徒花は咲きもせず
立ち上がった時に倒れてしまった椅子の上にサシーニャが手を広げる。背凭れが糸で引かれるようにように浮き上がり、サシーニャの手に収まった。置き直した椅子に静かに腰かけたサシーニャが、溜息交じりに薄く笑う。
「まさか、いきなり殴りつけてくるとは思いませんでした」
入室してすぐにジャルスジャズナが投げてきた魔法の礫を言っている。いつものシレっとしたサシーニャだ。今の今、怒鳴ったことなど忘れてしまったように落ち着いている。
濡れた顔をゴシゴシこすりながらジャルスジャズナが苦笑した。
「怒っているって言ったけど、わたしだって怒ってたんだ。次に会ったら引っ叩いてやるって思ってた」
「なにかわたしがしましたか?」
「したさ――魔術師の塔を出てどこに行っていたって、さっき訊かれたけど、おまえだってあの日は王宮どころか、フェニカリデにさえいなかったじゃないか」
「確かに……ベルグに居りました」
「あの頃、おまえは頻繁にベルグに行っていた。わざわざ休暇を取ってね」
「それは表向きのこと、先王の密命でのベルグ行きです」
「……そんなこと、密命だなんて、わたしが知るはずもないじゃないか」
ゆっくりとサシーニャが視線をジャルスジャズナに向け、すぐにまた逸らす。
「それで? 公用だろうが私用だろうが、ベルグに行っていたからと、怒られる謂れはないように思えるのですが? 時が悪かったのは認めますが……」
「みんな噂してた。サシーニャが足しげくベルグに行くのはベルグに、その……恋人がいるんだと」
絞り出すようなジャルスジャズナの声、サシーニャは少しも表情を変えない。
「それが? ただの噂で真実とは違うし、仮に真実だとしても、やはりジャルスジャズナさまがお怒りになることではないのでは?」
「そりゃ、そりゃあそうだけど。そりゃあそうなんだけど」
ジャルスジャズナの生乾きの頬が羞恥で赤く染まる。
「だいたい、わたしの相手をしてくれるのは身内しかいませんよ」
吐き捨てるようなサシーニャの言葉に
「身内?」
ジャルスジャズナが確認するように問う。
「養父母、叔父夫婦、妹と従弟、そして義姉のあなた。義兄たちはわたしに近寄りませんでした」
「うん、兄たちはおまえをどう扱っていいか困っていた」
「そうでしょうね、わたしは異質ですから」
「サシーニャ!」
「子どものころのように拗ねている訳ではありませんよ――認めているだけです」
「認めている?」
「わたしの髪は金色で瞳は青、そして肌は周囲と比べて驚くほど白い。それがわたしであり、変える必要はない。だけど見れば驚く人もいる。怖がる人だっている。それは当然のことで、わたしが悲しむことはない――これもあなたが教えてくれたことです」
「気にするなとは言った」
「ジャルスジャズナさま、そんな異質なわたしと心を通わせるほど親しくなるのは難しいと思いませんか? まず、ひと目見ただけで相手はわたしを否定する」
「いや、それは――」
「否定されたってかまわない。でも否定されているのに、どうしても近づきたいと思うような相手に、わたしは今まで出会ったことがありません」
自嘲じみた笑いをサシーニャが浮かべる。
「部下や、なんらかで知り合った人と親しくなることもあります。でも気が付いてしまう。彼らの中にはわたしを異質と見る部分が少なからず残っている。まぁ、わたしが異質なのは紛れもない事実なのだから仕方のないこと、わたしへの信頼は、わたしの肩書に向ける信頼でしかない――わたしには生まれてこのかた、恋人どころか友人すらいない。きっとこの先もこのままでしょう」
「そんな、サシーニャ――」
「わたしは身内にさえ、本心を曝け出していない。養父母にも叔父夫婦にもどこか遠慮していた。これはわたしが異質だからではなく、世話になっているから。そして従弟たちにも――今や一人きりになった従弟は王であり、互いの立場を尊重しない訳にはいかなくなった。妹も嫁して単純には身内と言えなくなった。そしてただ一人、何も隠さず話せる相手だったあなたは遠い存在になってしまった」
ハッと息を飲むジャルスジャズナ、それきりサシーニャも黙り込み、再び部屋に静寂が訪れる。
やがてジャルスジャズナが身動ぎし、溜息を吐き、そして詰った。
「サシーニャ、おまえ、正式に魔術師になった途端、わたしに目もくれなくなったよな?」
これには、首を傾げてジャルスジャズナを見るサシーニャだ。思い当たることがないと言いたげだ。
「最初は周囲の目を気にしているんだと思った。でも違った。明らかにおまえはわたしを避けていた」
言い募るジャルスジャズナを見てはいるが、サシーニャは何も言わない。
「そのおまえに通う相手ができた。きっとその相手には悩みや苦しさを打ち明けているんだろうと思った――わたしには打ち明けてくれなくなったのに!」
サシーニャが何か言いかけてやめる。それをジャルスジャズナは許さない。
「言いたいことがあるなら言ったらどうだ? いつからおまえはわたしにさえ心を隠すようになった? 見捨てたと言ったが、そっちが先だろうが?」
「それは……」
サシーニャがジャルスジャズナから目を逸らす。
