イベント名:「マイラブ」2
焼きたてのパン。濃厚なチーズ。名前も知らない果物──ありえないほど甘い。 この組み合わせの食事なんて、現実じゃ一度も食べたことがない。味だけじゃない。食感も、香りも──全部が妙にリアルだった。こんな贅沢、現実じゃ味わったこともないのに。
システムが味覚をここまで再現できるなら──
他に何を再現できるんだ?
いや、のんびりしてる場合じゃない。
どうやら俺はレアに「散歩」に付き合う約束をしていたらしい。
“貴族らしいデート”と、ルルノンは言っていた。
もちろん、そんな約束をした覚えはない。
最後の一口を飲み込み、壁に飾られた肖像画へと視線を向けた。
軍服を着た男。その隣で、少女が小さく微笑んでいる。
レア・ウェルキン。
──俺がプロポーズした相手だ。
──俺がプロポーズした相手だ。
数週間前。彼女の父親が死んだ直後。
ウェルキン卿──レアの父親は、かつてこの国の元帥だったらしい。優秀な指揮官。“シド”とは友人だったそうだ。実力でこの役職を得たのか、政治的な理由か……わからない。
シド・ウェルキン。
戦場で名を上げ、元帥となり──貴族令嬢と結婚した男。
そして今──俺が、そのシドだ。
結婚で貴族となり。役職は元帥。
結婚して、もう一ヶ月になるらしい。
──俺は、彼女のことを何も知らない。
カチャ。
扉が開いた。
ルルノンが入ってきた。銀のトレイを持ち、俺の空になった皿を見て、眉をひそめる。
「今朝はずいぶん食べましたね。シド様、ずいぶんご機嫌じゃないですか?」
「……システムのリアリティをテストしていただけだ。」
「は?」
チーン。
通知音が鳴った。彼女の肩越しに、俺だけに見えるウィンドウが浮かぶ。
《ヒント》
【娯楽価値維持のため、ロールプレイを継続してください。放送中の場違いな発言は警告の対象となります。】
ああ……まだ放送中か。
俺は無言でウィンドウを閉じた。
「……なんでもない。」
「……チッ。」
舌打ちか。素なのか、俺のことが嫌いなのか。
ルルノンはデザートを置き、黙々と食器を片付ける。
その背中越しに、ぼそりと言った。
「レア様は、まもなくお支度が整います。」
目が合った。
「私は、レア様のお側で育ちました。幼い頃から、ずっと一緒です。」
──警告か?それとも単なる設定説明か?
声が少し低くなった。
「……正直、貴方がレア様を奪ったと思っています。」
ああ、そう来たか。
──なら、演出に付き合ってやるか。
俺は笑った。
「奪ったわけじゃないさ。」
少しだけ間を置いて、続ける。
「彼女の方が──俺の心を奪ったんだ。」
ルルノンの表情は、ほとんど動かなかった。
だが、微かに口元が歪んだのを俺は見逃さなかった。
ルルノンの表情は、一瞬だけはっきりと歪んだ。
……あ。今、完全にドン引きされたな。
あからさまに嫌そうな顔だった。見間違えようがない。
ルルノンはくるりと背を向け、わざとらしくため息をついた。
「外でお待ちください。馬車は準備できています。」
そして、そのまま無言で退場。
……うん。完全に嫌われてる。俺。
数分後。俺は屋敷の噴水前に立っていた。
庭園はまるで絵画。金のかかった贅沢な空間。
──これが、首都貴族というやつか。
目の前には馬車。
そして──屋敷の扉が静かに開いた。
思わず、息を止めた。
レアが、陽の光の下に姿を現した。
アイボリー色の絹のドレス。腰回りはすっきりしていて、重たいスカートではない。袖口には銀の刺繍。短いレースのケープが肩を包み、髪は柔らかく巻かれ、首元までふんわりと流れている。
広めの帽子が日差しを遮り、風に揺れるリボンが涼やかだった。
片手には上品な日傘。
そして、その表情──
微笑んでいた。
穏やかに。期待を込めたように。
まるで……ずっと待っていたかのように。
──これが、スクリプト通りか?
違和感。いや、圧迫感。
これは、単なる美人とかそういう話じゃない。
“存在感”だ。
この娘──本当にNPCか?
一瞬だけ、そう思った。
……ソシャゲでSSR引いた時って、こんな感じだったっけ。
──やめろ。
俺はその考えを打ち消した。
レアは、俺の目の前で静かに手を差し出した。
「行きましょうか、ダーリン。」
その声は、柔らかくて、少しだけ期待に満ちていて。
俺は、一拍だけ遅れて──黙って手を取った。
「……ああ。行こう。」