異世界恋愛「ざまぁ」短編集 ~不遇令嬢と、彼女を見抜く最強の理解者~
偽聖女の烙印を押され追放された私を、冷酷と噂の魔導公爵様だけが「本物」だと見抜いてくれました 〜恩返しに未来の破滅を回避したら、いつの間にか溺愛されています〜
「―――いやっ!」
絞り出すような悲鳴で、私は夢から覚めた。
冷たい汗が背筋を伝い、シーツを固く握りしめた指先が白くなっている。まただ。ここ数日、私を苛み続ける悪夢。
いや、これはただの夢ではない。 聖女の血筋として私、アリアに唯一発現した力――【予知夢】だ。
思い出すだけで、呼吸が浅くなる。 炎に包まれる王都。人々の絶叫。そして、私の婚約者であるエリオット王太子を守るように立ち塞がる、ひとりの男。
黒銀の鎧を纏い、無骨な大剣を構えるその背中。 『冷酷非情』『戦狂い』と王都で噂される、北の魔導公爵。
ギルバート辺境伯。
「―――ギルバート、様」
次の瞬間、予知夢の中の彼は、制御を失った聖なる光――否、暴走した魔力の奔流に貫かれ、鮮血と共に崩れ落ちた。
その光景が脳裏に焼き付いて離れない。
同時に、その大惨事を引き起こす直前の光景も。王宮の広場で、王太子エリオットが、庇護欲をそそる可憐な少女――リリアナを抱きしめ、私を指差して叫ぶ姿。
『偽聖女アリアよ! お前のような暗い女ではなく、彼女こそが真の聖女だ!』
断罪。婚約破棄。そして追放。 それが私に定められた未来。
けれど、そんなことはどうでもよかった。 私が虐げられ、偽物と罵られ、王都を追われることなど、今までの人生を思えば些細なことだ。
問題は、ただひとつ。 あの人が、ギルバート様が、死んでしまうこと。
それだけは、絶対に、あってはならない。
◇◇◇
聖女の血筋である公爵家に生まれながら、私、アリアの力はあまりに微弱だった。
光り輝く治癒の御手を見せた妹とは違い、私の力は不安定な【予知夢】だけ。それも、幼い頃は制御ができず、不吉な未来ばかりを口走っては「出来損ない」「不吉な子」と疎まれた。
いつしか私は、陽の当たらない屋敷の別棟に押し込められ、幽閉同然の生活を送っていた。家族からは忘れられ、使用人からは侮蔑され、私の心はゆっくりと死んでいった。
そんなある日。 北の辺境を守る若きギルバート辺境伯が、魔獣討伐の報告のために父を訪ねてきた。
私は偶然、庭の片隅で彼に出会った。 噂に違わぬ、恐ろしい人だった。顔には古い傷跡があり、分厚い鎧に包まれた体躯は威圧感に満ちていた。『黒銀の魔導公爵』という異名は伊達ではなく、その灰色の瞳は氷のように冷たく、私を射抜いた。
「……公爵家のご令嬢か」
低い声に、私は恐怖で竦み上がる。 まただ。どうせこの人も、「出来損ない」と蔑むに違いない。 私が固く目を閉じた、その時。
「―――その力は、いつか必ず誰かを守る盾となる」
予期せぬ言葉に、私は顔を上げた。 彼は、私の力の正体を見抜いていた。 「不吉だ」と誰もが忌み嫌った私の力を、彼は「盾」だと言ったのだ。
「……盾、ですか」
「あぁ。未来を知ることは、それに対する『備え』を可能にする。それは何者にも代えがたい、最強の防御だ。……お前の力は、世界すら救える」
彼はそれだけ言うと、無骨な手で、ぎこちなく私の頭を撫でた。 その手は、驚くほど温かかった。
たった一度の出会い。 たった数分の会話。
だが、それは死んでいた私の心を蘇らせるには十分すぎた。 『冷酷非情』と噂される彼が、実際は誰よりも道理と本質を見抜く、優しい人であると知った。
あの日から、ギルバート様は私の恩人であり、私のすべてになった。 いつか必ず、この力で彼に恩返しをする。 それだけを胸に、私は虐げられる日々を耐え抜いたのだ。
◇◇◇
「……というわけだ、アリア。お前もリリアナの補佐として、真の聖女である彼女を支えてやってくれ」
王宮の一室。
