三話:アナスタシア・ベロゾフ
僕が諜報員として活動してきた長年の経験と勘が、アナスタシア・ベロゾフに対し強く警笛を鳴らしている。
しかし、疑わしきは罰せず――というように。相手の正体が《国際犯罪組織》の工作員だ。確定させることが出来なければ、情報士官である天音が暗殺を許可しないだろう。
事を済ませてから間違いでした、では許されない。
ただゴルフで例えれば、ホールインワンとまではいかずとも。ベストショットであることに変わりはない。あと数打でボールはカップに落ちる。任務の滑り出しは好調といえるだろう。
だからといって功を焦ればチャンスを逃すことになりかねない。まずはゆっくりと時間を掛けてアナスタシア・ベロゾフから僕の存在を霞ませる。
あの一瞬で僕が彼女の正体に勘づいたように、向こうも僕の正体に勘づいている可能性があるからだ。
伊集院義正が三年ぶりに姿を現したことから、好奇心で僕の様子を伺っただけかもしれないが、常に最悪は想定しておかなければならない。
アナスタシアから僕の存在感が霞んだ頃に、行動の裏を探り工作員である証拠となるものを探る。それまでは、伊集院義正としての生活を送るべきだ。
――今回の任務、想定よりもずっと早く終えられるかもしれないな。
・・・・
新学年の初日。学院の体育館で始業式を行い、いくつかの決め事を終える頃には昼休みを迎えていた。
「やっと来たか義正。待ちくたびれたぜ?」
「お、お待たせ」
そして僕は朝の約束通り、愕鬼京たちが待つ屋上へと足を運んだ。
昼食を共にする――そんな仲睦まじいイベントではないと、直ぐに分かった。
「ほら、いつものポジションに立てよ」
愕鬼とその取り巻きである数人の男子生徒たちの手にあるのは弁当箱ではなく、テニスボールとそれを打つラケット。
こちらへ向ける笑みは明らかに嘲笑を含むもので、友人と呼べる者に送る笑みじゃない。
僕は重い足取りを演出しながら、屋上で唯一壁がある場所に背を向ける。
直後、軽やかな打撃音が響くと同時に僕の腹部に衝撃が走った。
「うっ……‼」
腹部を襲った衝撃の正体は、ラケットに打たれたテニスボールだ。
僕は鈍い痛みに悶えるフリをしながら、派手にうめき声を漏らす。
「FUOOO! まずは一本目ェ‼」
高らかに歓声を響かせた愕鬼は、ラケットを手にガッツポーズ。
「さすが、全国大会出場者は腕が良いな」
「俺たちも負けてらんねぇぜ!」
愕鬼の一打に続いて、他の男子生徒たちもラケットを振り、全力の一打を放つ。
球速はせいぜい時速にして130キロメートル前後。飛んでくるテニスボールの素材を考えれば、体に受けたところで大したダメージにはならない。躱すのは容易だが、それをしたところで彼らの怒りを買い、よりこの無意味な時間を長引かせるだけだろう。
そもそも、彼らの放つ一打は速度こそ出ているものの、狙いが定まっておらずボールは四方八方へ飛んで行っては、壁に弾かれ彼らの元へ戻る。
音速の銃弾が飛び交う戦場を何度も経験している人間からすれば、高々100キロメートル弱のボールは止まって見える。しかし、当たることがないと分かっていても、一般人の伊集院義正を演じている以上は大袈裟な反応で怯える姿を見せておく必要があるだろう。
「お前ら下手すぎだろ。よく見とけよ、俺が手本ってやつを見せてやる」
中々直撃する一打がうてない男子生徒たちを見かねてか、愕鬼は転がるテニスボールの一つを手に取り、天へと放る。
しなやかなに背を逸らし、力いっぱいに振りぬかれた腕で放つ一打は、プロにも匹敵する速度のサーブとなった。
時速にして200キロメートルで宙を翔るボールは、綺麗に僕の顔面を捉える軌道だ。
たとえ受けたところで命に関わる怪我にはならない。しかし、眼鏡のレンズが割れ眼球を傷つけられれば任務に支障が出るだろう。最悪、眼球破裂を引き起こす恐れもある。流石にそれほどのダメージは許容出来ない。
ゆえに僕は直前で顔を背け、迫るボールを頬で受けた。同時に、飛来するボールと全く同じ速度で首を僅かに回し、衝撃を受け流す。
