七話:機密物奪取作戦
日本国内有数のセレブ学校――私立成富学院。
学内の設備や施設、その規模。そして授業内容を始め様々な要素で他と一線を画すクオリティの高さを有するが、勉学に励む場である根本的な部分に違いはなく、一般校もセレブ学校も結局は同じ教育機関の一つでしかない。
授業を受けて知識を学び、教室という小さな枠組みで社会性を理解し、友情を育み感性を豊かにする。大人になり表社会へ出立する前の疑似訓練。
――学校というのは、社会に出る前にその社会を経験する場なのだろう。あるいは社会に適合するための基礎訓練。
そういう点では成富学院も《養蜂箱》も大した違いはない。行きつく先が表社会か裏社会か。違いがあるとすればそこだけだ。
つまり《養蜂箱》で優等生だった僕なら、成富学院でも同じ優等生でいられる。事実それは可能だろう。
高額な学費は豪華な設備や手厚い保証の他にも、高い授業レベルにも反映されている。それはこの学院の学習ペースの速さからも分かることだ。同時に優秀な生徒が多いことも。――前に進むだけの授業なら生徒は付いて来ない。この学院でそんな授業を行う教員がいれば校庭に吹く風よりも早く首が飛んでいくだろう。そうなっていないということは、それだけ今の教員は優秀であり、またこの授業についていける生徒の優秀さを裏付ける証明になる。
高度な授業内容。それでも《養蜂箱》で既に訓練課程を終えた僕にはなんてことは無い。氷水が一杯の浴槽に顔を沈めながら500の単語を即興で覚えさせられるのに比べれば、三角関数や微分・積分の難易度は比にならない。
――しかし、伊集院義正にとっては違う。
授業どころか学院に通うのですら三年ぶり。今の授業内容を理解するための前提となる数多くの知識を覚えているはずもない。
そんな状態で現在の理解度を把握するための学力テストを受ければ――結果がどうなるのかは、チョコレートが甘いのと同じぐらい分かりきったことだ。
「義正――数学が0点って、見た目だけじゃなくて頭の中までのび太じゃねぇーか‼」
テストの返却が行われその結果にクラスメイトたちが一喜一憂する昼休みの中で。
僕の学力テストの総合結果が記される用紙を背後から覗き見た愕鬼が、教室に大きな笑い声を響かせる。それに呼応するように取り巻きの男子生徒たちも続いた。
伊集院義正は元不登校の男子生徒。それが最近になってようやく姿を現し授業を受け始めた。一貫校であるため、周囲のクラスメイトもそれは知っている。
ゆえに、学力テストの結果が散々なものになることも予想出来ていただろう。同時にそれが仕方のないことだとも。だからこそクラスメイトのほとんどは、愕鬼に馬鹿にされる僕へ憐みと同情の視線を送っている。
しかし、ただそれだけ。彼ら彼女らにはそうすることしか出来ない。
――弱肉強食。
肉体的、社会的強者に弱者は抗えない。それは表の社会でも行われていることで、またその表社会で行われていることはここ成富学院でも行われるのが道理だろう。
この教室には最弱である伊集院義正と、肉体的、社会的にも強者である愕鬼京がいる。
この状況に物申すことが出来る存在がいるとすれば、それは愕鬼と同じく高い社会的地位を持つ人間だけだ。
「しょうがねーな義正。俺のノート見せてやるからこれでしっかり勉強しろよォ?」
そう言って、愕鬼は僕の机に五冊のノートを広げた。
ふわりと持ち上がって見えたページのほとんどは白紙。ノート自体も真新しく使用された痕跡がない。――愕鬼は遠回しに、授業内容を代理で書き写せと言っているのだろう。
「あ、ありがとう。京。これなら自習も捗りそうだよ」
「良いってことよ。俺ら友達なんだから、助け合わねぇとなァ」
なんて心にもないことを言いながら、愕鬼は僕と肩を組み、口角を大きく持ち上げた。
その時――
「それよりもっと良い方法がありますよ、伊集院さん」
そう声を上げたのは、銀の長髪を揺らして歩み寄ってくる少女。
この教室で愕鬼京という絶対強者に物申す者がいるのだとしたら、それは命知らずのバカか、お人よしなバカ。あるいは――愕鬼と同じ絶対強者だけだろう。