婚約者であるエリオット王太子の執務室は、本来ならば未来の妃を迎える場所として、温かな空気に満ちているはずだった。 しかし、今、そこに満ちているのは針の筵のような冷ややかな空気だ。
理由は、王太子の隣でにこやかに微笑んでいる少女、リリアナ。 最近になって王都に現れた、平民出身の聖女。
王太子は、私という婚約者がいながら、公務の合間を縫っては彼女を城に呼び寄せ、親しくしている。すでに王宮内では「王太子殿下は、暗いアリア様よりも、明るく可憐なリリアナ様にお心移りだ」と噂されていた。
そして今、私の【予知夢】が現実になろうとしている。
「お待ちください、エリオット殿下」
私は、目の前で繰り広げられる茶番を遮り、低い声で進言した。 「そのリリアナ嬢の力……本当に『聖女』のものでしょうか」
「何だと?」
エリオットの表情が険しくなる。リリアナが「ひっ」と可哀想に怯えたふりをして、王太子の腕にしがみついた。
私は構わず続けた。 絶望的な焦りが、私の背中を押していた。恩人の死が、刻一刻と近づいているのだ。
「先日、私は予知夢を見ました。王都が火の海となり、制御を失った光の奔流がすべてを破壊する未来を。……その光は、リリアナ嬢が放っていたものと酷似しています」
これは警告だ。
今すぐ彼女を王宮から遠ざけ、その力の暴走を抑えなければ、すべてが手遅れになる。ギルバート様が死んでしまう。
だが、エリオットは私の必死の訴えを、鼻で笑った。
「はっ。アリア、お前はまだそんな不吉な夢物語を信じているのか」
冷え冷えとした侮蔑が、その声に滲む。
「大方、私がリリアナと親しくしているのが気に入らず、嫉妬に駆られて嘘を並べているのだろう」
「違います! これは嫉妬などでは……!」
「黙れ!」
エリオットの怒声が響く。
「いい加減にしろ、アリア! お前が『出来損ない』であることは知っている。その暗い性格も、不吉な力も、王太子妃にふさわしくないことは百も承知だ! それに引き換え、リリアナは……」
王太子は、うっとりとした目でリリアナを見つめる。
「彼女の力は本物だ。暖かく、皆を幸せにする。お前のような暗い女より、リリアナこそが聖女にふさわしい!」
―――ああ、ダメだ。
その言葉を聞いた瞬間、私はすべてを理解した。 王太子は、完全にリリアナに夢中だ。何を言っても無駄だ。 彼は、私の警告を「嫉妬」の一言で片付け、破滅へと突き進む気なのだ。
私の内面を占めていたのは、婚約者への失望感と、そして恩人を救えないかもしれないという、底知れぬ絶望だった。
「……もう、よろしいのですか」
私はそれ以上、何も言わなかった。
「アリア……?」
「失礼いたします」
冷え切った心で、私は王太子の執務室を後にした。 大理石の廊下は、真冬のように冷たい。
予知夢は、もはや覆せない。 警告は失敗した。 数日後に迫った建国祭の式典で、私は王太子に断罪され、「偽聖女」として追放されるだろう。
だが、私の心は不思議と凪いでいた。
(予知夢で見た「追放」が避けられないのなら……)
私は立ち止まり、北の空を見つめた。
(ならば、その運命を逆手に取るまで)
私の追放は、どうでもいい。 リリアナがどうなろうと、王太子がどうなろうと、知ったことではない。 だが、ギルバート様。あなただけは、絶対に死なせない。
この不吉な【予知夢】の力を、恩人から教わった通り、「最強の盾」として使ってみせる。
私は、破滅の未来に抗うための、たったひとつの反撃策を胸に、静かに決意を固めた。
◇◇◇
運命の日、建国祭は、皮肉なほどの晴天に恵まれた。
王宮の広場は、着飾った貴族たちで埋め尽くされている。誰もが国の繁栄を祝い、この後に続く華やかな祝宴に胸を躍らせていた。
