思考と記憶との邂逅
「――ようやく、読まれた」
胸の内側で声が響く。
アリアは反射的に本を胸に抱きしめた。鼓動が革表紙を微かに震わせる。喉が乾き、唾を飲み込む音だけがやけに大きく思えた。
アリアの柔らかな双丘に抱かれる本の気配が揺れた。
本の影から、黒い羽がふわりと舞い上がった。
闇に紛れていたそれは、月明かりを受けると瞬く間に形を結ぶ。
少年だった。黒髪に夜を宿したような瞳の少年は軽やかに棚の縁へ降り立つ。
「遅い」
短く、からかうように言って、少年はアリアを見上げる。
その声は、先ほどの囁きではない。もっと乾いて、芯がある。
「あなた……誰?」
「名が要るなら“フギン”でいい。そう呼ばれていた。」
少年は肩をすくめると、もう片方の棚の影を顎で示した。
「――で、そっちは?」
白い羽が一枚、静かに降りた。
黒とは対照的に、淡い光を帯びた羽は床に触れる前にほどけ、少女の姿をとった。
白銀の髪を肩で結い、透き通るような瞳でこちらを覗き込む。
「ムニン。そう呼んでください。」
少女は小さく会釈し、囁くように続ける。
「驚かせてしまってごめんなさい。助けを求めたのは、わたし」
アリアは言葉を失っていた。
目の前に漆黒の髪の少年と銀白の髪の少女が突如として現れた。
まるで物語そのものの存在が呼吸している。
作者の思いのもと、様々な空想をすることはあっても、それは現実には存在しない。
けれど、今は、目の前にそれが存在する。
指先が熱くなる。紙をめくるときの、あの確かな手触りに似た熱だ。
「あ、あなたたちは……何者?」
何とか声を振り絞って問いかける。。
「俺はフギン。と言ったはずだ。」
少女が柔らかな声で続ける。「私はムニンですよ。」
本気とも冗談ともつかぬ答えが返ってくる。
「……新人の、司書ですか。」
大図書館の司書の顔を全員覚えているアリアは、違うと分かっていながらも、一応尋ねる。
ムニンと名乗った少女は首を横に振った。
「違うわ。どちらかと言うと読まれる方というか、記録というか。」
「読まれる?、記録?あの、それって、どう言う…」
アリアが色々と聞こうとする前に、ムニンは白い指を唇に当てて微笑んだ。
「私たちは“読む者”を探して、ずっと旅をしていた。この無題の本こそ、わたしたち自身。ずっと 読める人を探して旅していたの。」
「本?、読める人……?」
フギンの冷たく刃のような瞳がアリアが抱く無題の本に落ちる。
「君は白紙の奥の声を聞いた。それは普通の人にはできない。この国の司書は、多くが優秀だが、 白紙の向こうの声を聴ける者は稀だ。」
「あなたは読んだ。白紙の奥に、声を見たでしょう?」
温かな瞳のムニンが続ける。
アリアは手の中の本を見下ろした。
さっき開いたページは全て空白だった。
けれど、さっき確かに、黒が生まれては消えるのを見た。
目の前にいる2人からは、確かにいつも本を読んだ時に感じる思いがある。
この世界には、目には見えないが、確かに精霊が存在するとされ、それを体系付けた魔術もある。
2人はそんな存在なのかもしれない。
「あなたは……私に、何をさせたいの?」
アリアの問いかける声は乾き、喉の奥でかすれた。
フギンと名乗った少年が、影のような一歩を踏み出す。羽音はしないのに、空気が揺れて石床がひやりときしんだ気がした。
「さっきも言ったが、俺達は探していた。書かれぬままの本に触れ、その向こうを読める者を。」
アリアは思わず本を抱きしめた。表紙から伝わる熱が、制服越しに胸元へと広がっていく。
「わたしは……ただ、本が好きなだけで……」
「好きだからこそ、聞こえるのだ」フギンが言葉を重ねる。「書き手の迷い、嘘、真実――紙に刻まれたそのすべてを。お前はこれから思考しなければならないい。」
「ねえ、お願い。」
ムニンは、ただ真っ直ぐアリアを見つめて、続ける。
「私たちを助けて。このままだと私たちの存在が消える。全ての記憶が途切れる。」