そしてアナスタシア・ベロゾフという少女は、この教室で唯一愕鬼京と対等以上に渡り合える絶対強者の一人だ。
「愕鬼さんのノートを見せて頂くのももちろん有効だと思いますが、私が直接お教えするほうが効率的だと思いませんか?」
そう言って、アナスタシアは学力テストの総合結果が記された用紙を堂々と晒す。
高等部一学年だけで300人以上の生徒がいる学年別学力テスト――総合一位の表記は、学力という点で一学年の頂に立っている証明だ。
意外な人物の台頭に愕鬼が固まっている隙に、アナスタシアがさらに切り込む。
「もしよろしければ、今日の放課後にでも図書室で自習のお手伝いをさせてください♪」
小首を傾げて翡翠の瞳で僕を覗き込むアナスタシアが、微笑を浮かべた。
このような事態になったのは、僕だからなのか。あるいは、アナスタシア・ベロゾフという優等生だからなのか。――この女の性格を考えれば前者が理由としては適切そうだ。
「いや、悪いよ。わざわざ僕なんかの為にアナスタシアさんの時間を割いてもらうのは」
「そんなことはありません。伊集院さんを含め、クラスメイトの皆さんがより良い学院生活を送れるよう行動するのが学級委員長の役目。それ以前に、私自身の意思でもあります。ですから伊集院さんが気にすることではありませんよ」
先日の決め事で学級委員の座を手に入れたアナスタシアは、立場を理由にして僕に干渉しようとする。
「いやいや、やっぱり悪いよ。アナスタシアさんとお昼を過ごしたい人だってたくさんいるだろうし――(僕にちょっかい掛ける暇があるなら自分の仕事をしろ)」
「では皆さんもご一緒にいかがですか? 高等部の授業は中等部に比べて学習難度が高いですし、一学期最初の期末テストは直ぐに行われますから少し早いテスト勉強、勉強会ということで!――(やーだよっ♪)」
僕の真意を知ったうえでの干渉。アナスタシアの戦略的価値のない行動に苛立ちを覚えながらも、僕とアナスタシアの間で善意を押し付け合う攻防戦が繰り広げられる。
しかし、クラスカーストのアナスタシア・ベロゾフ(最上位)と伊集院義正(最上位)とでは勝負になるはずもなく。またこれを好機と見たクラスメイトたちが「それいいね!」「丁度数学で躓いてたから助かるよ」「まじナイスアイデアじゃね? まじアナスタシアさんパネェわ‼」なんて善意の援護射撃まで行う始末。
おかげで完全にこの場の主導権はアナスタシアに握られてしまい、これ以上の遠慮はクラスメイトの心証を悪くしかねない。味方が少ない中でこれ以上の敵を作れば今後の諜報活動に影響するだろう。ただでさえ愕鬼の相手をするだけでも無駄が多いというのに。
――これ以上の敵を作らないためにも、ここは僕が折れるしかないか。
アナスタシアが参加希望者を確認し始め、僕も渋々その一人に加わったところで……。
「なら俺たちも混ぜてくれよ、アナスタシア・せ・ん・せ・い」
アナスタシアの突然の台頭に静かだった愕鬼が、ここにきて嫌味を含んだ言葉を吐く。――よし、その流れであの女の計画を有耶無耶にしてやれ……‼
「もちろん構いませんよ。では伊集院さんや皆さんを含めた20人で放課後の勉強会と行きましょう♪」
アナスタシア・ベロゾフ主導の勉強会の決定にクラスメイト達が歓声を上げる。
「ただこの人数ともなると勉強会に利用できる場所は図書室に限られてしまいますね。幸い、この時期は利用者が少ないので今日中にでも利用予約が取れると思いますが」
勉強会のために幹事として行動に移るアナスタシアは、学院生徒のみ利用できる専用サイトで図書室の集団利用予約を行おうと、スマホの画面を操作する。
その画面に映ったものを見て、アナスタシアは僅かに眉を寄せたが、すぐに理解が追い付いたような表情を浮かべた。
「なるほど。新たな司書委員のローテーションが決定するまでは、生徒会長の覚先輩が担当司書として管理を行うんですね」
アナスタシアが上級生の名を口にした瞬間、まるで教室が凍り付いたかのような静寂に包まれる。中でも他のどんなクラスメイトより顕著な反応を見せたのは、愕鬼だった。
「……冗談だ。真に受けるなよアナスタシア。俺が勉強会なんかに参加するようなタマかよ」
