ジャッシフの忠誠
そのあとリオネンデは再び寝台に横になった。が、寝返りを繰り返し、どうにも寝付けないようだ。とうとう起き出して寝台の横に置かれたチェストから軟膏を出し上衣を脱ぐと、左肩に塗り始めた。
「痛みが酷いようですね」
スイテアが言うと、
「おまえを抱いて階段を上ったのが障ったようだ。捨てていけばよかった」
リオネンデが憎まれ口をきいた。
「重かった?」
「いや、さして……火傷だけじゃないんだ。焼け落ちた天井の一片を肩で受けて、骨折している。それがズレたまま固まってしまった。さっきも言ったが、常に痛むわけじゃない。でも、一生痛みは続くとサシーニャは言ってたな」
「……」
「あの日、サシーニャが王宮にいれば、火傷も痕を残さず、骨もずれずに済んだらしい」
「サシーニャさまはいなかったのですか?」
「父上に命じられて、ベルグに出向いていた。帰ってきたのは三日後だ。もう少し遅れていたら、俺も命がなかったかもしれない」
「なぜ……」
「なぜ?」
スイテアの声が小さくなる。
「なぜ、国王さまや王妃さま、リューデントさまを?」
「――なぜ殺したか、か?」
リオネンデが軟膏を塗りこむのを止めてスイテアを見た。そしてやはり声を潜めた。
「父上を毒殺したのは俺じゃない。母上は自害した。原因は――はっきりした理由は判らない。リューデントは……リューデントは二人の死を知って取り乱した。それを止めようとして俺が殺した」
「リューデントさまが取り乱した? 王妃さまが自害した?」
スイテアの身体が震える。
「母は太陽の紋章が刻まれた短剣で咽喉を突いていた。父の紋章だ。夫が毒殺されたと知って、あとを追ったのかもしれない」
「王妃さまの紋章はヒマワリでした」
「父と結ばれたときに定めたものだ――そう言えば、おまえの紋章を決めてなかったな。なにがいい?」
「わたしにそのようなものは……不要では?」
これ以上リオネンデに取り込まれたくない、そうは口にできないスイテアだった。
リオネンデは詰まらなさそうに
「まぁ、いい。考えておく」
話を打ち切ると、軟膏塗りを再開させた。背中に塗るのには苦労しているようだ。スイテアが近寄って、黙って手を差し出した。
「ん?」
「お手伝いしましょう」
瞬時、リオネンデはスイテアの顔を見たが、
「そうか、では、肩甲骨に沿って塗り込んでくれ」
軟膏の容器を渡してきた。
(肩甲骨……自分では塗りにくいだろうに、なぜ後宮の女を呼ばないのだろう?)
そんな事を思いながら、言われたとおり肩甲骨に沿って、軟膏を付けた指を滑らせる。
(……確かに、ここにずれがある。カクンと段差がある――)
肩甲骨が腕を動かすのにどれほどの影響があるのか、スイテアには判らない。けれど、女をひとり抱き上げて階段を昇れば、障りが出るかもしれないと思った。
火傷は左の肩の中ほどから腕に向かい、肘の少し上まで届いている。そして左肩から背中には、腰の少し上まで先細りの帯のように続く。後ろに回っているスイテアから今は見えないが、確か胸は鎖骨の下まで火傷があった。
「醜いだろう?」
リオネンデが苦笑とともに言った。
「触れるのも悍ましいほどの醜さだ。焼け爛れ引き攣れ、赤黒かったり白かったりで斑になっている。後宮の女たちは震えて泣き出すから頼めない。あの気丈なレムナムでさえ、指先を震えさせる――同情してくれたようだが、無理しているんじゃないのか? やめてもいいんだぞ」
「醜いなどとは……悍ましいとも思いません」
そう言いながらスイテアはリオネンデの二の腕を見る。赤黒く変色したその場所の、同じところにリューデントの鳳凰はあった。鳳凰の代わりにリオネンデは、醜い焼け跡をその腕に印したか……兄を殺した罰のようだ。
「おまえも判らんヤツだな。俺を憎んでいるんだろうに……」
これはリオネンデの独り言だった。
もういいぞ、とリオネンデが言う。軟膏に蓋をして返すと、『ありがとう』と微笑んだ。スイテアは、そんなリオネンデから顔を背けた。
効き目が早い軟膏だったようで、リオネンデはすぐに寝息を立て始めた。いつも怖い顔をしているが、心なしか顔つきが穏やかに見える。
リオネンデはスイテアを『判らんヤツ』と言ったけれど、リオネンデのほうがよっぽど判らないとスイテアは思う。特にリオネンデの評判はガセばかりに思える。少なくとも後宮にいる限り、残虐さや好色さは――スイテアに対しては兎も角――感じられない。
それに……リューデントを殺した理由も、リオネンデが真実を言っているなら、事故だったように思える。
でも、もし事故だったなら、わたしがここにいる意味はなんだろう? リオネンデを殺し、リューデントの無念を晴らすためではなかったか?
