愛に惑う
あの世話を焼いてくれた女の声が
『いい話だよね、父ちゃんもそう思うだろ?』
と、聞こえた。それに答える男の声は『そうさなぁ』と余り乗り気ではなさそうだ。男は怪我人の父親なのだろう。
『可哀想だけど、顔にこれだけ傷があったんじゃ玉の輿は狙えないよ』
二人とは別の嗚咽も聞こえる。きっと顔に傷を負った女だ。
『あの魔術師だって、もう戻っちゃ来ないさ。迎えに来るなんて約束はフェニカリデに帰る方便だよ』
嗚咽に混じる『そんなことない』と否定する声に、父親の怒りの声が重なる。
『魔術師が貧乏人を相手になんかするもんか。名も告げなかったのはなぜだ? 魔術師ってのも嘘かもしれん――人の娘を弄びやがって』
『そう怒りなさんな。あの魔術師さまが通り掛かってくれたお陰で、目が見えなくならずに済んだんだ。そう思えばいい。それに誘ったのはこの娘の方からだって話じゃないか。しかもあの魔術師、治療費も取らなかったんだろう?』
『だって誰かに縋りたかったし、魔術師を落とせれば占めたもんだわ。そしたらあの人、初心で真っ直ぐで優しくて……わたし、本気で好きになったの――治療費は宿賃替わりだって』
怪我人が泣きながら言えば、あの魔術師はやっと大人になったばかりって感じだったね、と世話焼き女が溜息を吐く。
『高価な薬も使ってるんだし、随分と高い宿賃だ。しかも、材料をどこかで用意してきて、食事の支度までしてくれた。そう悪い人間じゃないさね』
『でもよぉ』
父親は納得できないようだ。
『だいたい俺は魔術師なんか信用しない。わけの判らない魔法なんぞを使いやがって。王の直属だと言って、俺たちを見下してやがる』
『そりゃあ、魔術師に限らず、貴族さまはみんなそうさ』
『しかしさ、おまえ、今度の筆頭さまを見たか? ありゃあなんだ? あれも人なのか?』
『しっ! 誰かに聞かれたら大変だよ。筆頭魔術師の上、前王の姉さんの息子なんだから』
『いくら魔術師でもあんなのはイヤ!』
男と世話焼き女の会話に悲鳴のような声が割り込む。怪我人の声だ。
『わたしを助けてくれたあの人が魔術師かそうじゃないか、そんなことはどうでもいい。あの人がいいのよ――それにしたって、いくら魔術師さまで高い身分をお持ちだろうが、あんな化け物だけはイヤ!』
怪我人は、泣くことさえも忘れたようだ。
『遠くてよく見えなかったけど、噂じゃ目も青いって。そんな目で見られたら、きっと魂を吸い取られてしまう――あぁ、あの人は、あんな化け物の下で働いていて無事でいるのかしら?』
『だから!』
再び世話焼き女の声が聞こえた。
『もう帰ってこないって、何度言ったら判るんだい? 万が一、おまえを迎えに来たところで、あんな化け物の近くにいる魔術師に、おまえはついていくのかい?』
横から男の声で、『行かせはしないぞ』と聞こえる。
『ね、諦めて、おまえを貰ってくれるって男のところに嫁に行きなよ。おまえだって知らない相手じゃないんだ。昔からおまえに惚れてたって話だよ、きっと幸せにしてくれる』
――サシーニャの思い出話はこれで終わりだ。ここまで聞いたところで踵を返し、自分のいるべきところへ帰ったとサシーニャが静かに言った。
『自分を見ただけでそこまで恐れる人もいるのだという事を、それまでわたしは知らずにいました。嫌われているのは知っていました。化け物と陰口を叩かれたこともあります。でもそれが、恐怖から来るとは気づけなかったのです。なんとなく感じることはあっても、面と向かって告げてくれる人は周囲にいなかったしね』
思い出話の〝登場人物〟だって面と向かって言ったわけじゃありませんよ、そんな言葉をチュジャンエラは飲み込んだ。
『思い悩んでみたところで、生まれ持ったものを変えられるわけではありません。ならば有効利用したほうがいい』
何かが違うと思ったが、その正体が判らずチュジャンエラは何も言えなかった。ただ、察して余りある痛みに、そうとでも考えなければ堪えられなかったのではありませんか、と心の中でサシーニャに問いかけていた。
チュジャンエラがサシーニャに尋ねたのは一点だけだ――それは恋だったのですか?