結果、テニスボールは布に向かって投げた時と同じように、空気の抜けるような音と共にその場でぼとりと落下した。
肉体に与えられたダメージは限りなくゼロに近いが、はたから見れば豪送球を顔面に受ける痛々しい絵面になっているだろう。
「サーブってのはこうやってやんだよ」
愕鬼の恍惚とした表情に、取り巻きの男子生徒たちが歓声を上げる。
その後、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴るまでの間、僕は的代わりとして彼らが放つサーブの雨を受け続けた。ほとんどは外れたり受け流したりして捌くが、表面上の変化がなさ過ぎるとそれはそれで不自然なので、あえて唇を嚙み切って血を流したり、ボールを受けて顔を腫らせたり、うめき声を漏らしたりと負傷を演出する。
「久しぶりに楽しかったぜ、義正。また遊ぼうな!」
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴れば、愕鬼たちは満足した様子で屋上を後にする。
「……可愛いもんだな」
愕鬼たちの背中が見えなくなるまで見送ってから、僕は口内の血を吐き捨て、口角から流れる鮮血を指で拭う。
――平和ボケした子供がラケットとテニスボールではしゃいでいると思えば、愛らしく見えないこともない。少なくとも某国のように自動小銃や拳銃を持ってないだけマシだ。
伊達眼鏡のレンズを綺麗にしつつ、予想が的中していたことに胸を撫で下ろす。おかげで想定内のアドリブが出来た。
伊集院義正と愕鬼京の間にあるのは友好関係ではない。
実際は虐げる者と虐げられる者の関係であり、またこの関係こそ伊集院義正が不登校になった最大の理由だろう。
潜入活動を続けていくうえで、彼らのお遊びに付き合うのは少しばかり面倒だ。
・・・・
愕鬼たちとのお遊びを終えた僕は、演出した怪我の治療をするため保健室へと足を運ぶ。
「失礼します」
柔らかな乳白色の壁に、肌色に統一された家具の数々が並ぶ一室は、それだけで人を落ち着かせる心理効果がある。
戸棚には医療品が収められ、部屋の隅にはいくつかのベッドが並べられていた。ただそこに人の姿はない。大抵は医療知識を持つ教員が配備されているものだが、今は手洗いにでも行ってるのか姿が見えない。
学院は新学期の初日ということもあり、決め事の類は午前で終了。午後からは自由下校となっているが、正門付近で行われている部活動勧誘の騒声がここにまで聞こえてくる。
急ぎの用事もなければ、すぐに手当てしなければならないような怪我でもない。勝手に備品を漁り叱られても面倒なので、適当な椅子に腰を下ろし教員が戻るまでの時間を潰す。
「……あ」
そこで初めて、制服のシャツが血で濡れていることに気付いた。
襟に染みた鮮血が赤い花のように広がっており、このまま帰路につくのは少々不格好だ。
長く染みこませると落ちにくくなり、洗濯の手間が増える。早いうちに洗い落とした方がいいだろう。――任務中の住居は伊集院家が借りている高級タワーマンションの一室だが、そこには伊集院家族は当然、家政婦の一人もいない。住居では一般人に見せられない機密情報を扱うだけでなく、いざという時の銃火器も備え付けているためだ。《雀蜂》は年中人手不足なので生活補助のためだけに人員を寄越すことはしない。
つまり基本的な家事や生活は僕一人で行わなければならず、ここでの行動を後回しにして面倒を被るのは僕自身だ。
帰宅して後悔しないよう、僕はシャツを脱ぎ洗面台で血濡れた部分を手洗いする。
視界の端で揺れ動くものに気づき、視線を送ればいつかの時と同じように、姿見が僕の姿を映し出していた。
柔軟性を損なわない程度に肉付いた筋肉に、割れた腹筋。それ自体はさして珍しくないが、その表面には無数の切り傷が跡となって刻まれている。
敵との闘いや拷問の末に負ったそれらの傷が、僕の過去そのものを示している。だからこそ、傷跡の修正手術はするべきなのだ。
