第八話:『受けのトメ―トゥ』と『攻めのビーフ』
アレクシスとの奇妙な共同生活は、私のBL漫画制作に、予想を遥かに超える影響を及ぼしていた。
彼はまさに、生けるBL資料だったのだ。
あの時、彼がシャツを脱いだ瞬間──私は、その完璧な上半身に息を呑んだ。夢中でペンを走らせる。筋肉のつき方は当然、骨格のバランス、何気ない仕草に生まれる陰影……。二次元では再現しきれなかったリアルが、そこには確かに存在していた。
それ以来、私は彼の動きを細かく観察するようになった。
袖をまくって料理をする姿。ソファでくつろぐ時の長い脚。料理に失敗してしょんぼりする背中……。
「アヤノ。私の顔に何かついているか?」
タブレット片手にじっと見つめていた私に、アレクシスが首を傾げて訊ねてくる。その仕草がまた妙に艶っぽくて、私は一瞬、目を逸らしてしまった。
「いえ、ついてません。ただ……アレクシスさんって、モデル向きだなと思って」
言うと、彼はほんの少し眉を寄せた。
「モデル……? 私は伝説の料理人を目指しているのだが」
「いや、その……漫画のキャラの資料に……」
濁した言葉に、彼の目がぱっと輝いた。
「なるほど。私が、君の創作に貢献できるということだな。構わない。できる限り協力しよう」
そう言って誇らしげに胸を張る彼。たぶんこれも異世界の文化を学ぶ一環のつもりなのだろう。
私は内心で思いきりガッツポーズを決めた。
それからというもの、彼の料理修行の合間や食後、私は彼をモデルにスケッチする日々が始まった。時には、こちらが求めるポーズを真剣な顔で再現してくれる。
「この『壁ドン』というのは、なぜこのような姿勢を?」
指示通りに壁に手をつき、顔を近づけてくるアレクシス。その真顔と、迫ってくる美形に私は耐えきれず「ひぃっ」と情けない声を上げてしまった。漫画ではいくらでも描けるのに、三次元のイケメン相手となると、心臓が持たない
「いや、アレクシスさん、それは……その……『攻め』が『受け』にするやつで……」
顔を真っ赤にして説明する私に、彼は神妙にうなずき、あろうことか一歩踏み込んできた。
「なるほど。では、その時『攻め』はどのような表情をするのだ? 対して『受け』はどんな感情を抱く? 詳しく教えてくれれば、より正確に再現できるはずだ」
彼はいたって真剣だった。私は完全にたじろいでいた。もはや論文発表の気分である。
しかし、アレクシスという最高の生きて動く資料を得たことで、私の創作意欲は爆発した。
彼の表情、動き、反応すべてがインスピレーションの源になる。
次回作には、彼をモデルにしたキャラクターを登場させることに決めた。
そして、私がそんな目論見を実現させようとしてる傍らでは、アレクシスが『愛』という概念をBL漫画から学び、その料理を予測不能な形へと進化させていた。
「ところでアヤノ。この『受けのトメ―トゥ』と『攻めのビーフ』を組み合わせてみた。試してくれ」
差し出された皿は、一見シチューのようだった。トマトと牛肉の組み合わせはごく普通……のはずなのに、そのネーミングだけが異常に主張しているだけではなく、湯気とともに謎の「情熱」が立ち上っている幻覚が見える。牛肉は妙に色艶が良く、トマトはとろけるように牛肉に寄り添っている。
「いや、普通にトマトと牛肉の煮込みでいいんじゃ……」
スプーンですくって口に運ぶ。連日の修行の成果もあり味は悪くない。むしろ普通だ。が、『攻め』と『受け』という単語が味覚の隅に引っかかり、なんとも言えない気分にさせられる。
「どうだ?『魂の共鳴』を感じるか?」
彼は真顔で尋ねてきた。私はつい「感じるのは背徳感です」と言葉を滑らせ、背徳感に関してより詳細な説明を促されることとなった。
アレクシスの創作料理は日々加速し、『運命の赤い糸パスタ』なるミートソース×紅生姜の暴挙や、『背徳のデザート』と称したワサビ入り生クリームなど、予想を超えたメニューが次々と食卓に登場した。
不思議なことに、どれも微妙なラインで食べられる味で、時には妙にハマる味さえあった。これが、受けと攻めの味覚の融合……なのだろうか。
「アヤノ。君のおかげで『愛』に関して再認識出来たような気がする。料理でも、それを表現できるようになってきたな」
彼は誇らしげに胸を張る。私は彼の愛の理解と、私の理解が恐ろしく乖離していることを確信したが、彼の無垢な笑顔を前に否定する気にはなれなかった。
そして私の創作も、順調に新作の形をとり始めていた。
アレクシスをモデルにしたキャラクター、その名も「アレス」。異世界から来た王子で、世間知らずだが純粋、そしてなぜか料理に情熱を燃やす青年だ。ビジュアルはもちろん、アレクシスそのもの。彫りの深い顔立ち、蜂蜜色の髪、そして憂いを帯びた蒼い瞳。
担当編集者である鈴村君は、プロットを見た時には「王子なのに料理漫画ですか……?」と微妙な反応だったが、キャラのラフを編集部内に回覧したところ、「これ、イケますね!」と女性陣の後押しを経て企画はあっという間に通った。
◇◇◇
「アヤノ。この『アレス』なる人物、どこか私に似ているな」
ネームを覗き込むアレクシスの声に、私は思わず硬直する。
「え、ええ……ちょっとだけ参考に……」
「私が君の創作に役立てるとは、光栄だ。このアレスは、どのような愛を紡ぐのだ?」
彼の問いに、私は再び顔を赤らめた。
まさか自分をモデルにしたキャラが、男同士で愛を育むとは、さすがに思っていないのだろう。
原稿の一部をSNSに先行公開すると、読者の反応は凄まじかった。
「この新キャラ、刺さる!」
「顔面偏差値高すぎてつらい」
「……なんか既視感あるけど、気のせい?」
特に「見たことある気がする」という声には背筋が冷えた。
まさかとは思うが、彼の顔がネットに流出していたりは……ないよね?
とはいえ、二次元王子であるところのアレス人気は一気に爆発し、作品の知名度も急上昇。
鈴村君からも「先生! ヒットの予感です~!」と連絡が入り、私は創作にますます没頭していった。
アレクシス本人は、自分の姿がモデルになったキャラが、ネットで話題になっているなど露知らず、今日も黙々とスケッチポーズを取り、創作料理に挑戦し続けている。
私は願う。このまま、彼の素性がバレずに連載が終わることを。
……ただ、天然な彼と、SNSの拡散力を甘く見てはいけないのだった。




