影の気配
そのときだった。
閲覧室の奥、書庫へと続く狭い回廊のほうから、低く擦れるような音がした。
風でもなく、人の足音でもない。
紙が息をひそめ、棚板が軋みを忘れるような、皮膚の内側に触れてくる気配。
アリアは反射的に顔を上げ、灯火石の白い光に目を細める。
影が生まれにくいはずの光の下で、床の上に墨をこぼしたような濃い闇が、すっと横切った。
「……誰か、いるの?」
声は囁きになった。返事はない。
代わりに、喉の奥で唸る獣の気配が、遠く近く、距離感を狂わせて響く。
隣で、黒髪の少年――フギンが目だけで合図した。
「見えたか」
「い、今の……」
「影の獣だ」短く、吐き捨てる。
銀白の少女――ムニンが続けた。
「飢えた影。言葉で縫い留めたものを、歯でほどいていく。名前は与えない。名前は呼び口になるから」
アリアは思わず胸に本を抱き寄せた。灰白の表紙。中央の黒と白の羽根の意匠が、指先の脈に合わせて微かに震える。
「……記録を、狙っているの?」
ムニンの睫毛がゆっくり瞬き、頷きに似た沈黙をつくる。
「記されたものは灯り。影は灯りを嫌うふりをして、近寄ってくる。消すために」
再び、すっ、と闇が流れた。棚と棚のあいだ、誰も通れない隙間に、四足が床を踏む気配だけが残る。
灯火石の光は安定しているのに、アリアの視界だけが波紋のように歪んだ。
「どうすれば……」
問うてから、自分の声が乾いているのに気づく。
フギンは視線を回廊へ投げ、淀みなく答えた。
「言ったはずだ。記録を守るためには、まず読む。次に見抜く。必要とあらば喰らえ。そして、残せ」
ムニンが言葉を結ぶ。
「あなたの四拍が、影の歯を鈍らせる。焦らないで。焦りは行間に闇を招く。」
アリアは深く息を吸い、吐いた。胸のざわめきが、静まっていく。
灯火石の光が、机上の白を柔らかく撫でる。影は、いつのまにか音だけになり、そして音さえ、紙に吸われるように薄れていった。
静寂が戻る。だが、それは先ほどまでの無垢な静けさではない。
知ってしまった後の静けさ――ページの隅に小さな折り目を見つけてしまった読者の、もう二度と「新品」とは認識できない感じに似ている。
アリアは腕の中の本を見下ろし、ぽつりと呟いた。
「……わたし、本当にできるのかな」
ムニンが微笑んだ。月に磨かれた銀の糸のように、やわらかい気配。
「できるように書かれているわ。あなた自身の物語に。」
フギンはわずかに口角を上げる。
「書かれていないなら、書けばいい。この国の司書は、編む者でもある」
アリアは小さく頷き、肩に入っていた力を抜いた。
灯火石の白光がわずかに揺れ、また静かに戻った。
ーー影の獣たちは去ったのではない。ただ、今日は牙を見せなかったに過ぎない。
その感覚だけが、ページの手触りのように掌に残っていた。