私は、その喧騒の中心にいながら、まるで厚いガラス板を隔てたかのように、独りだった。 王族の席には、輝くばかりの笑顔を浮かべたエリオット殿下と、その隣で初々しく微笑むリリアナ嬢の姿がある。国王陛下はその様子を複雑な表情で見守っておられたが、王太子の勢いを止めることはないようだ。
本来、王太子婚約者として私が立つべき場所は、そこだった。 だが今、私は「聖女の血筋」というだけの理由で末席に近い貴族の列に押し込められ、周囲からは好奇と侮蔑の視線を浴びている。
(……来る)
私は、血の気が引くような冷静さで、その瞬間を待っていた。
私が見た予知夢。
王太子に警告し、そして拒絶された、あの絶望の未来。 それが今、現実となって目の前で再生されようとしていた。
やがて、祝辞や儀礼的な挨拶が終わり、広場が静まる。 エリオット殿下が、喝采に応えながら一歩前に出た。
「国民よ、そして集まってくれた貴族諸君。今日は建国を祝う、喜ばしき日だ。そして、この良き日に、私は王国にとっての『真実』を諸君らに伝えなければならない」
その声は、若き王太子らしい、よく通る声だった。 だが、その声に含まれた熱狂と独善に、私はそっと目を伏せる。
「我々は長らく、聖女の血筋である公爵家のアリアこそが、次代の聖女であると信じてきた。……だが、それは間違いだった!」
広場が、水を打ったように静まりかえった。 集まった貴族たちが、驚愕に目を見開き、一斉に私に視線を向ける。
エリオット殿下は、満足げにその反応を見渡した後、優雅な仕草でリリアナ嬢の手を取った。
「ここにいるリリアナこそが、神に選ばれた『真の聖女』だ! 彼女の力は暖かく、奇跡の光で人々を癒し、勇気づける!」
リリアナ嬢は、まるで聖画から抜け出たかのように清らかに微笑み、王太子の腕にそっと身を寄せた。 その瞬間、貴族たちから、どよめきと……そして、納得のため息が漏れた。
「ああ、やはり……」
「リリアナ様こそ、真の聖女にふさわしい」
「それに引き換え、アリア様は昔から暗く、不吉なことばかり口にされていた……」
ひそひそと交わされる声が、私の耳に届く。 予知夢で見た通りの展開。 彼らにとって、都合の良い「物語」が完成した瞬間だった。
そして、エリオット殿下の手が、私を真っ直ぐに指差した。 糾弾の始まりだ。
「アリア! お前は『偽聖女』だ!」
金切り声に近い、甲高い非難。
「お前は、自らの立場が危うくなることを恐れ、嫉妬に駆られてこのリリアナを害そうとした! あまつさえ、その不吉な力で王太子である私を惑わせ、王国を危機に陥れようとしたのだ!」
ああ、やはりだ。 私が必死で伝えた「警告」は、「嫉妬による害意」にすり替えられていた。 もはや、弁明の余地はない。
王太子は、恍惚とした表情さえ浮かべ、私を見下している。
「お前のような暗い女より、リリアナこそが聖女にふさわしい!」
予知夢で聞いた、決定的な言葉。 周囲の貴族たちは、もはや疑いもせず王太子の言葉に同調し、私を冷酷な目で射抜いている。私の両親や妹さえ、公爵家の面汚しとばかりに、厳しい視線を向けていた。
だが、私は絶望しなかった。 心は、凍てつく冬の湖面のように静まり返っていた。
(すべて、知っていたこと)
この屈辱も、この孤独も、すべて予知夢で見た通り。 私は、この瞬間のために、ずっと覚悟を固めてきたのだ。 私の視線は、断罪する王太子でも、勝ち誇るリリアナでもなく、ただ一点に向けられていた。
貴族たちの列の前方。 国王陛下の傍らに控える、長身の男性。 黒銀の魔導公爵、ギルバート辺境伯。
彼は、噂通り、氷の彫像のように無表情でそこに立っていた。 王太子の狂騒的な演説にも、周囲の貴族たちの興奮にも、まるで興味がないかのように。
(……本当に、冷酷な人なのだろうか)
一瞬、不安がよぎる。 もし、彼が噂通りの『戦狂い』で、他人の運命などどうでもいいと思っていたら? もし、幼い日の私にかけた言葉など、とうに忘れていたら?