しかも、リオネンデは殺されたがっているようにスイテアには思えた。そのうち『俺を殺すのはおまえだ』とリオネンデが言い出すような気がする。
そろそろ正午になる頃、スイテアがリオネンデを見ると、どうも熟睡している。今ならスイテアでも殺せそうだ。でも、きっと無理だとスイテアは感じる。殺気を持った途端、リオネンデは察して飛び起きる、そんな気がした。
「リオネンデさま……」
寝台の傍らで呼びかけてみる。少し動いたようだが、目覚める様子がない。
「リオネンデさま?」
顔を覗き込んで呼びかけてみる。一瞬、目覚めたが、すぐ睡魔に引き戻された。
「リオネンデさま」
今度はそっと身体に触れてみた。すると、その手がサッと掴まれた。
「おまえか……」
リオネンデがスイテアの顔を見てホッとする。
「おまえの夢を見ていた……黄色い秋桜が一面に咲いていて、おまえが花を摘み、それを俺にくれた。男の癖に花を貰って喜ぶなど情けないと思いながら、とても嬉しかった――」
「黄色い秋桜がお好きで?」
「……いや、夢の話だ。夢の中のことまで判らん――ジャッシフが来る時刻だな」
リオネンデが身体を起こした ――
約束通りに現れたジャッシフ、部屋が狭くなったと苦情を言った。
「なんだか狭苦しい……今までの、広々した部屋が恋しいぞ」
「フン、贅沢なヤツだ。人の部屋にまでケチをつけるな――三日後には寝所を奥に移す。寝台がなくなる分、前より広くなる」
それで用事はなんだ? とリオネンデが問う。
「ベルグへの視察の予定をはっきりしていただきたい」
「ベルグ……治水の件だな。護岸工事を始めるか?」
「サシーニャが何年もかけて見通しを立てました。あとは王がお出ましになり、確認なさってお許しいただければ、工事の手配を始められます」
「面倒だな」
「リオネンデ!」
「必要で、見通しが付いているのに、工事のことなど判らぬ者に何を確認しろと言うんだ? サシーニャとジャッシフ、おまえに任せたことだ、俺を待たずに進めていい」
「また、そんな無茶を言う……国の金を、王の決済なく動かせないことはお判りでしょう? その王が、計画書を見たのみで決めたとなっては、大臣どもがなにを言い出すことか」
「あぁあぁ! もういい、煩い。判った、見に行けばいいのだろう? 今回は見に行ってやる。だが、そのうち法を変えて、責任者の裁量で進められるようにする」
するとジャッシフが嬉しそうな顔で
「それでは、あの大臣どもと論戦を繰り広げるのですね。リオネンデが大臣どもを言い負かすのが楽しみです」
と笑った。リオネンデが会議を嫌がって、なにを言われても『好きにしろ』で終わらせるのを知っているジャッシフの皮肉だ。リオネンデが苦虫を噛み潰したような顔でそっぽを向いた。
視察の準備を始めると言うジャッシフにリオネンデが、
「その視察、スイテアを随行させるぞ」
と言い出して、驚いたジャッシフが『そんなにあの女が気に入ったのか』とリオネンデを責める。
「今まで女に見向きもしなかったおまえがどういうことだ?」
顔色を変えて、猛反対する。
「女を連れて行きたいなら、また別の機会にしろ、旅行なら形もつく。だが、視察には連れていけないぞ、遊びじゃないんだ。リオネンデ! おい、こら、聞いているのか?」
ジャッシフの怒鳴り声を聞き流しているリオネンデに気付いたジャッシフがリオネンデに詰め寄る。
「リオネンデ、なんとか言ったらどうだ?」
「……なんとか」
「リオっ!」
ジャッシフが真っ赤になり、さすがのリオネンデも拙いと思ったのか、
「まぁ、そんなに怒るな。俺とて遊びじゃないことは判っている」
下手に出た。
「だったら、連れていくのは諦めるな?」
「そうだな……今回は諦めてもいい」
「今回は、って――」
「聞け、ジャッシフ」
「なにが言いたい、リオネンデ? 言葉を重ねて俺を騙そうと思うなよ」
「今日、サシーニャに連れられて王家の墓地に行ってきた」
「今日? あぁ……もうそんな時期か」
「スイテアも連れて行った」
「……なんだって?」
「王家の墓廟に、俺とスイテアの髪を重ねて奉じてきた」
ニヤリとリオネンデがジャッシフの顔を見る。ジャッシフの顔が見る見る蒼褪めていった ――




