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一話:秘密諜報機関《雀蜂》

 高級ホテルの外に出てすぐ、タクシーを拾いその場から離れる。

 ダッフルバックを開き、札束の間や生地の裏に盗聴器や追跡装置の類が仕掛けられてないことを入念に確認してから、タクシー運転手へと声を掛けた。


「かなり長いですよ。メモの用意はありますか?」


「この会話は記録されています。いつでもどうぞ」


 運転手のその言葉を合図に、僕は記憶した5014桁の数字の羅列を口にする。


 しばらくして全てを語り終えると、運転手は「状況終了。通信終わり」と端的に答え、耳に嵌めたインカムを外す。

 運転手が帽子を脱げば押さえつけられていた黒の長髪がふわりと靡く。黒縁眼鏡から覗く深紅の瞳は、変化が少なく感情が見えない。


情報士官(オフィサー)の貴方が現場に出るのは珍しい。それとも、元【女王蜂】の仮名称(コードネーム)を持つ人間を引っ張り出さないといけないほど《雀蜂》の諜報員は不足しているのか……」


 タクシー運転手の偽装を行っていた彼女は、日本の秘密諜報機関に所属する諜報員の中でも――最優の証明である【女王蜂】の仮名称を与えられていた元諜報員であり、現在は《雀蜂》に属する多くの諜報員を管理、防衛省から与えられた任務に適切な人員を選択、派遣を行う情報士官(オフィサー)だ。

 その彼女が僕の直属の上司であり、僕を諜報世界に引きずり込んだ張本人でもある。


 その名は、天音理子(あまねりこ)。情報漏洩の観点からまず名前で呼ぶことはないため、覚えていてもあまり意味のない名前だ。


「私からの報告と組織への報告。これを効率的に行うことを考えた結果に過ぎません」


「そうですか」


 以降は、沈黙がこの場を支配する。

 僕にとって必要な報告は終わった。次は一番の目的であっただろう天音の報告を聞くために黙っていたが――彼女にしては珍しく、言葉を詰まらせている。


 それに気付くと同時に、天音が口を開いた。


「《国際犯罪組織(クリミナル)》が違法取引の連絡に使用していたのは、RSA暗号でしたか。鍵となる情報を【女王蜂】だった者が入手していなければ、解読は現実的ではなかったでしょう」


 RSA暗号は1900年代から使われる古い暗号形式。『鍵生成・暗号化・復号』の三つのアルゴリズムで形成されるそれは秘匿性の高さから今の時代でも多くの諜報機関で使われているオーソドックスな暗号化方法だ。


 『公開鍵』と『秘密鍵』と呼ばれる二つの情報が無ければ、解析には現代のどんなコンピューターを用いても年単位の時間が掛かる。その間にこの暗号の価値は無に等しくなるだろう。


 しかし、そんなことよりもずっと重要な情報があった。


「【女王蜂】――()()()者?」


 僕の問いかけに、再び天音が沈黙を返す。その意味はすぐに理解出来た。


「……彼女、死んだんですね」


僕の言葉を肯定するように、天音が小さく眼鏡を持ち上げる。


「遺体の回収には成功。現在は書類不備により焼却処分が遅れている状況です」


 《雀蜂》の諜報員は、成ったその瞬間から書類上は存在しない人間となる。

 与えられた偽装がなければ、この世界では一人の人間として生きていることにもならない。それは国家、何より諜報員自身の安全のために必要なことだ。


 僕も【女王蜂】も名を捨て、存在を証明する記録さえも消えた。すべては、一人の諜報員になるために。


 そんな僕ら諜報員の遺体を処理するのに、必要な書類手続きなんてあるはずがない。

 つまり、天音の言う書類不備なんてものは取って付けた適当な理由だということだ。


「彼女に、別れを伝えに行きましょう」


「……はい」


 そしてこれこそが、天音なりの優しさなんだろう。

 最後の別れを伝えることすら、諜報員にはこのうえない贅沢になるのだから。


・・・・


 ――西暦1991年。

 世界中に存在する犯罪組織が利害の一致から協力関係を結び誕生した犯罪者連合――《国際犯罪組織(クリミナル)》の活動によって、世界各国の犯罪率が上昇。テロリストの出現が相次ぐ。

 国益を害し平和を乱す存在から国を守るには、情報が必要だった。


 それは銃火器よりも強力な武器となり、核ミサイルと同等の抑止力にもなる。自衛方法が限られている日本にとって、情報はより価値ある存在となった。

 そこで日本政府は国外諜報員による諜報活動の妨害やテロ組織の攻撃を未然に察知する防諜に特化した秘密諜報機関《雀蜂》を設立。同時に現行の法律では実現不可能な未成年諜報員の運用、育成を目的とした諜報員育成学校《養蜂箱》の運営を開始した。