愕鬼は可能な限り平静を保ちながらアナスタシアに言い放つが、その表情は少し強張っている。都合が悪いと言わんばかりの顔つきだ。
「そうなんですか⁉ 残念です。弟の愕鬼さんが利用すると知れば、覚先輩も優先的に扱ってもらえるかと思ったんですが……」
アナスタシアはわざとらしく驚いて見せて、小さく肩を落とす。そしてまた静寂が教室を支配する。
「……何見てんだよ」
絶妙な空気感に包まれた教室。やけに集まる視線の一つに対し、愕鬼は睨みを返すが空気感が変わることはなかった。
居心地の悪さからか愕鬼は小さく舌打ちを漏らし教室を後にする。遅れて、取り巻きの男子生徒たちもそれに続く。
愕鬼たちの退出をきっかけに教室は活気を取り戻し――「愕鬼は兄の覚先輩と仲が悪いからなぁ」「優秀な兄を持つ弟は大変だねぇ」などなど。先ほどの妙な空気感の原因をクラスメイトが口々にする。
愕鬼グループの社長子息にして次期後継者と名高い愕鬼京の兄。私立成富学院の最高学年にして生徒会役員の頂点の座に君臨する男――それが愕鬼覚だ。
弟の愕鬼京とは何もかもが対照的な男で、成績優秀、品行方正を地で行くような男だと事前調査で把握している。また、互いに嫌い合っているという事実も。
性格か、家柄か、家庭環境か。理由がなんであれ兄弟で互いを嫌い合っている原因に愕鬼グループの存在が関わっているのは間違いないだろう。
だが、面倒を引き起こす点はともかくあの愕鬼京を退けるアナスタシアの手腕は見事だ。
愕鬼京が勉強会に参加しようものなら妨害されるのは目に見えていた。それを避けるために必要な切り札を瞬時に判断した頭の回転の速さもそうだが、何よりその切り札を事前に用意していた点が評価に値する。
人間関係の把握は当然として、変則的な環境になりやすい新学期の状況を事前に把握しておかなければ、愕鬼京を退ける一手は使えなかっただろう。
アナスタシア・ベロゾフという優等生のイメージを損なわない点も高評価だ。――伊達に《国際犯罪組織》の工作員をやっていないな。
しかし、この一連の流れによって愕鬼の中にある僕への悪意が増幅し、またクラスメイトを含め僕の存在を改めて強く認識した。不登校を脱して早々いじめっ子に狙われる可哀そうな男子生徒として。
あれもこれも、全てはアナスタシアの介入によって引き起こされたものだ。
今後への影響を想像して僕が小さくため息を漏らせば、問題の張本人であるアナスタシアが僕にだけ見えるように悪意ある笑みを送ってくる。
これはいじめを受ける僕を哀れんで起こしたお節介ではなく、僕が望まないと理解したうえで、アナスタシアが進んで行った嫌がらせなのだと確信した。
暗殺すると脅迫を受け、諜報活動を強制させている僕に向けたアナスタシアの些細な抵抗か。――顔立ちに反してやることは可愛げの欠片もないな。
・・・・
教室での一件からすぐ、二日連続で愕鬼の呼び出しを受けた僕は屋上へと足を運ぶ。
屋外へと続く扉を開ければ、見るからに不機嫌そうな様子の愕鬼とそれに怯えている取り巻きの男子生徒がいた。
「あのクソアマ。この俺をコケにしたことを後悔させてやる……ッ‼」
つい数分前に教室で受けた屈辱を思い出してか、転落防止柵に怒りをぶつける愕鬼。
がしゃんと響く大きな音に取り巻きの男子生徒たちが小さく肩を震わせながらも、宥めるように言葉を紡ぐ。
それで愕鬼は怒りを鎮め、平静を取り戻したところで僕の存在に遅れて気付いた。
同時に、良いアイデアを思い付いたとでも言いたげに口角を大きく吊り上げる。
「なぁ、義正。俺の友達として一つお願いを聞いてくれよォ」
当然僕に拒否権はないので肯定の意を示せば、愕鬼からお願いという名の命令を与えられる。その内容に取り巻きの男子生徒たちは今までにないほど興奮する様子を見せた。
「きっちり頼むぜ、義正。じゃなきゃ分かってるよな?」
愕鬼は僕の肩に腕を回し、顔を近づけて耳打ちをする。失敗も逃亡も許さないと言わんばかりの念押しに、僕は頷きを返すしかなかった。
・・・・
昼休みが終わり、午後の授業が始まる。