「それは自分でもよく判らないのです」
「は?」
「今でもあれが何だったのか、理解できていません」
サシーニャがジャルスジャズナに向き直る。真直ぐ自分を見詰める眼差しにジャルスジャズナが怯んだ。
「それに、あなたがわたしを避けるから、わたしも避けるようになったと言うのが正解では?」
「それは……」
「正式な魔術師と認められ、わたしは筆頭魔術師直属となった。そしてあなたとの顔合わせ――あの時、あなたからはいい香りがしていて、近くにいる喜びにわたしの胸は震えていた。それなのに、終わったあとに話しかけようとしたわたしから、あなたはふいッと距離を置いた」
「サシーニャ……」
「会いたかった、そう告げようとしたのに『しっかり働くのだよ』と言ってあなたは去ってしまった。そして思い出したのは、魔術師筆頭になって苛めたヤツらを見返してやれ、と言ったあなたの言葉」
サシーニャの言葉の裏にある真意を探ろうとジャルスジャズナはサシーニャの顔を食い入るように見つめ続ける。
「筆頭魔術師の地位に上り詰めれば、あなたはわたしのところに戻ってくれるとわたしは信じた。あなたが戻ってくれば、きっとわたしの中で騒いでいるものの正体も知れると思った。あなたを見るたび湧きおこる動揺、それがなんなのかを確かめたかった」
サシーニャ、それは……ジャルスジャズナが熱くなるのを感じる。心が、そして瞼が熱くなるのを感じていた。
「だからわたしは筆頭魔術師になる決意を強め、与えられた任務は求められる以上の成果を出すよう努めた。少しの空き時間も無駄にせぬよう研鑽を積んでいった。あなたがわたしを避けるのは、その邪魔をしないよう、あなたが考えてのことと思うようにした。あなたに会えば心が騒ぐ、集中できなくなる。会いたい気持ちと会ってはいけない気持ちがせめぎ合っていた」
(そうじゃないんだ、サシーニャ、わたしもおまえと同じ、おまえを見れば心が騒ぐ。それをおまえに知られたくなかった)
サシーニャを見詰めながら、サシーニャの声を聞きながら、ジャルスジャズナが声に出さずに叫ぶ。
(子どもだと、弟だと思っていたおまえが、いつの間にかわたしより背の高い……男になっていて、迂闊にもわたしはひと目で恋に落ちてしまった。それをおまえに知られなくて、わたしはおまえを避けた。だって、カッコ悪いじゃないか、七つも下の男に熱をあげるなんて。いまさらわたしは女です、なんて、おまえに言えるわけないじゃないか)
そして今、その思いが自分だけではなかったと知った。
(わたしは馬鹿だった。忘れようとして酒に溺れる必要はなかったんだ。他の男に縋る必要なんかなかったんだ。おまえは自分じゃ判ってないようだけど、サシーニャ、それは恋ってもんだよ。おまえもわたしに恋をしてくれていたんだね)
ジャルスジャズナの頬がまたも涙に濡れていく。
(わたしは今でも変わらない。おまえを包み込み、傷ついたおまえを癒したい。いろいろわたしから教わったとおまえは言うが、そこに〝恋〟を加えるってのもいいだろう?)
「いつか筆頭魔術師になり、あなたに会いに行こうと思っていた。でもあの火事で、あなたは所在不明となり、わたしは不本意な形で筆頭魔術師の地位についた――ずっと探していたのです、あなたを」
サシーニャの熱を帯びた瞳をジャルスジャズナが見詰める。
「そしてやっとあなたを見つけた。でも――」
「でも?」
言葉を切ったサシーニャにジャルスジャズナがぎょっとする。でも? なぜここに否定の言葉が入る?
「うん……」
サシーニャがジャルスジャズナから視線を外す。ジャルスジャズナがサシーニャの瞳を追う。
「あなたを探し始めた時にはわたしの中にあった理解できないあなたへの思い、それがあなたを心配するうちに消えてしまった」
「消えた?」
「今ではあなたを思っても、あの時のようには感じない。あの胸騒ぎを思い出せもしない。もう、正体を突き詰めることもできない……残念だけどこれも仕方のないことだ」
「なぜ?」
「思い出せなければ、無理でしょう? 例えば赤くて丸い果物と思い出せばリンゴかもと推測できる。でも色も形も何もかも思い出せなければ手掛かりが――」
「そうじゃなくって!」
忘れた理由が聞きたかった。これも心変わりってやつなのか? いいや、そうじゃない、変わるも何も、始まってもないじゃないか。いや、そうじゃない、サシーニャ自身が自覚さえしていない。
「そうじゃなくって?」
問うサシーニャは子どものころのように素直だ。嘘や誤魔化しは感じられない。本当に、サシーニャのわたしへの思いは自覚もないままに消えてしまったんだ。
腹立たしかった。自分がか? サシーニャがか? 判らないままジャルスジャズナが叫ぶ。
「そうか! やっぱりおまえはわたしなんか忘れたって言うんだね!」
サシーニャに指を向け、立ち上がり、ジャルスジャズナが叫ぶ。
「どうせ筆頭魔術師さまにはわたしなんか不要だろうさ。だったらなんでおまえはわたしなんかに会いに来たんだ?」
わたしの思いは実ることのない徒花だった。徒花ならまだマシか? 蕾はついていたはずなのに、咲くこともなく散っちまった――