 そして――2020年の現在。

 《国際犯罪組織(クリミナル)》が引き起こした混乱に乗じて、世界は第二の冷戦時代に突入しようとしていた。


 そしてその犠牲者の一人である【女王蜂】を前にする。


 明かりが最小限に絞られた薄暗い霊安室。目の前には白装束に身を包んだ、15歳の僕と変わらない年頃の少女が横たわっている。


 その肌は青白く染まっていた。指先で触れても、そこから生命の暖かな温もりを感じることは出来ない。いつもの達者な口が動く気配はなく、伸びる栗色の髪に艶がない。空のような蒼い輝きを秘めた瞳と視線を交わすことも、もう出来なくなってしまった。


()()()()()()()()。その事実を、僕は遅れて理解した。


 幼少期。僕たちは諜報員になるべく《養蜂箱》に入学した。

 選択肢はなかった。――僕らは世間では既に死亡した存在となり、生きるのに必要な人権すら持ち得ない、ただそこに存在するだけの小さな肉の塊でしかなかった。

 《国際犯罪組織》の奴隷船から《雀蜂》が救い出してくれていなければ、僕らは死よりも辛い現実を生きることになっていただろう。

 僕らが生きるために、また救い出してくれた《雀蜂》に報いるためには、同じ諜報員になるしかなかった。


 【女王蜂】は奴隷船でも《養蜂箱》でも変わらず、彼女のままだった。

 口が達者で腕は器用。世話焼きでお節介な女の子。

《養蜂箱》の誰よりも優しく、気高く、そして正義感に満ち溢れていた。彼女がいなければ今の僕はなかっただろうし、この国は今以上に酷い状況になっていたことだろう。


 彼女はこの国に尽くした勇敢な戦士であり、臆病で軟弱な僕に殺された哀れな犠牲者だ。


「……さようなら」


 【女王蜂】へ別れを告げて、僕は部屋を出る。


 霊安室を出れば、通路で静かに佇む天音と顔を合わせた。纏う衣服はタクシー運転手のものからいつもの黒服に変わっている。


 天音は掛ける言葉を選んでいるようで、一文字のように口を閉じていた。


「任務があるならやりますよ」


 僕がそう切り出せば、天音は少しの間を開けてようやく口を開ける。


「あります。ですが、少し休暇を取ってからでも構いませんよ」


 【女王蜂】と僕が親しい関係だと知っている彼女は、ここでも気遣う様子を見せた。

 【女王蜂】にその仮名称を継がせた張本人である天音もまた、彼女の死に思うことがあるはず。それでも自身の仕事を全うしている。


 ならば、僕が仕事を休んでいい理由などありはしない。


「……二年前、貴方が僕に言ったことを覚えていますか?」


 それは、僕の諜報活動の方向性を変えるきっかけになった言葉であり、【女王蜂】に死もたらす元凶となった言葉だ。


「この仕事を続けていると、人間として持ちうる善性を失っていく。それは諜報員には不要なものだと思われることが多いですが、その善性こそが諜報員にとって最も必要なものだと私は考えます」


「善性なき人間は、獣や兵器と大差ない。使い勝手が良いでしょうが、変わりは効く。貴方にはそんな諜報員になって欲しくない」


「貴方の中にある善性を守るためにどうしても必要だというのなら、多少の命令違反には目を瞑ってあげましょう。――我儘も仕方ありません。貴方はまだ子供なのだから」


 当時の僕はその言葉を信じて救われたが、今はその言葉のせいで大きな後悔を抱えることになった。


「覚えています」


 天音は眼鏡を小さく持ち上げ、肯定の意を示す。


「その我儘の結果がこれだ。僕は殺しを避けた。ただ嫌なことから目を背けて、そのすべてを彼女に押し付けた。……僕の我儘で、彼女は死んだ」


《養蜂箱》での訓練の結果か。どんなに感情が高ぶり、後悔の念を抱えても。その意思がなかったからか涙の一つも流れなかった。


「任務をください。彼女がやる予定だった、僕がやるべき任務を」


「……分かりました」


 天音は再び眼鏡を小さく持ち上げると、常備しているタブレットを僕へと差し出す。


「貴方にやってもらいたい次の任務は――()()です」


 それは僕がこの二年間、自身の心を守るために背を向けていた、心の摩耗を避けられない性質の任務。


 だが今だけはそれで良かった。――他の誰でもない僕が、それを望んでいた。



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