学都の陰り
学問都市ナルセアの朝は、石畳を渡る靴音と市場の香りで始まる。
露店の青い天幕が通りに連なり、秤の皿に落ちる穀粒の音が、鐘の余韻のように広場を満たしていた。
焼き栗の匂いと香草の香りが混ざり、色とりどりの果実が並ぶ。
――この国の朝は、いつだって穏やかであるはずだった。
「小麦が足りないだと? 先週は“余りが出た”って言ってたじゃないか!」
人垣の奥で、男の怒鳴り声が響く。
「領主の倉から回ってくるはずが、ぜんぜん届かないんだよ」
店主が渋い顔で応じ、買い物かごを抱えた婦人がため息まじりに口をはさむ。
「粉屋も値を上げたわ。冬前だっていうのに」
ざわめきは波紋のように広がり、通りの空気から甘さがひとつ、またひとつ抜け落ちていった。
この国では、長いあいだ飢饉という言葉すら忘れられていた。
豊かな気候と安定した流通が人々の暮らしを支え、主婦たちは値段より香りで食材を選ぶ余裕を持っていた。
だが、今は違う。
どこかで何かが滞り、秤の針が少しずつ偏り始めている。
たった一枚の帳簿が、街の空気を変える。
人々はまだ気づいていない。
だが、静かな変化はすでに始まっていた。
坂を上がった先――学生たちが集う小広場では、朝から若者たちが書板を抱えて議論を交わしていた。
「……教授が講義で言ってた“納入台帳の不一致”って、本当らしいぞ」
「軍の倉庫も減ってるってさ。兄貴が兵士をしてるけど、“糧食が水っぽい”って愚痴の手紙が来た」
「戦なんて、起きないだろうな?」
その一言に、輪の中心のざわめきがぴたりと止まった。
誰も笑わず、誰も答えない。
沈黙だけが、朝の冷たい空気をかすかに震わせた。
街角では露天商が小声で囁き合い、噂は煙のように形を変えながら広がっていく。
「倉の記録が書き換えられてるんじゃないか」
「誰かが、食糧を隠している」
それが真実かどうかを確かめられる者は、ほとんどいない。
だが、言葉は帳簿の数字を確かめるより速く広がる。
そして、信じられた言葉こそが“記録”となる。
塔の尖端をかすめて、カラスが一羽、低く鳴きながら飛び去った。
人々は気づかない。
その影が、まだ静かに羽を広げたまま、都全体に降りていることを。




