膝を折ってしまった男が茫然とサシーニャを見上げている。
「おまえ、身体が石で出来ているのか? 剣は確かにおまえを討っていた、なのにあの感触は……」
その問いにサシーニャは答えない。男は松見草の蔓が勝手に動くことよりも、サシーニャの身体から受けた感触のほうを気にしている。
「サシーニャさま!」
チュジャンエラがサシーニャの背の傷を見ようとするが、すでに切り裂かれた衣装は修復されていて、見るに見れない。だが、出血が続いているのが判る。
「傷を魔法で治さないのですか?」
それにもサシーニャは答えない。
自分たちが投げた魔法を取り消された世話係たちが、場所を動かずサシーニャを見て震えている。余計なことをしたと叱られるのではないかと怯えている。
「おまえ、リヒャンデルを呼びに軍の本部に。もう一人はリオネンデに報告。わたしに命じられたと言えば、リオネンデに会える」
世話係にサシーニャが命じた。
ララミリュースを座らせたジャルスジャズナがサシーニャに近寄って、
「珍しいな、おまえが後れを取るなんて」
と言えば、
「暴漢に襲われた時の対処を討ち合わせておくべきでしたね」
サシーニャが苦笑する。
チュジャンエラに向かい、
「チュジャンの魔法ではハルヒムンドさまに怪我を負わせてしまいます」
と言えば、チュジャンエラが小さくなって『軽率でした』と答える。
「何があってもバチルデアからの公式な訪問者、怪我をさせてはダメですよね」
ジャルスジャズナが立ち尽くしたままのルリシアレヤの肩に手をやり、あちらにお座りくださいと、四阿へと誘っている。ジャルスジャズナに導かれるままのルリシアレヤ、だけどサシーニャから目を離さない。
「ご心配は要りませんよ」
「でも……血が止まってないわ」
チラリとジャルスジャズナがサシーニャを見る。確かにじわじわと、血のシミがサシーニャの衣装に広がっていく。
「なに、筆頭は医術魔法も得意。すぐに止血することでしょう」
松見草に縛り上げられ温和しくなったハルヒムンドをチュジャンエラが見下ろしている。
「サシーニャさま、この男、どうするおつもりですか?」
悔し気に顔を顰めるハルヒムンド、
「ご判断はララミリュースさまに委ねることとなりますが、リヒャンデルの意見も聞いてみましょう。温和しくバチルデアにお帰り願えれば、わたしとしては不問にしたいと思っています。事を荒らげれば、両国にとっていい結果を招きません」
サシーニャの言葉に項垂れた。
四阿ではジャルスジャズナがお茶を淹れかえ、ララミリュースとルリシアレヤを落ち着かせている。
「なんてこと、なんてことを……」
混乱の中、事態をどう収拾させたものか、考えを巡らせているララミリュースだ。
「筆頭魔術師さまに怪我を負わせるなんて……リオネンデ王はお許しくださるでしょうか?」
隣に座ったルリシアレヤは黙ったままだが、時おりサシーニャを見ては涙ぐんでいる。
「わたしのせいだわ……」
「ルリシアレヤさまが悪いわけではありません」
ジャルスジャズナが慰める。
「筆頭は……サシーニャはルリシアレヤさまがご無事で、笑っていてくださることを望んでいると思いますよ」
複雑な心境のジャルスジャズナ、人の思いの不可解さに思いを巡らせていた。