しかし今日の日程は新学期特有の変則的なもので、午後には授業の代わりに身体測定を含めた健康診断が行われる予定だ。
小中高一貫校である成富学院の全生徒数は1000人を超えるため、生徒たちの成長を記録し健康状態を判断する目的で行われる健康診断も一筋縄ではいかない。
学年とクラスによって診断の日程と時間割を変更することで、数日に渡り膨大な数の生徒たちの健康診断を行っていく。
そして僕たち高等部一学年が、今日の午後に割り当てられたというわけだ。
他クラスも並行して健康診断を行っているからか更衣室を使用する余裕がなく、男子女子に教室を分けて薄着の体操服へと着替える。
前日に健康診断の存在を伝えられていたので、僕はあらかじめ制服の下に体操服を着用することで肌の露出を抑え、体の傷を晒すことなく着替えを終えた。――保健室での一件から少しずつ修正手術を受けているものの、手術痕が消えるまで数日を要するため、肌を晒せない状態であることに変わりはない。
着替えを終えれば男子生徒は体育館。女子生徒は図書室で身体測定が行われる。
クラスメイトの悪ノリで意味もなく上裸になる流れには少し肝を冷やしたが、不登校から復帰したばかりの僕にそのノリを強制させる人間がいないのは不幸中の幸いだった。
――唯一強制してきそうな愕鬼は、持ち前の隆々とした筋肉を見せつけ他生徒から喝采を浴び気分を良くしていたからか、僕にちょっかいを掛けてくることもない。
体脂肪率、肉付け調節を行う余裕がなく伊集院義正というよりも、ほぼ僕の肉体が健康診断の記録として残った。数値は大きく異なるが、前回の記録がそもそも三年以上も前のものなので不審がられることはない。肉体が完成した大人ならともかく、第二次性徴期の子供として見ればむしろ当然の結果だと受け入れられるだろう。
僕と伊集院義正とでは血液型が異なり、その事実は致命的な問題になるが、詳細な診断は公的医療機関に委任される。そのため記録の改ざんは容易で問題にはならないだろう。その辺りの細々とした情報の改ざんは《雀蜂》がやってくれるはずだ。
肝を冷やす瞬間があったものの、身体測定は特に問題が起きることもなく無事に終えることが出来た。
というよりも――問題が起こるとすればそれは次の行動だろう。
五十音順で行われた身体測定と採血。それらを比較的早く終えた僕は、急ぎ足で教室へと向かった。その先は男子更衣室代わりの教室ではなく、同じクラスの女子生徒が更衣室代わりに使用していた別の教室だ。
途中で何人かの女子生徒とすれ違いそうになるたびに横道に入ったり、物陰の隅に隠れたりして姿を隠す。道中の監視カメラの位置も把握しているため、それらの死角を利用して移動する。――いざという時のためにも、目撃情報は少ない方が良い。
そうして辿り着いた人気のない教室は、遠すぎず近すぎない距離に女子生徒が身体測定を行っている図書室があるからか、生徒たちの会話、黄色い歓声が静かな廊下に響いて教室にまで届いている。
女子生徒は男子生徒よりも身体測定の進行が遅い。――その原因は、男子生徒にはない胸囲測定が含まれているからだ。
身長・体重と並ぶ成長の目安の一つとして、女子生徒には胸囲の項目が存在する。これは健康診断の必須項目の一つとして存在していたものの、1995年に必須項目から排除されているが――伝統と文化、長い歴史を重んじて古い仕来りを曲げない傾向が強い私立学校特有の意地で、成富学院には未だ存在している。
とはいえこれらは強制ではなく生徒任意の希望によって行われているらしい。――年頃の女性にとってセンシティブな領域である胸囲の大きさは、それだけで談笑の種になるからか、意外にも希望する生徒が多いんだとか。
何故そんなことを知っているのかと聞かれれば、それは数十分前まで遡ることになる。
「午後は身体測定だ。その時に女連中は胸囲を図る奴がほとんどで、アナスタシアも例外じゃない。検査を早く進めるために着替えの段階で下着を脱ぐって話だ。――あとはもう分かるよな義正?」
屋上で愕鬼に下された命令――
「アナスタシアの下着を盗んで来い。俺をコケにしたらどうなるか思い知らせてやる」