だが、私が彼を凝視した、その時。
ギルバート様の眉が、ほんのわずかに、認識できるかできないかほど微かに、顰められた。 それは、怒りではない。焦りでもない。 目の前で繰り広げられる愚かな茶番劇に対する、深い、深い―――不快感と軽蔑の色だった。
(……ああ)
その微かな表情の変化を見た瞬間、私の覚悟は、揺るぎない確信に変わった。 この人は、変わっていない。 噂とは違う、本質を見抜く、道理の人だ。 幼い私に「お前の力は盾になる」と教えてくれた、あの温かい手の持ち主だ。
私は、彼が死ぬ未来を、絶対に受け入れない。
「―――よって、ここに宣言する!」
エリオット殿下の声が、私の意識を現実へと引き戻す。 彼は、勝利の宣言のように、高らかに叫んだ。
「聖女アリアとの婚約は、本日をもって破棄する! そして、『偽聖女』として王国を欺いた罪により、アリアを国外へ追放するものとする!」
「追放!」「追放!」「追放!」
同調する貴族たちの声が、広場にこだまする。 王太子は、私に勝ち誇った笑みを向けた。 私が泣き崩れ、許しを乞う姿を期待しているのだろう。
だが、私は背筋を伸ばし、その視線を真っ直ぐに受け止めた。 震えも、涙も、ない。
(さあ、ここからが本番よ)
予知夢のシナリオは、ここまで。 ここからは、私の「恩返し」のための、未来への「抗い」だ。
私は、王太子ではなく、その奥で静かに玉座に座る国王陛下に向き直り、深々と淑女の礼をとった。
その冷静な行動に、王太子が「なっ……」と息を呑む気配がした。
◇◇◇
「国外へ追放するものとする!」
エリオット殿下の甲高い声が、広場に響き渡る。 満足げに歪むその表情は、私が泣き崩れ、許しを乞う姿を今か今かと待ち構えている。周囲の貴族たちは、有罪判決を聞いた陪審員のように、冷酷な沈黙で私を刺していた。
(……すべて、予知夢の通り)
だが、私は知っている。 このシナリオの続きは、まだ白紙だ。
私は、勝ち誇るエリオット殿下を視界から外した。 彼に何を言っても、もう無駄だ。彼はもはや、リリアナ嬢という「物語」の虜囚でしかない。
私はゆっくりと視線を上げ、広場の最奥、玉座に座る国王陛下ただ一人を見据えた。 そして、泥水に汚されたドレスの裾を摘まみ、深く、完璧な淑女の礼をとった。
「―――謹んで、お受けいたします」
鈴が鳴るような、静かな声だった。 泣きも、喚きもしない、あまりにも冷静なその返答に、広場を埋め尽くしていた嘲笑のさざ波が、ぴたりと止んだ。
「な……」
エリオット殿下が、予想外の反応に息を呑む。
「お、受け入れる、だと……? 罪を、認めるのだな!」
「はい。殿下がそうおっしゃるのであれば」
私は顔を上げず、国王陛下への嘆願を続けた。
「ですが陛下。追放の身なればこそ、一つ、切なる願いがございます」
「ふざけるな!」
エリオット殿下が遮る。
「罪人が、どの口で願いを言うか! お前はただ、その身一つで国境の外へ放り出され、野垂れ死ぬのがお似合いだ!」
それは、王太子の婚約者へとかける言葉ではなかった。 だが、その非道な言葉が、逆に私の覚悟を研ぎ澄ませる。
「……申してみよ、アリア公爵令嬢」
静かに響いたのは、国王陛下の声だった。 エリオット殿下が「父上!」と不満げに叫ぶが、国王はそれを手で制する。
私は顔を上げ、毅然として国王を見つめた。
「エリオット殿下は、私を『偽聖女』と断罪されました。私の力は、王都を癒す『真の聖女』リリアナ様には到底及ばぬ、と」
私は、隣で庇護されるように立つリリアナ嬢を一瞥する。