『今となっては判りません』
少し考えてからサシーニャはそう答えた。
『苦しみや嘆きは時とともに薄れ、新たな苦悩が上書きして隠してしまう。当時、自分がどんなつもりでいたのかもよく判りません。恋だったのか、ただの同情だったのか、それとも誘惑に負けただけなのか?――鮮明に甦るのは、顔にできた傷を憂い、もう誰にも愛されないと泣く彼女を思わず抱き締めた時、自分自身を抱き締めているような感触に深く癒されたことです。あの安心感はなんだったのでしょうね』
怪我人は半年後に農家の息子と結婚し、その一年後には子にも恵まれた。幸せな暮らしを手に入れたと思う事にし、そこから先は消息を追うのをやめたとサシーニャは言った。
『結果的に、迎えに行くと言う約束を一方的に破ったわけだし、彼女の身の振りかたが案じられて探ったのですが、これは良心の呵責からでしょう』
サシーニャの執務室を出た後は自分の居室に戻り、チュジャンエラはすぐに寝台に潜り込んだ。
(きっと、それからずっとサシーニャさまは女性を遠ざけている……)
そしていつの間にか眠ってしまった――
チュジャンエラが眠りについたころ、後宮、王の居室ではリオネンデの寝顔を見ながらスイテアも考え込んでいた。
前々から気になっていたことが、サシーニャとルリシアレヤの手紙を読んで現実味を帯びてきた。この先、リオネンデとサシーニャ、そしてルリシアレヤの関係はどうなっていくのだろう? そもそもこの事態はリオネンデが思惑をもって招き寄せたように思える。
サシーニャがルリシアレヤの文通相手になった経緯をスイテアは知らない。リオネンデは、サシーニャがルリシアレヤと手紙を交換することになったとしか言わなかった。
『サシーニャさまでなく、リオネンデさまがお書きになればよろしいのに』
そう言ったスイテアに、文字を書くなんて面倒なことできるかとリオネンデは笑った。
『それにしてもなぜサシーニャさま?』
相手はリオネンデの婚約者なのだ。男のサシーニャは遣りずらくて仕方ないことだろう。
『サシーニャなら巧くやるさ』
リオネンデは笑うばかりで取り合わない。
(まったく……何を企んでいるのやら)
リオネンデの後宮に入って三年が経つ。仕来りに馴染むのに、時間は必要なかった。九つから火事の時まで、前王妃マレアチナの許で過ごしたスイテアだ。
ピカンテア動乱で住む家も肉親も失った。憎いグランデジア、だけど助けてくれたのもグランデジア、身寄りをなくしたスイテアを慈しみ育ててくれたのはマレアチナだ。
ピカンテア動乱――グランデジア国ピカンテア、その領主がグランデジアからの独立を企て蜂起したのが発端だった。
ピカンテア領主はグランデジア前王クラウカスナの再従兄にあたる――同じ曽祖父、同じ王の血が流れているのに豪族と呼ばれ、狭い領地を与えられただけだ。王家の一員にすらなれない……そんな不満を募らせてのものだと言われている。
クラウカスナはなにかとピカンテア領主に気を遣い、事なく治めようとしたようだ。が、軍事蜂起され、やむなく討伐したことになっている。グランデジア側の記録しか残っていないのだから、ピカンテア側の言い分を知ることはできない。
荒れすさぶ戦場、隠れようと逃げ込んだ天幕、そこに来たのは一人の少年――少年はグランデジア国王太子リューデントだった。
助けてあげると言う言葉に疑問も抱かず、なぜ信じたのだろう? リューデントに導かれるまま、道具入れに隠れて運ばれた先はグランデジア王宮、母さまと同じいい匂いのする女の人が、『もう心配は要りませんよ』と抱き締めてくれた。それがマレアチナだった。安堵で胸がいっぱいになり、泣きじゃくった。気が済むまで泣きなさい、その許しにどれほど癒されたことか。
恨んでいるのに恨み切れない、むしろ愛しい。その繰り返しでスイテアは今まで生きてきた。肉親と故郷を奪ったグランデジア王家、恨みは消えたのかと己に問えば、『否』と答えが返ってくる。身を挺して逃してくれた、母の叫びが忘れられない。だがその母の面影がマレアチナの微笑みに重なる。
そして今、愛を誓ったリューデントを殺した男……仇を討つためにスイテアから近付き、殺すことは叶わないと思い知らされ、いつかおまえに殺されてやると嘯く男リオネンデを愛している。リューデントと同じ顔、同じ声、同じ仕草、同じ癖、すべてが同じかとも思える双子の弟リオネンデ。いくら事情があろうとも双子の兄を手に掛けた、だから俺はおまえに殺されてやると笑うリオネンデ――
(わたしは……)
リューデントを恋しいと思う気持ちは消えていない。会いたくて仕方ない。夢にリューデントが現れて目覚めた朝は、その幸せと切なさに涙が滲む。わたしを抱いて眠るこの男は、リューデントではないのだと胸が塞がれる――今も心のどこかでリオネンデを恨んでいる。
(わたしは何を望むのだろう?)
生きていて。あなたに死んで欲しくない……リオネンデを見てそう思う。いつか殺すつもりなのにそう思う。ほかの誰かに殺されないためにそう思うのではなく、自分で殺すためにそう思うのでもない。ただ生きていて欲しい。
恨みの残るグランデジアを母国と思うようになり、憎しみが消えないリオネンデは離れがたい存在となった。相反する思いはどちらも真実、心とは理屈で割り切れるものではない。
生きていて。生き延びて、そして幸せになって――戦火の中で最後に聞いた生母の声は、スイテアに生きて幸せになる義務を課した。同じ義務をリオネンデにも背負わせたい。
生きるという事は権利じゃない。義務だ。ひとたび生を享けたなら、生き抜いて幸せになる、それは義務だとスイテアは思った。では幸せとは?
肉親の愛に包まれた幸せな少女時代は突然失われた。中断された幸せがマレアチナの暖かさで取り戻され、そしてリューデントが燃えるような情熱の喜びという新たな幸せを教えてくれた。そしてそれもまた、失われた。
(リオネンデの傍での今の暮らしで、わたしは幸せなのだろうか?)
不幸の種は消えていないと感じる。リオネンデは復讐を考えているし、スイテアも復讐を忘れていない。きっと幸せな人は復讐なんて考えない。
(という事は、リオネンデ……)
ついスイテアがリオネンデの頬に手を伸ばす。
(あなたもまた、幸せではないという事? わたしではあなたを幸せにできないという事?)
スイテアに触れられたリオネンデがゆっくりと目を開く――




