蔵書庫からの声
写本室へと向かう廊下は、昼間の喧噪が跡形もなく消え、灯火石の白光が石の床を磨かれた鏡のように淡く光らせる。
火気厳禁の図書館では、灯火石と呼ばれる光る鉱石が基本的に用いられている。
油ランプの明かりより明るさが均一であり、影が濃く出にくいので写本や読書に最適な照明であるが、非常に高価であるため、一般家庭では普及していない。
ナルセア大図書館において、例外的に炎があるのは、女性の彫像が持つランタン1つのみであった。
これは、いつの時代の館長が言ったのか記録はないが、「温もりも必要だ」と特別に許したものだったらしい。
写本室に戻るとアリアは羊皮紙を机に広げ、ペンをすべらせ始めた。
元々は残業はするつもりはなかったけれど、さっき読んだ歴史書の作者の思いに当てられたのか、無性に書きたかった。
灯火石の淡い光が、羊皮紙に刻まれる黒い線を優しく浮かび上がらせるたび、アリアの瞳に反射した。
――あと数行で、今日の写本は終わりにしよう。
そう思っていた矢先だった。
「……?」
ひそやかな声が、漏れるように聞こえた。
呼吸を止め、耳を澄ます。
羽根ペンの音ではない。風の音でもない。
確かに――声だった。
アリアは眼鏡の奥で碧眼を細め、羊皮紙を閉じる。
心臓がどくんと跳ねる。
図書館で時折、本から「気配」を感じることはあった。けれど、今のはただの感覚ではない。はっきりと「囁き」だった。
「……助けて」
今度は確かに聞こえた。少女のような、けれどどこか遠くかすれた声。
アリアは立ち上がり、写本室を出て廊下を見回した。
人影はない。
石造りの壁に掛けられた灯火石が、変わらず廊下に光を投げている。
声は、さらに深い方から――蔵書庫の奥から響いていた。
躊躇はあった。
勤務を終えた後に蔵書庫へ入るのは、規則違反だ。
けれど、あの声を放ってはおけなかった。
他に駆けつけてくる人の気配もないい。
アリアは足音を忍ばせながら廊下を進んだ。
石床に響く靴音がやけに大きく感じられる。
蔵書庫の重厚な扉の前に立つと、そこだけ空気が冷たいように思えた。
深呼吸を一つして、アリアは扉を押し開いた。