「王都の皆様の安寧は、リリアナ様にお任せし、私は『偽物』として、この身の処し方を考えたく存じます」
「……何が言いたい」
「私のこの微弱な浄化の力。たとえ『偽物』であったとしても、王国で最も瘴気汚染に苦しむ地であれば、あるいは塵芥ほどの役には立てるやもしれません」
私は、そこで初めて、広場にいる「彼」に視線を向けた。
「行き先を、『国外』ではなく……かねてより魔獣の瘴気に苦しむ、ギルバート辺境伯の領地としていただくことは叶いませぬでしょうか」
その瞬間、エリオット殿下は目を剥いた。
「なっ、何を馬鹿なことを! それは追放ではない! 北の辺境領は、お前の実家よりも広大だぞ!」
違う。 王太子殿下、あなたは何もご存じない。 北の辺境が、ギルバート様がどれほどの犠牲を払い、どれほど過酷な戦いを強いられているのか。 そして、その地が間もなく、リリアナ嬢の魔力暴走によって引き起こされる瘴気の大厄災に飲み込まれ、ギルバート様が命を落とすことも。
私は、恩人を死なせないために、この「追放」を利用する。 これこそが、私の「恩返し」の始まり。
「殿下」 私は冷ややかに王太子を見返した。
「私は『贖罪』を申し出ているのです。北の地がどれほど過酷か、殿下もご存じのはず。王都から追放され、魔獣と瘴気が蔓延る地へ赴く……これ以上の罰がございましょうか」
「そ、それは……」
エリオット殿下は言葉に詰まる。 私の申し出は、あまりにも「聖女的」で、あまりにも「自己犠牲的」だったからだ。彼は、私が北の地で安穏と暮らせるとでも思ったのだろうか。
「だ、だが、辺境伯が受け入れるはずが……」
「―――受け入れよう」
その声が響いた瞬間、広場の空気が凍りついた。 地を這うような、低い、重い声。
今まで氷の彫像のように動かなかった、あの人が。 黒銀の鎧を纏った『冷酷非情な魔導公爵』、ギルバート辺境伯が、ゆっくりと一歩、前に進み出ていた。
カシャリ、と鎧が擦れる音が、やけに大きく響く。 彼は、狼狽する王太子や、青ざめているリリアナ嬢には目もくれず、真っ直ぐに私だけを見ていた。
その灰色の瞳。 噂では、氷のように冷たいと誰もが恐れる瞳。 だが、その奥に宿るものを、私は知っている。
「……アリア嬢」
彼は、確かめるように私の名を呼んだ。
「本当に、来てくれるのか」
それは、罪人を引き取る者の言葉ではなかった。 噂通りの冷酷さなど、そこには微塵もない。 そこにあったのは、幼い日の私に「お前の力は盾になる」と教えてくれた、あの時と同じ、不器用だが、確かな信頼と……微かな優しさだった。
彼は、私が「偽聖女」だなどと、微塵も思っていない。 私の申し出の真意を、その本質を、この広場でただ一人、理解してくれていた。
「はい」
私は、彼だけに微笑み返した。
「私の力が、貴方様の『盾』となるのであれば」
「き、貴様らっ! 何を勝手に!」
エリオット殿下が顔を真っ赤にして怒鳴る。 だが、もはや彼の声は誰にも届いていなかった。
ギルバート様は、王太子を無視し、国王陛下に向き直った。
「陛下。ご覧の通り、アリア嬢は自ら最も過酷な地での『贖罪』を希望された。我が辺境伯領は、長年、瘴気に苦しめられております。聖女の血筋である彼女の力を、たとえ微弱であろうとも、お借りしたい。……ご裁可を」
「そ、そんな! 父上!」
エリオット殿下が叫ぶが、国王陛下は静かに頷いた。
「……よかろう。アリア・公爵令嬢の追放先は、ギルバート辺境伯領とする。辺境伯、その身柄、確かに預かった」
「はっ」
ギルバート様が短く応える。
(やった……!)
