波乱の兆し
サシーニャが前に出て、ルリシアレヤからもサシーニャが見えた。一目見て『この人だ』と確信し、迷うことなく駆け寄った。ニコニコと嬉しそうな顔でサシーニャを見上げている。
周囲が響くなか、サシーニャは呆気にとられたのか、何か言おうとした口を微かに開けたままルリシアレヤを見続ける。言葉を探しているようだ。
リオネンデの後ろでは王の片割れスイテアが蒼褪める。なぜ手紙の相手がサシーニャだと判ったのか、懸命に記憶の中の手紙を読み返す。
手紙を書いていたのはスイテア、だがルリシアレヤには伏せ、来訪時には生家に帰ったことにする……そう聞いていた大臣たちは、何が起きたか判らず見守っている。ただ、あとから判ることだがリオネンデたちにとっては都合よく、蒼褪めたスイテアを自分の働きを横取りされたと感じたからと誤解している。
「何をしているのです、ルリシアレヤ!? 自分から話しかけるなんて、はしたない! こちらに戻りなさい!」
必死に呼ぶ母の声に娘は反応を示さない。ララミリュースにすれば、『そんな者に近付いては危ない』と言いたいところだが、さすがにそうは言えない。グランデジアの準王子だとリオネンデが言ったばかりだ。
と、急に笑い声が謁見の間に響く。笑ったのはリオネンデだ。
「ルリシアレヤさまは、サシーニャが気に入りましたか?」
漂うのは皮肉の匂い、婚約者が自分以外の男に興味を持ったことを揶揄した。が、それは対面を考えてのこと、なにしろ今は、あくまで婚約者を演じる必要がある。
「なんのお話でしょう?」
リオネンデの皮肉が聞こえたのか聞こえていないのか……サシーニャがやっと言葉を発する。目はルリシアレヤを見詰めたままだ。つまり言葉はルリシアレヤに向けたものだ。サシーニャを見上げたままルリシアレヤが不思議そうな顔をする。
「あなたがわたしと文通してくれたのでしょう?」
「いいえ、その者ならば……父親が急な病で倒れたとかで五日ほど前に休暇を取って、フェニカリデを離れております」
「ええ、そんなお手紙をいただいたけれど……」
サシーニャを恐れて近寄れないララミリュース、ジャルスジャズナがそんなララミリュースに会釈して横を通り抜け、ルリシアレヤの傍らに立つ。
「ルリシアレヤさま、お話しはその程度で。詳しくはまた後程にいたしましょう」
覗き込むように自分を見るジャルスジャズナに、ルリシアレヤが渋々と頷いた――
王の執務室に戻った面々――膨れっ面のサシーニャ、ニヤニヤ笑うリオネンデ、スイテアは不機嫌に考え込んでいる。オロオロと心配するのはチュジャンエラ、謁見の間にはいなかったジャッシフが、何があったのかとやはり心配そうな顔をしている。遅れて来たのはジャルスジャズナ、来賓を部屋へ送ってきた。呼ばれてもいないのに王の執務室に来たのは、スイテアが心配なのか、それともサシーニャを案じてか。
「しかし不思議だねぇ……」
入ってくるなりジャルスジャズナが言った。
「バレるようなことは一切、手紙に書いていないんだろう?」
「えぇ……そう思います」
黙ったままのサシーニャに代わりスイテアが答える。
「名は勿論、性別年齢、身分も立場も、そう言ったことには触れていません。訊かれても流してしまい、お答えにならないか、推測できないような冗談で誤魔化しておられました」
「推測できない冗談?」
「実はお喋り好きな小鳥かも知れません、とか」
なるほどと、ジャルスジャズナが頷く。
「もちろん、髪や肌、瞳の色も書いていない」
そう言ったのはリオネンデ、サシーニャを気遣ってスイテアは言わないだろうと付け足したのだ。
「まぁ、いいじゃないか。大臣どもが大騒ぎするかと危ぶんだが、そんなのもなかった。勝手に誤解してスイテアに同情していた。俺としては下手な言い訳を考えずに済んで大助かりだ」
「王女さまには驚かされたけど、大臣たちには笑わされた。笑いを堪えるのに苦労したよ」
「ルリシアレヤさまは納得しておいででしたか?」
そう訊いたのはスイテアだ。ジャルスジャズナは、滞在中に使う部屋までララミリュースとルリシアレヤを案内している。
「一目見てこの人だって思ったって言ってた。納得したかどうかはともかく、否定されればそうかと思うしかないんじゃないかい?」
「なんだか、随分沈んでしまわれたようだけど」
スイテアの心配を
「気にすることはない。部屋にいたヌバタムとゲッコーに大喜びで、すぐに機嫌は直ったよ」
ジャルスジャズナが吹き飛ばす。
「王妃さまは『猫は毛が』なんて顔を顰めたけど、王女さまの笑顔を見てホッとしてたさ」
「ヌバタムとゲッコーは巧くお役目を果たしているのね」
「愛嬌振り撒くのはヌバタムの得意とするところ、ゲッコーは一言も喋るなってサシーニャが命じてるから、これも問題ないと思うよ」
「王女さまは喜びそうだけど、あの調子でゲッコーが捲し立てたら王妃さまは怒り出しそうね」
「才女ララミリュース、ただの観光目的ではなさそうだった」
「そうなの?」
「サシーニャのことを訊いてきた。グランデジアの名乗りが許されているのはなぜかってね」
筆頭魔術師の父親は大臣だったと聞いているのに不思議ですね、とララミリュースはジャルスジャズナに言った。
