八話:アメリア・リンカーン
身体測定の隙を突いて――アナスタシア・ベロゾフの下着を盗み出すこと。
それが愕鬼から与えられた僕への指示だ。
伊集院義正がこれを断ることは出来ないので、僕は渋々下着泥棒を実行するしかない。
窃盗というリスクある行動を取らず、アナスタシアに直接頼んで下着を譲ってもらうことも考えたが、可能な限りあの女に貸しを作りたくはない。――そもそもあの女が余計なことをしなければこんなことをせずに済んだのだが。
と、いつまでも起きたことを恨んでも仕方がない。
僕は思考を切り替え、いつかの時に行った潜入工作で犯罪組織のサーバールームから機密情報を抜き取るかの如く、最小限かつ最速の動きで愕鬼から与えられた任務を遂行する。
いつまでもこの教室にはいられない。測定を終えた他クラスの女子生徒が一定間隔で廊下を通り過ぎ、またいつクラスメイトたちが戻ってくるかも分からないからだ。
僕は迅速にアナスタシアの席へ向かい、学院指定のスクールバックを開ける。丁寧に畳まれた制服の上には、前にも見た薄黄緑色のブラジャーが収められていた。
花柄レースの生地で出来たそれを手に取った瞬間、シトラスの爽やかさとアナスタシアのフェロモンが染みた香りが鼻腔をくすぐる。――直後、脳裏に下着姿のアナスタシアが過り、指先から感じるはずのない生温かさが伝わってくる奇妙な感覚に襲われ、思わず下着を床に落とす。
気持ち悪い妄想を払うように一度頭を振ってから、落ちたブラジャーを拾いあげシャツの内側に収めた。
これ以上教室に留まる理由もないので、足早に教室を出ようと踵を返すと同時に、僕はそれと目が合う。
「ライトノベルでも中々見れないヘンタイさんですね♪」
「――っ⁉」
鈴を転がすような透明感を持ち、確かないたずら心を含むその声は、小柄で華奢な体に似合わない大きな車椅子に腰を据えた少女のものだった。
晴天の空に浮かぶ太陽に負けじと輝くブロンドの髪は僅かな丸みを帯び、毛先が彼女の小さな肩を撫でる。吊り上がった目尻から覗く明るい紫色が特徴的な葵瞳は、面白いものを見つけたと言わんばかりに細められていた。
推定140センチ前後の小さな身長から、中等部の生徒かと思ったが体操着の縁を彩る黄色を見て、その考えが間違いだと分かる。見た目は子供。しかし、彼女が高等部の生徒であることを学年別で分けられる服装が証明していた。
そしてその少女の小さな手に収まるスマホのカメラは、しっかりとこちらを覗いている。――状況からしてあれには、僕が行った下着泥棒の一部始終、あるいは最初から最後までが映像として収められているだろう。
だが、下着泥棒を記録されていたことよりも、僕が彼女の接近に勘付くことすら出来ていなかった事実のほうが驚きだ。
保健室でアナスタシアと出会った時とは違う。僕はこの教室に向かう途中、下着を盗み出す最中。そのすべてに細心の注意を払っていた。
――気配、音、空気感の僅かな変化。それらを察知することが出来ず、僕が視界に捉えてようやく彼女の存在に気付いた。
「やはり義正くんも、胸の大きな女性に惹かれるのですね」
少女はしゅんと眉を下げながらスマホを持たない反対の手で自身の小さな胸に触れる。
何故僕の名前を知っているのか――伊集院義正に愕鬼以外の交友関係があった? 顔見知り、あるいは古い友人?