私は固く拳を握りしめた。 予知夢で見た、最悪の「追放」という名の破滅フラグ。 それを、私は自らの手で、「恩返し」という名の、希望のルートへと捻じ曲げたのだ。
呆然と立ち尽くす王太子と、なぜか震えているリリアナ嬢を尻目に、私はギルバート様の大きな背中を見つめた。 今度こそ、私があなたを守る番です。
◇◇◇
ギルバート辺境伯に連れられ、王都を後にしてから十日。 私、アリアが辿り着いた北の辺境領は、想像を絶する地だった。空は常に鉛色に曇り、乾いた風が運んでくるのは土埃と、濃密な瘴気の匂い。王都の華やかさとは、まさに正反対の、荒涼とした大地だ。
「……すまない。酷い場所だろう」
砦に到着するなり、ギルバート様が低い声で言った。 『冷酷非情な魔導公爵』と噂される彼は、王都を出てからずっと、私を気遣う言葉ばかりを口にしていた。
「いいえ」と私は首を振る。
「ここが、貴方様がずっと守ってこられた場所なのですね」
私の答えに、彼は灰色の目をわずかに見開いた。 彼は、私が「偽聖女」の烙印を押された罪人であるにもかかわらず、砦で一番陽当たりの良い、清潔な部屋を用意してくれた。
「アリア嬢。いや、アリアと呼んでも?」
「はい、ギルバート様」
「……ずっと、君に会いたかった」
その言葉は、あまりにも不器用で、唐突だった。
「幼い日、君に会った時のことを覚えている。誰もが『不吉だ』と蔑む君の力を、私は『盾』だと確信した。いつか、この北の地を守るために、君の力が必要になるのではないかと……ずっと」
彼は噂とは真逆の人だった。 口下手で、誤解されやすいだけで、その実、誰よりも道理と情を重んじる、温かい人。 私を王都から連れ出したのは、憐れみでも、国王の命令だからでもなく、彼自身が私を「本物」だと信じ、必要としてくれていたからだった。
その日から、私の「恩返し」が始まった。 この瘴気の濃い土地では、私の【予知夢】の力は、かつてないほど鮮明になった。
「ギルバート様! 三日後、東の渓谷から魔獣の群れが瘴気を伴って現れます!」
「わかった。アリア、感謝する」
私の予知は、虐げられていた頃の「不吉な力」ではなかった。 ギルバート様は、私の予知を「最強の盾」として即座に戦略に組み込み、的確な迎撃態勢を敷く。 さらに、私が持つ微弱な浄化の力は、王都では妹の輝かしい治癒の光に隠れて「出来損ない」と蔑まれていたが、この地では違った。
「……あたたかい」
瘴気に蝕まれ、苦しんでいた兵士に手をかざすと、完全な治癒はできなくとも、その苦痛を和らげ、進行を遅らせることができた。
「アリア様……!」
「聖女様だ……」
初めは『追放されてきた偽聖女』と私を遠巻きに見ていた兵士たちや領民たちの目が、日を追うごとに変わっていった。 私の予知で魔獣の被害が激減し、私の浄化で瘴気の苦しみが和らぐ。 「出来損ない」だった私は、この地で初めて、人から感謝され、必要とされたのだ。
「アリア。無理はするな」
私が浄化の力を使って倒れそうになると、いつもギルバート様が、その無骨だが大きな腕で私を支えてくれた。
「君は、もう十分に戦っている」
その不器用な優しさに、私の心は満たされていった。 虐げられた過去のトラウマが、彼の温もりによって溶かされていく。 ここが、私の新しい居場所だ。 血の繋がりなどない、けれど、誰よりも固い絆で結ばれた、私の「家族」だ。
◇◇◇
一方、アリアという「本物の聖女」を失った王都は、破滅への坂道を転がり落ちていた。
「リリアナ! なぜだ! なぜ瘴気が浄化できない!」
エリオット王太子の苛立った声が、王宮に響く。
リリアナの力は、確かに「本物」だった。だが、それはあまりに強大で、攻撃的すぎた。人々の心を一時的に高揚させ、癒すことはできても、アリアが持っていたような、大地のバランスを整え、未来の災厄を「予知」するような繊細な力は持ち合わせていなかったのだ。
アリアという「陰」の力を追放したことで、リリアナの「陽」の力は制御を失った。 そして、ついにその日が来た。
「きゃああああっ!」
リリアナが、王太子の期待に応えようと無理に魔力を解放した瞬間、その力は暴走した。
