無題の書
並び立つ書架の列が、夜の森のように暗く静まり返っている。
無数の背表紙が灯火石の光の中に並び、アリアを奥へ奥へと吸い込む。
――助けて。
囁きは再び響いた。
それは、蔵書庫のさらに奥。
廃棄予定となる古い書の棚の方角からだった。
アリアの胸にざわめきが広がる。
司書としての理性が「引き返せ」と警告を発し、心の奥にある感性は「その声を聞け」と訴える。
アリアは、自らの感性を信じ、古書たちの前に立つ。
灯火石の白光に照らされた背表紙はどれも整然と同じ高さにそろっているはずなのに、その中に混ざった一冊だけが、まるで呼吸をしているかのように存在を主張していた。
アリアがゆっくりと歩みを進めると、その一冊の古びた革装丁の本が、棚から床に落ちた。
床に寝そべるその一冊は、題も著者名も、分類符号すら記されていない。にもかかわらず、手に取る前から「そこに何かいる」と分かるほど、奇妙な存在感がある。
アリアが本を拾い上げる。
触れた瞬間、指先にぬるい熱が移った気がして、思わず息を呑む。革でも紙でもない、だけど間違いなく“本”の体温を感じる。
近くの踏み台に腰を下ろし、表紙に目を落とす。 灰白の地。題も符号もない無地。
中央に、黒と白の羽根が交差する意匠が、月光の欠片みたいに静かに輝いている。
「……羽?」
ページの縁にそっと指腹を滑らせる。
ひやりとして、すぐに体温になじむ。
ーー読む。そう思い、背筋を正すと、制服の布が肩甲骨の上で小さく鳴った。
呼吸を整え、表紙をめくる。
白。
もう一度、一枚。さらに一枚。
ページのどこにも文字がない。罫も飾り罫も、虫食いもない。完璧な空白が続いている。
どんどん、ページを開く。白、白、白。
どこまでも白紙。だが耳ではないどこか、胸の裏側で、極細の糸が弾かれるような囁きが生まれた。音とも言えない気配が、鼓動に合わせて波を立てる。
空白の奥に微かなざわめきがあった。
遠い潮騒のような、誰かの囁きのような。耳ではなく、指先と胸骨の内側で聞こえる音。
(読める……わけ、ないのに。でも、…声がする)
ー全ての始まり、全ての終わり、喜び、怒り、悲しみ、愛、憎しみ、創造、破壊、真実、虚像、記録、消却、様々な感情が流れ込んでくるー
そう読めた瞬間、ページを押さえる指に、弱い脈を感じ、白の上に色が滲んだ。
インク壺からこぼれた一滴のような、極小の黒が、ゆっくりと円を描き、細い線になり、やがて文字のかたちを取り……次の瞬間、ふっと霧のように消える。
――本が、呼吸している?
喉がからからに乾く。無意識に唇を湿らせた舌先に、紙粉が放つわずかな甘苦さが触れた。