短期任務ならまだしも、今回のような長期任務であれば傷跡を残すべきではないが、今回は急ぎということもあり全身の修正手術を行う余裕がなかった。
一般人が見れば妙な疑いをもたれるほどには痛々しい傷跡。それだけならまだいいが、これが学院に潜む工作員にでも見つかれば、僕が一般人ではないと気付く恐れがある。
例えば、あのアナスタシア・ベロゾフに見つかれば、僕の正体を察するには十分な判断材料になるだろう。
その彼女の整った顔立ちが脳裏によぎると同時に、保健室の引き戸が音もなく開かれる。
「失礼します。備品を受け取りにきまし――」
凛とした一声と共に保健室へと一歩足を踏み出したのは、銀の長髪に翡翠の瞳が特徴的な少女。たった数舜前に僕の脳裏によぎった人物、アナスタシア・ベロゾフその人だった。
「「…………」」
――やってしまった。
僕がそう後悔するよりも早く、アナスタシアが動く。
垂れた目尻を吊り上げ、鋭い視線を僕へと送る。同時に彼女はブレザーの内ポケットから手の平に収まる程度の小さな拳銃を取り出した。
その銃口がこちらへ向けられるよりも早く、僕は手に持つシャツを彼女へと放り一瞬の死角を生み出す。
銃は発砲時に大きな音を響かせ、また隠し持てるサイズの拳銃は装弾数に余裕がない。確実に成果を得られる瞬間にしか発砲はしないだろう。――素人相手では期待出来ないが、訓練を受けている人間ほど本能が邪魔をするものだ。
僕はその本能を利用し射撃を中止させ、同時に床を蹴りアナスタシアとの距離を縮める。
再び彼女の翡翠の瞳と目が合う頃には眼前にまで迫り、直後に僕は彼女が持つ拳銃の分解装置を下げ、遊底を引き抜き瞬時に拳銃を簡易分解した。
引き抜いた遊底を逆手に、アナスタシアの意識を刈り取るように顎先へ腕を振るうが、彼女は頭を引いてこれを紙一重で躱す。
内部機構が露出する拳銃を放り捨てたアナスタシアは、床に落ちている僕のシャツを長い足で掬うようにして拾い上げると、即座にシャツを利用した締め技を行う。
女性の諜報員や工作員のほとんどは格闘戦になった際、性別による筋力差を補うため筋肉では守れない人体の弱点を攻める関節技や締め技を重点的に利用するよう訓練を受ける。僕の中にある疑いを裏付けるように、アナスタシアはそれを実行した。
翻ったシャツが僕の首に巻きつき、頸動脈を締め上げられながら気道が圧迫される。同時に膝関節への蹴りを差し込まれ、僕はその場でアナスタシアに背を向けるようにして床に膝を付いた。
「……っ!」
アナスタシアの激しい息遣いを背に感じつつ、僕は鋭く肘を引き彼女の腹部に差し込む。
「――うっ‼」
餅をつくような感触が肘に伝わると同時に、アナスタシアは短く空気を吐き出す。
首を絞める力が弱まった一瞬の隙に、僕は彼女の胸倉を掴み、その場で背負い投げを実行。シャツが破ける音と共に、彼女の背が勢いよく床に叩きつけられた。
「ぁっ……‼」
肺の中の空気を一気に吐き出したアナスタシアは、すぐに行動を起こせずその場で呻く。その隙に僕はアナスタシアに跨り、彼女の細い首を両手で絞め上げた。
「一度だけ聞く。お前が《国際犯罪組織》の工作員だな?」
どう返されてもここで彼女を殺すことはしない。それでは暗殺が成立しないからな。
アナスタシアは自身の敗北を悟ったのか、目尻に涙を浮かべながら小さく頷く。
それを前にして、僕は胸中で深いため息を漏らした。
――最初から最後まで、ミスの多い女だ。
僕もむやみに上裸を晒すミスをしているが、彼女に至ってはそれすら可愛く見える数々のミスを重ねている。
まず僕と顔を合わせた時、僕が敵であることを見抜いたところまでは良いが、そこで焦って敵対行動を取ってしまえば自らの正体も晒すようなもの。あの場は年相応に恥ずかしがるか、慌ててその場から立ち去るのが最適解だった。
そうすれば僕に正体を晒すことなく、僕の正体を知ることが出来た。諜報戦でリードを獲得するチャンスだった。しかし、アナスタシア・ベロゾフはあの場で考えうる最大の悪手を選択した。