『グランデジア王家では、王位に就いた者の孫までは王家の一員とされます。が、誰もがみなグランデジアを名乗れるものでもありません。サシーニャの場合、両親を亡くした折に当時の王がグランデジアを名乗ることを許しております』
ジャルスジャズナはそう答えた。
『現在サシーニャは、王家の一員ではありません。彼は前の王家の守り人――一員のままでは王家を整える役目を持つ守り人を拝命できない。因って、守り人になるに際し、一員から外しました』
『それでは王の片割れとかが、王家の一員なのはなぜでしょう?』
『申し上げた通り、王の孫まではなんの条件もなく王家の一員に名を連ねます。だが本来、一員に加わる儀式を王廟にて行わねばなりません』
『王廟? 王のお墓という事?』
『王家の墓地に建つ廟でございます――たとえ誰であろうと王廟が許せば王家の一員と認められ、儀式が執り行われる事となります』
『それが片割れとやらなのね』
『はい、そしてサシーニャもまた、守り人の任を解かれたからは一員に戻ることになると思われますが、この時は王廟に伺わなければなりません』
『筆頭魔術師は王の孫なのでは?』
『一員から抹消された時、王の孫という事実も取り消されたのです』
『そう……それでは、ルリシアレヤもリオネンデさまとのご婚儀が済めば、その王廟に許されて王家の一員になるのね?』
『それは……グランデジアでは王族即ち王家の一員とはいかないのです。王族であっても王家の一員ではない、歴代の王妃の多くがそんな立場でございます』
ぐっとララミリュースが息を飲む。妾が王家の一員で、正当な妃は王族ではあっても一員ではない? 母親として、看過できないところだ。だが、その場でジャルスジャズナに抗議しても意味はないし、急いてもいい結果は出ない。少しずつリオネンデを締めあげて、ルリシアレヤの立場を優位に持って行ったほうがいい。
『一員になれなくても王妃の立場を剥奪されるわけではございません。なったからと言って何かが変わることもございません。何一つ、ご案じになることはありません』
ララミリュースの心を知らず、ジャルスジャズナはそう微笑んだ――
「向こうもグランデジアの重要人物くらいは調べているだろうけどな」
サシーニャの名乗りを訊かれたとジャルスジャズナが言うと、苦笑いしてリオネンデがそう言った。
「三人の大臣、筆頭魔術師、王家の守り人、それに王の片割れ――俺も含めて少なくとも七人の経歴や人となりはそれなりに調べただろうさ」
「わたしもかい?」
「わたしもですか?」
ジャルスジャズナとスイテアが声を揃えて驚いた。
「あぁあ、守り人になる前の悪行がバレてなきゃいいけど……」
「わたしなぞ調べても何も出そうもありませんが?」
「二人とも、飛び切りいい女だってことぐらいは調べ上げただろうさ」
リオネンデの軽口に二人の女がクスクス笑う。
それをニヤリと笑ってから、リオネンデがサシーニャを見る。
「いい加減、おまえも気を取り直せ。どこで失敗したのかと、くよくよしても始まらない。とりあえず、誤認だとルリシアレヤに思わせることはできたんだ。それで良しとしろ」
サシーニャはリオネンデをチラリと見たが応えない。
ふんと鼻を鳴らしたリオネンデ、今度はジャッシフに向かう。
「おまえは広間に行って滞りなく宴の準備が進んでいるか確認して来い。それからその装束、もう少しマシなものに替えろ。平服と言っても普段着でいいわけじゃないぞ」
「あ、はい、もちろんです」
慌てるジャッシフにリオネンデがニコリとする。
「心配することはない、すべて巧くいっている」
「はい……」
リオネンデに頷いてから、部屋の全員に向けて会釈をし、ジャッシフが王の執務室を後にする。
それを見送って、サシーニャが立ち上がる。
「わたしも塔に戻って着替えます――守り人さま、ご一緒しましょう。今日は警護兵も忙しい」
わたしに警護なんかいらないけどね、笑いながらジャルスジャズナも立ち上がる。
「サシーニャに守られて歩くのも悪くない」
チュジャンエラも立ち上がり、サシーニャに付き従う。
「では、後程……」
あとに残るのはリオネンデとスイテア、
「俺たちも着替えよう」
と後宮へ戻っていく。
警護控室と隣接する王の執務室での話し声は、魔術師が外聞防止の魔法をかけない限り、警護兵たちに筒抜けだ。そして魔術師が立ち去れば、魔法は効力を失ってしまう。だが、後宮の王の寝室での会話は、執務室と違って警護兵に届かない。後宮の女たちには呼ばれない限り近付かないよう言ってある。
「賭けは俺の勝ちだな」
装飾品を外しながらリオネンデが笑う。
「しかし、まさか一目で見抜くとは思ってなかった」
「そうですね、驚きました」
愉快そうなリオネンデに、スイテアは浮かない顔だ。
「そんな顔をしたって騙されないぞ?」
「判っております――こうなったからには、必ずサシーニャさまとルリシアレヤさまを一緒にしてあげてください」
真剣な眼差しのスイテアを見てリオネンデが思う――スイテア、おまえも気付いてるんだろう? サシーニャが言葉を失くしたのは、文通相手と見ぬかれたからじゃない。あれは、サシーニャは、ルリシアレヤに見惚れたんだ。見惚れてしまって何も言えなくなったんだ……




