第六話:素晴らしき一日の始まりは朝食から
翌朝、私はアレクシスが当然の如く、キッチンに立つ姿を目の当たりにして、昨日の出来事が夢ではないことを痛感した。彼に「食料庫と厨房になってもらわねば困る」と言われた時、まさかこんなに早く、しかもこれほどまでにリアルな形で実現するとは思わなかったのだ。
「なるほど……これが『伝説の朝食』というものか」
アレクシスは、フライパンを手に、意気揚々と卵を割ろうとしていた。が、その勢い余って、卵は彼の白いシャツの上で無残にも弾け飛んだ。黄身と白身が、まるで抽象画のようにべっとりと付着する。
「あーっ! なにやってるんですか、アレクシスさん!」
私は思わず声を荒げた。
彼が着ている、あのシンプルな白いシャツは、たぶん一般家庭の洗濯機では対応不可能レベルに上等なやつだ。
「す、すまない……。卵とは……こんなにも……。思った以上に柔らかくて……」
しゅん、と肩を落とし、しょんぼりするその姿は、まるで叱られた大型犬の子犬である。王子様然とした態度とのギャップが激しい。
「ちょっと貸してください!」
フライパンを取り上げ、流し台に置くと、アレクシスは再び困ったように眉を下げた。
「とにかく、その服、汚れてるから着替えてください。予備の服、ありますよね?」
「服は……まだ箱の中だ。しかし、この服はもう着られないな」
彼は自分のシャツを悲しげに見下ろしている。
洗濯すれば着られますから。
否、今までの発言を鑑みると、もしかして洗濯するという概念が存在していないのかもしれない。異世界から来たうえ金銭感覚もぶっ飛んでいると思われる彼に、今度は洗濯の概念までも教えてないといけないのだろうか。
「仕方ない……。じゃあ、これ着ててください」
私はクローゼットから、自作品とコラボした際に限定的に作成したグッズでもある大きめのTシャツを引っ張り出した。一応男性キャラの等身サイズに合わせて作成したものなので、彼なら問題なく着られると思われる。
アレクシスは無言でTシャツを受け取ると、その場でシャツを脱ぎ始めた。
「ちょ、ちょっと! ここ、私の部屋ですよ!」
私は慌てて顔を背けた。目の前で繰り広げられる、まるで映画のワンシーンのような肉体美。締まった腹筋、盛り上がる上腕二頭筋、そして広がる背中。シンプルながらも、鍛え抜かれた筋肉が、Tシャツ越しでもはっきりと見て取れる。
「どうかしたか? アヤノ」
きょとんとした顔で、アレクシスが私を振り返る。
彼にとっては、人前で、ましていちおう女性の前で服を脱ぐことなど、全く特別なことではないらしい。だが、私にとっては、目の前に広がる光景は、まさに眼福以外の何物でもなかった。
「……ッッ!」
私は震える手で、反射的に手近にあったタブレットとスタイラスペンを掴んだ。
くそう!この筋肉、この体つき、まさに私が求めていた「大型わんこ系裏家業(受)」のモデルにぴったりではないか!
「アレクシスさん! そのまま、ちょっと動かないでください!」
私の声に、アレクシスは不思議そうに眉をひそめた。
「何をするつもりだ?」
「ちょっと、スケッチさせてください! 上半身だけ、ちょっとだけ! 右腕力こめて!」
私は興奮気味に訴えた。目の前にいるのは、三次元のイケメンではあるが、まさかこんな形でネタが降臨してくるなんて。これはもう、描くしかないだろう!据え膳食わぬはなんとやらである。
アレクシスは私の剣幕に若干後ずさったものの、ぴたりとペン先を突き付けられ、やがて諦めたように腕を下ろした。
「……わかった。これも修行の一環、なのだな?」
彼はそう言って、少し得意げに胸を張った。その胸板の厚みに、私はゴクリと喉を鳴らす。
「ありがとうございます! 光栄です!」
私は一心不乱にタブレットを操作し、アレクシスの肉体をスケッチし始めた。彼の筋肉のつき方、骨格、そしてわずかな動きで変化する陰影。これまでの資料だけでは得られなかった生きた情報が、今、私の目の前にある。
「アヤノは、絵を描くことが本当に好きなのだな」
アレクシスが、感心したような声で呟いた。彼は、私が絵に集中している間、微動だにせず、まるで彫像のように立っていた。
「ええ、もう大好きです! アレクシスさん、本当に素晴らしい素材です! 大好物の大胸筋! 大好物の二頭上腕筋! あ! 指先の角度もそのまま! 血管浮き上がっているのいいいいいいい」
私の言葉に、アレクシスは少し顔を赤らめたようだった。だが、そんなことは今の私にとって、どうでもよかった。目の前には、最高のインスピレーションがあるのだから。
この日の朝食は、結局、簡単なスクランブルエッグとトーストになった。
とはいえ、私にとってそれは、何よりも価値のある取材成果があった朝食だ。