敵対行動を取り、武器を晒し、そのうえ自身が工作員であることまで認めた。こうなっては、彼女を殺さない理由がない。
僕がこの場から安全に撤退するため、アナスタシアの意識を奪う目的で喉を絞める両手に力を籠める――その刹那。
「ちょっと何してるのっ⁉」
チラリと振り返れば、白衣を羽織った教員と思われる女性が頬を赤く染め、驚愕に目を見開いていた。
驚きは理解できる。だがこの状況で羞恥めいて頬を赤くする理由が分からない。
いや、遅れて理解する。――背に隠れて喉を絞める僕の手は教員からは見えない。
ただ向こうからは、破れたシャツから薄黄緑色の下着を覗かせるアナスタシアに跨る、上裸の僕が映っているのだろう。首を絞める手は肝心な部分が見えていないので、床に付いているように見えなくもない。
つまり、この瞬間だけを切り取れば――僕はアナスタシアを押し倒し、無理やり事に及ぼうとする男に見える。
となると必然的に悪者になるのは、僕のほうだ。
・・・・
「年頃だから興味を持つ気持ちは分かります。でもだからと言って、相手の気持ちを蔑ろにしてはいけません!」
正座する僕を見下ろす白衣の教員は唾を飛ばす勢いで言葉を並べ、その背後に被害者面のアナスタシアがいる。
直前まで僕と彼女が死闘を繰り広げていたとは思いもしない白衣の教員は、何が起きたのか分かっているかのような顔で説教を始めた。
一般人に対する武力行使は必須ではない限り、《雀蜂》には許可されていない。
海外にある一部の諜報組織は、任務を遂行するうえで必要であるのなら殺人を含むあらゆる犯罪行為が免責される『殺人許可証』というものがあるらしいが、うちではそのような便利な権利を与えられてはいない。
教員の説得を聞くのは後にして、今はまず発見されると面倒な物的証拠をさり気なく隠蔽する。
僕は床に転がっている拳銃の遊底を背に隠し、アナスタシアは分解された拳銃やその細々とした部品を上履きの先で棚の影、ベッドの下などに滑り込ませた。
「強姦未遂は立派な犯罪です。まずは親御さんに事情を説明してから対応しますからね!」
初日から好調な滑り出しかと思いきや、突然の危機。
ゴルフで例えればパターでのカップインが目前に迫っていたのに、力加減を間違えてボールをウォーターハザードさせたようなものだ。
ただ幸いなことに、目的である《国際犯罪組織》の工作員の特定はほぼ終了。最悪退学になったところでそれほど面倒はない。結果論にはなるが、上裸を晒したのが良い方向へ働いた。
――天音へ報告する際は、相手のミスを前提とした作戦を用いたと説明しよう。
本来その手の作戦は、周到な用意を行わなければ確実性の低いギャンブルのようなものなので安易に行うべきではないのだが。
教員の言葉を右から左に流しつつ、その後の暗殺計画について思案していると。
「違うんです、先生」
アナスタシアが控えめに声を上げる。
「大丈夫よアナスタシアさん。怖かったわよね? すぐに――」
「私が、誘ったんです」
「……へ?」
アナスタシアは頬を紅潮させ、恥じるような表情を浮かべて僅かに視線を逸らす。そのしぐさ、表情、声音、すべてに愛らしさが滲み出ている。
白衣の教員はその愛らしいアナスタシアの姿に、同性だと理解しながら心をときめかせたのか、言葉を詰まらせた。
僕にはそれが計算によるものだと分かるが、白衣の教員にはそれを知る由もないだろう。
「なので叱るべき相手は彼ではなく、私です」
「……なるほど。合意のうえということなら――いやいや、それでも不純異性交遊です‼」
「すみません、すみません!」
寸のところで平静を取り戻した白衣の教員に対し、アナスタシアは銀の長髪を揺らして何度も頭を下げる。同時に、チラリと翡翠の瞳をこっちに寄越してきた。
それが意味するところを理解して、僕もまた渋々だが――
「……すみませんでした」
謝罪を口にする。
その後もぐちぐちと説教を受けたが、アナスタシアの説得でなんとか事なきを得た。