脳内で、様々な憶測が駆け巡る。しかしどれをとっても確信を持てるような情報はない。
それでも、唯一僕が知っていることは――
「あ、アメリアさんっ⁉ どうしてここに……‼」
アメリア・リンカーンという、彼女の名前だけだ。
高等部一学年C組所属の女子生徒。特段名の通っている生徒ではないが、持病によって下半身の身体操作に難がある人物と記憶している。
「身体検査が終わったので、着替えに戻ろうとしていたところなんです。わたくしは皆さんほど胸囲の大きさに興味はありませんので、比較的早く終えることが出来たのですが――今から戻っても、測定してもらえるでしょうか?」
からかうように、アメリアはくすりと笑みを浮かべる。
子供らしい見た目に反して、言葉使いや声音、その表情はどこか大人っぽくアナスタシアとはまた違う妖艶さを秘めていた。
アメリアはスマホをズボンのポケットに収めると、喜びと悲しみを両立した、なんとも表現の難しい表情を浮かべる。
「このような形での再会には驚きましたが、お会い出来て光栄です。義正くん。……また図書室で感想戦の続きをしましょう」
図書室は常に人の目があるため愕鬼のいじめを受けることはない。彼は立場上、大企業の社長子息。親会社の看板の一端を背負っている立場だ。下手をすれば企業全体の評判を貶めることになるため、露骨ないじめはしなかっただろう。
またそこは伊集院義正にとって好きな書籍に囲まれている空間でもある。彼にとっての数少ない安息地だったはず。
となるとアメリアも同じく図書室に入り浸っている生徒の一人か、あるいは書籍を管理する司書委員だったのか。どちらにせよ、彼女の発言からして伊集院義正とは顔見知り以上の関係値のはず。ここでの会話は、ただ顔を合わせるだけの相手と交わす内容じゃない。
アメリアと友人関係にあるなら調書に彼女の名前があったはず。交際記録がないことから恋人、あるいは元恋人だった線も同様にあり得ない。ただ顔を合わせるだけの相手が、こんな親しげに話しかけてくるはずもない。
アメリア・リンカーンは、伊集院義正にとってどういう人間だったのか――それが分からなければ、この先の一言一句には危険が付きまとう。
アメリアは、アナスタシアの時のように目星を付けた工作員候補には含まれていない人物だが、侮れない。
彼女の存在感の消し方は、明らかに常人のそれとは違う。――今この瞬間、アメリア・リンカーンはフェイガ・エイブラムを除き、成富学院に潜む国外諜報員である可能性が最も高い人物になった。
「……義正くん?」
「あ、えっと……」
直後、シャツの中に収めていたアナスタシアのブラジャーがぽとりと床に落ちる。――というより、落とした。返答を考える時間稼ぎのためだ。
同時に、時が止まったかのような静寂が続く。
そんな気まずい空気を押しのけるようにして、アメリアが手元のレバー操作で車椅子を前進させる。それは異常なほど静かで、近い距離にいても駆動音が聞こえてこない。
僕の目の前で車椅子を止めたアメリアは、体を折って床に落ちたブラジャーを拾う。
そして小さな手を使ってそれを僕に握らせる。その表情は僕が想定していたよりもずっと悲しげなものだった。
「また愕鬼さんの指示ですか?」
その言葉に、僕は沈黙を返す。
――アメリアは伊集院と愕鬼の関係性を把握している。
それがクラスの枠組みを超える周知の事実であるのかは分からないが、少なくともこの下着泥棒の状況を見てすぐに伊集院義正の意思ではないと見抜ける程度には、彼のことを理解しているのだろう。
ということは、より慎重に言葉を選ばないと――
「前にも言いましたが、行動を起こさなければ変化は訪れません。……嫌なことは嫌だとハッキリ口にしなければ、良くも悪くも現状が変わることはありませんよ?」
アメリアの小さな手が、僕の手を撫でる。伊集院義正が心に負っている傷に薬を塗り込むように、何度も、優しく。そこから感じる人肌の温もりが心地良い。
――ああ、そういうことか。
伊集院義正は、アメリア・リンカーンに恋していたんだ。
だから調書を取る調査員には友人だとも、恋人だとも言えなかった。自分が彼女に相応しい人物であると思い込むことすら出来ず、それでも心惹かれる相手だったから。
友人でも、恋人でも、ましてや悪友でもない。
伊集院義正の理解者。最も傍に居たいと願い、しかし遠ざけるしかなかった最愛の少女。――それがアメリア・リンカーンという存在なんだろう。
僕は伊集院義正の人物調査を行ったうえで、彼について一つだけ疑問があった。
それは彼がどうして愕鬼京に反抗しなかったのか、という点。
僕の予想では、伊集院義正にはそれが出来た。彼の自尊心は周りが思うよりもずっと強い。それは親企業の関係性の有無に関わらず行動できるほどに。愕鬼のいじめに耐えられないのなら、彼は心が折れるよりも早く行動していたはずだ。しかし、愕鬼の態度や伊集院義正の調書からその痕跡は見受けられない。