予知夢で見た光景。 聖なる光ではなかった。制御を失った魔力の奔流が、王宮の結界を内側から破壊し、王都の地下に封じられていた古の瘴気が、黒い奔流となって噴き出したのだ。
「ひっ……! いやっ、助けて、エリオット様!」
「うわあああ! やめろ、リリアナ!」
王都は、瞬く間に地獄と化した。 アリアが見た予知夢――王都の炎上――は、リリアナの魔力暴走そのものだったのである。
「偽聖女」の烙印を押してまで手に入れた「真の聖女」が、王国を破滅させたのだ。
エリオットは、顔面蒼白で北の空を見つめた。
「そうだ……アリアだ! ギルバート! すぐにあの『偽聖女』を連れて戻れ! この厄災を、あいつに浄化させろ!」
あまりにも身勝手な命令。 だが、その命令が北の砦に届くよりも早く、私たちは「それ」を察知していた。
◇◇◇
「―――来る」
私は、北の砦の城壁の上で、南の空を見つめていた。 肌を刺すような、強大な瘴気の奔流。王都で起きた厄災が、凄まじい速度でこの北の地をも飲み込もうとしていた。
予知夢が、鮮明に脳裏をよぎる。 ―――炎に包まれる大地。そして、それを庇うように立ち塞がる、黒銀の背中。
(ギルバート様が、死ぬ―――)
違う。 あの時の予知夢は、彼が王都で、王太子を守って死ぬ未来だった。 だが、今、彼は私の隣にいる。
「アリア」
ギルバート様が、私の手を固く握った。
「君の予知通りだ。王都は、自滅したらしい」 その灰色の瞳に、恐れはない。
「だが、ここは通させん」
彼は、私を守るように一歩前に出た。 ああ、だめだ。 このままでは、彼は王都の代わりに、私とこの領地を守って、あの瘴気の奔流に飲み込まれてしまう。
「いいえ!」
私は、彼の手を強く握り返した。
「ギルバート様、私はもう『出来損ない』ではありません!」
私は恩人の前に進み出る。
「貴方が教えてくれた。私の力は『盾』になる、と!」
私は両手を広げ、迫り来る黒い津波に向き合った。 体中の魔力を、聖なる力を、すべて引き出す。 虐げられていた頃には考えられなかった、強大な力が、私の中から湧き上がってくる。
(守りたい)
私を「本物」だと見抜いてくれた、この人を。 私を「聖女様」と慕ってくれる、この地の人々を。 私の、新しい家族を!
「―――守る盾となれ!!」
私の体から放たれた光は、妹のような輝かしいものではない。 淡く、だが、どこまでも強靭な、白銀の光。 それは巨大なドームとなって、北の辺境領全土を覆い尽くした。
「おお……!」
「アリア様が……俺たちを……!」
ドオオオオン!
王都から押し寄せた瘴気の奔流が、私の「盾」に激突し、凄まじい音を立てて霧散していく。
「アリアッ!」
ギルバート様が、背後から私を抱きしめるように支える。 彼の魔力が、私の盾をさらに強固にしていく。
私たちは二人で、王都が引き起こした厄災から、すべてを守り切ったのだ。
瘴気が晴れた後、私は支えてくれていたギルバート様の胸に、顔を埋めていた。
「……守れ、ました」
「ああ」
彼は、これ以上ないほど優しい声で言った。
「君は、俺の、俺たちの……いや。世界を救う盾だ、アリア」
予知夢は、覆された。
私は恩人の破滅を回避し、彼に恩返しをすることができたのだ。 血の繋がりも、王太子妃という地位も失ったけれど、私は今、何よりも大切なものを手に入れていた。
数ヶ月後。 聖女と王太子を同時に失い、瘴気に汚染された王都は、急速にその力を失った。 代わりに、アリアという「北の聖女」の守護と、ギルバート辺境伯の統治によって、北の地は王国で最も豊かな土地として繁栄を始める。
「寒いか?」
城壁の上で、ギルバート様が、私の肩にそっとマントをかけてくれる。
「いいえ。貴方様が隣にいてくださるので、とても暖かいです」
『冷酷非情な魔導公爵』と『偽聖女』。 王都でそう呼ばれた二人は、今、北の地で、誰よりも固い絆で結ばれている。 私の「恩返し」は、私自身に、本当の幸せを連れてきてくれたのだった。
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