囁く羊皮紙
アリアが片手で扉を押し開けて職員用の出入口から館内に入ると、そこは外の喧騒から隔離された空間となる。
司書が事務室として使う部屋は、天井が高く、窓から飛び込んでくる光は周囲を柔らかく照らす。
紙とインクの匂い、そして羊皮紙の微かに甘い香りが漂うなか、昨日からの宿直中の司書が走らせる羽根ペンの音が心地よく響いている。
アリアが事務室に入ると黙々と返却された本の整理をしている見知った顔を見つけた。
「セレナ先輩、おはようございます。」
アリアが声を掛けると、返却帳簿に目を落としていた補佐司書のセレナが顔を上げる。
「おはよう、アリア。返却が山のようよ。エミリアが分類をしているけど、整理が追いつかなくてね。」
「いつもより、返却された本が多かったんですね。私、手伝います。」
「アリア、あなたは正司書としての職務があるでしょ。」
「あの、大丈夫です。いろんな本に触れられるいい機会なので。む、むしろ幸せです。」
「じゃあ、お願いするけど、もうあなたの方が上官なんだからね。」
セレナは、少し困った顔をしながらも、アリアの申し出を受け入れ、エミリアが格闘技している受付台の奥へと案内した。
見習い司書のエミリアは、床の上に高く積まれた本に埋もれそうになっていた。
「す、すみません、アリア先輩! この分類符号だと、どの棚に……」
アリアの姿を目に止めたエミリアが、泣きそうな声で話しかけてきた。
「エミリア、まず分類符号の頭文字を見て。『H』が歴史、『M』は魔術。記号の位置はここにあるから。」
アリアが本に触れながら、符号の意味や戻すべき書棚の位置を丁寧にエミリアへ教えていく。
「あ、ここに記号があるんだ、書棚もここか……先輩、どうしてそんなに分かるんですか?」
さっきまでの涙目だったエミリアがキラキラとした目でアリアを見る。
「慣れれば符号のほうから目に飛び込んでくるから。そうすると、本が手を引くように、どこへ帰えりたいか分かるようになるの。」
「本が帰る、、ですか?」
エミリアは不思議そうに、アリアの青い瞳をのぞき込む。
「だって、本を読んでいると、書いた人の気持ちが伝わってくるから、だいたいどの棚か分かるでしょ。」
アリアも不思議そうに栗色の髪をした少女の顔を見返す。
「気持ち、ですか?」
「うん。急いでた筆圧とか、迷いの跡とか、嘘をついたときの紙の沈みとか……たぶん、誰でも分かることだと思ってたけど」
エミリアはぱちぱちと瞬きをして、次の瞬間、目を輝かせた。
「が、頑張って、わたしも分かるようになります!」
二人のやりとりを聞いていたセレナが苦笑いを浮かべる。
「エミリア、アリアは本当に本が好きすぎて、紙の声まで聞こえるのよ」
結局アリアは、午前中いっぱいを返却分類の手伝いに費やし、昼食を取った後、事務室で写本すべき本と途中からまで書き写された羊皮紙を受け取り、アリア専用の写本室へ移った。
図書館では、正司書以上のものには、専用の写本室が与えられ、そこで自らの専門分野の本の写本を行う。
写本室の窓は小さく、光は程よい明るさの中で差し込む。
机に広げられた写本用の羊皮紙が、うっすらと乳白色に光っている。
午後の仕事は、古い本にある台帳の複写だ。
アリアは受け取った原本を読み、誤りがないか確かめながら、一定の速度で文字を重ねていく。
羽ペンの先をインク壺に軽く浸し、余分を吸い取り、すっと筆を走らせる。
細い線が、紙の上に静かに生まれていく。
呼吸を合わせ、心を落ち着かせると、文字は音楽のように一つの文章へと紡がれ、揃っていく。
筆致は旋律で、余白は休符。正しいリズムで書かれた頁は、読む者の内側で自然に鳴り始める。
ページをめくり、ペン先と羊皮紙が擦れる心地よい音をさせていたアリアの手が途中で止まった。
何気なく、事務室で受け取った書きかけの写本を読み返したところ、羊皮紙の数枚だけ、墨の色が僅かに濃いことに気付いた。
よく見ると、インクの乾きの艶も違う。筆圧も、線の癖も。
……ここだけ、最近の筆だ。綴じ糸も、ここから新しい。
書き間違いの修正――にしては、置き換わっている文言が重要すぎる。
原本と見比べてみても、やはり異なる。
アリアは違和感を確かめる為に、事務室にいるセレナの元へ向かった。
「あの、セレナ先輩」
事務室の机で大量の書類を仕分ける先輩司書の名を呼ぶと、セレナが顔を上げる。
「先輩、この途中までの写本、原本と照らすと、記載が違っていて……しかも、綴じ直しの痕が」
セレナは唇を結び、短くうなずいた。
「最近、そういうのが見つかるの機会が増えてるの。ただの写し間違いならいいけど……一度こちらで、記載の相違箇所を確認してみるわ。」
言葉を切り、肩を竦め、セレナはアリアから書きかけの写本の写しを受け取る。
本来、当たり前の静けさとペンの走る音が、かえって不穏に思えた。
アリアは、気を取り直して自らの専門である歴史書の写本に取り組み始めると、取り憑かれたようにペンを進めた。
夕日が差し込むころになると、エミリアが写本室のアリアの側にきて、その横顔を見ながら小さな声で言う。
「先輩、目がきらきらしてます」
「そう? この字、いい字なんだ。迷いがあって、でも正そうとする力がある。書いた人の呼吸が残ってる」
「……やっぱり、先輩の“読み方"は、ちょっと特別です」
アリアは笑って首を振った。特別なんかじゃない。
私は本が好きなだけ。ただ、本が好きなだけ。