となれば伊集院義正には反抗しない、あるいは出来ない理由があったと考えられる。――僕の人物調査が間違っている可能性はない。仮に人物調査が間違っていたのなら、それで良い。ただその正確性を疑ったが最後、二度と正しい人物調査は出来なくなる。
人物調査は統計と洞察力、直感と自信で成り立つ高度な計算式だ。そこに疑いという別の数式が割り込めば、正しい答えには辿り着けなくなる。だから僕は、自分の人物調査の結果に疑いを持つことはしない。
伊集院義正が愕鬼京のいじめに抵抗せず、自ら家に引き籠る選択をした理由――それは、アメリア・リンカーンの存在があったからだろう。
抵抗すれば状況は変化する。変化した状況に、アメリアが巻き込まれない保証はない。また、それがきっかけとなり彼女との時間が失われる可能性もあり得る。愕鬼のいじめを受け入れ続けるメンタルの強さもない。
結果、伊集院義正は自分の心と最愛の少女を守るために引き籠る選択をした。――彼はそういう漢だったのだろう。
それが分かれば、後に続く言葉は自然と出てくる。
「……あはは、分かってるつもりではあるんだけどね」
伊集院義正なら決して、アメリアのこの言葉を受け入れない。そして、否定もしない。
――彼女の言葉が正しいと理解していながらも、そうするべきではないと分かっている。
アメリアは僕の言葉に、再び整った眉を下げた。
「言うは易く行うは難し。それが簡単ではないことを、わたくしも良く理解しています。恥じることではありませんよ」
僕を慰めるように、アメリアは微笑を浮かべる。
「あ、わたくしの下着も持っていきますか? そちらほど派手ではありませんが」
そう言って、アメリアはシャツをつまんでめくり、愛らしいおへそを覗かせる。
「だ、大丈夫だよっ! これだけで……」
「あら残念。デザインには自信がありましたのに」
「では、それはまたの機会にということで」――そう言っていたずらっぽく笑うと、アメリアは車椅子を巧みに操り反転する。
「またお会いしましょう、義正くん」
そのままアメリアは別れを告げて教室を出て行く。
その直前に、
「次お会いする時はぜひメリアと呼んでくださいね?」
金の髪を小さく揺らし、半身で振り返る。
「う、うん。分かった。メ――」
リア――。
喉元にまで出かかったその言葉を口にしようとして、飲み込む。アメリアの葵色の瞳。その奥に覗き見える濃紫の深淵が、僅かに揺れ動いたのに気づく。
「……アメリアさん」
一瞬の静寂。しかしすぐに、アメリアは鈴を転がすような笑みを漏らす。
「ふふっ、三年経っても相変わらずですね」
名残惜しそうにしつつも、今度こそアメリアはこの場を去る。
今度はアメリアの存在に全神経を集中して、彼女が遠ざかっていった確信を得られた。
「……次の相手は厄介だな」
限りなく黒に近い灰色な存在。第二の国外諜報員――アメリア・リンカーン。
その影を感じながら、直前の奇襲を受けて流れた冷や汗を拭う。
柔道や合気道を始めとした柔術は種類こそ多いが、そのほとんどに共通して言えるのは――相手の力を利用する技があることだ。そのコツは相手の体重移動を正確に把握し、適切なタイミングで実行すること。
先ほどアメリア・リンカーンは、言葉による柔術を仕掛けてきた。
場の雰囲気、会話の流れ、元の好感度。それらすべてを把握、利用したうえで最後の最後に技を掛けてきた。
複雑な体重移動を行わせ、最も油断するであろう瞬間に合わせて実行された技。誰もが引っ掛かるであろう完璧なタイミング。
――しかし、本物の伊集院義正が相手なら絶対に決まらない絶妙な一手。
アメリアはそれを意図的に行った。僕を試した。それはつまり、伊集院義正という存在に疑いを持っているということだ。
深読みのし過ぎかもしれない。しかし、諜報員だからこそ相手の詮索には敏感になる。諜報員だからこそ、露骨なことをしない。――何より僕の深読みのし過ぎであったのならそれで良い。間違えていたところで失うものはないのだから。
アメリア・リンカーンは、限りなく黒に近い灰色。
僕をわざわざ疑う人間がいるとすれば、それは国外諜報員しかいないからだ。そしてその評価は恐らく、アメリアも同じだろう。僕もまた彼女にとって、限りなく黒に近い灰色に映っているはず。
互いに探り合うこの状態はどちらかがボロを出すまで続く、泥沼の戦争のような状況。
ただ幸い時間にはまだ余裕がある。フェイガ・エイブラムの件を片付けてからでも対応は遅くないだろう。
アメリアは僕がボロを出すまで攻撃を続けるだろうが、問題はない。僕は彼女も知らない伊集院義正を知っているが、その逆はないからだ。
彼女しか知らない伊集院義正の情報はない。――だから、いくらでも疑って掛かればいい。そのたびに僕はキミが知っている伊集院義正を演じ続けよう。