第四話:甘美なる香りと禁断の扉
「む……とても、良い匂いがする……」
餌を目の前にした落ち着きない子犬のように、アレクシスは私の背後から鍋の中を覗き込んだ。甘い低音が耳に忍び込み、ぞくぞくと私は身体を小さく震わせる。近い、近すぎる。隣人の距離感としてはいささか問題アリ。「ハウス!」と言いたい所をぐっとこらえて、私はゆっくりと振り返った。
「ここから更に三十分程煮込みますので」
最後通牒をうけたかのような表情を浮かべ、アレクシスは肩を落とし、指定された位置に戻るとサクランボのパックを片手に座る。
幸い私の部屋に見られて困るような物が溢れている状況ではなかった。仕事の区切りがついてしっかり片付けが終わった後だったのは、彼にとっても幸運だろう。
私は普通の漫画家ではない。BL漫画家なのだ。
BOYS LOVE。
略してビーエル。
男性同士の恋愛に関するあれこれを主題としたある種のファンタジー作品を描くことを、生業としている。
ゆえに、ごく普通の生活をしている人がそうそうお目にかからないような書籍や資料、そしてグッズ等が、壁面収納本棚の中に並んでいる。うっかり手に取ってしまったら、心の平安を崩しかねない。
あの禁断の扉さえ開かなければ、私の部屋は、奥にベッド、並びに大きめのPCデスク。そして更にその並びにテレビなどの家電を置いたチェスト。その正面に二人掛けのソファ。と、とてもシンプルに構成されている。リモコンやメモなどの細かい物も、ローテーブルの引き出しに仕舞っているので、机上にはアレクシスが購入したさくらんぼと、先に少しだけ切っておいたオレンジの載せられた皿しかない。
世間知らずなお坊ちゃま臭をぷんぷんさせているアレクシスは、漫画、という物を、正確に理解していないようだったが、絵師――というのは彼の理解領域にも存在している言葉だったらしい。彼の中で、芸術家の類と同位置に引き上げられてしまったBL漫画家の私を、尊敬の眼差しで見るのはやめて貰いたかった。
特典として作成していたポストカードに、目を丸くさせて恐る恐る彩色されてある表面を指で辿る様子は、彼がその出来に甚く感動している事実を、視覚的に伝えてきた。ので、まあ悪い気はしないかも。
ちなみにポストカードは、肌の露出が多少過剰ではあるけれど、一人絵のかなり無難な物である。
調理の際に圧力鍋を使用したビーフシチューは、口の中に運んだ瞬間ほろりほろりと溶けてしまう。明日になればもっと味が染み込みそう。カランとスプーンが食器に触れる音に、口に合わなかったかな?と一瞬心配になるけど、そうではなかったようだ。
アレクシスは表情が豊かだった。初対面にも近い相手に対して、こうも自分の感情をだだもれにさせてしまって大丈夫なのだろうか。しかも相手は私である。次回作のネタの一人になりそうな存在が目の前にいて、その言動や表情。一挙手一投足を観察しているというのに。
私がバゲットを切り分けている最中に、物凄い勢いで一皿を綺麗に食べ終えたアレクシスは、唐突に立ち上がり部屋から出て行ってしまう。そして慌ただしくも、すぐ戻って来た。綺麗な玻璃製っぽい瓶を手にしている。
「今こそ、これを開けるべき時であると思う」
ずずいと寄越される瓶の液体が、たぷんと揺れた。
「お酒ですか?」
「ああ」
瓶だけを寄越して、アレクシスはそれ以上何も語らない。こういう言葉足らずな所は、日頃からお世話され慣れている雰囲気がする。私はグラスを二つ取ってきて、中の液体を注いだ。予想に反さず、深紅色。ビーフシチューを煮込む時にも赤ワインは使っているけれど、あの安いワインとは違った、芳醇な香りがする。
「わ、おいし!」
想像以上の濃厚さで酸味が効いている。お酒には強い方ではないけれど、呑むのは嫌いじゃない。二皿目をしっかりと平らげたアレクシスは、グラスを片手にしてうっそりと目を細めている。
「気に入って貰えたようで良かった。昨年献上された物だからな。せめてもの慰みに持ってきたのだ」
鷹揚な物言いは、堂に入っている。
「このように楽しい夕餉は久々だな……」
「私も誰かと会話しながら食事するのは久しぶりです。たまにはいいですね、こういうの」
アルコールがアレクシスを饒舌にさせているのかは、分からない。私も久々に飲むアルコールで、少々螺子が緩んでしまっていた。空いているグラスに瓶の中身を注ぐ。蒼い瞳とグラス越しに視線が合う。
「私の国では、男女が密室で酒を酌み交わす事に、特別な意味を持っている」
「どんな意味なんですか?」
「――知りたいのか?」
やや赤く染められている舌がチラリと見えた。グラスを煽ると、喉ぼとけが上下し、そのラインに目を奪われる。今のは絶対に動画で撮っておくべき場面だ。全世界の特殊な趣味を持つ乙女たちにリアルタイムで配信すべき。
グラスが置かれ、大きな掌がこちらへと伸ばされてくる。ごつごつとしているけれど美しく長い指。この指は一体どこへ向かおうとしている?ぼんやりとその軌跡を眺め、半ば条件反射で一歩後ろへとお尻をずらした。
収納扉の取っ手が後頭部を直撃し、その反動で、禁断の扉が開かれる。そのままの勢いでつい中の棚に腕をついた。内部を平行に仕切っていた一枚板の留め具が外れ、どさどさどさ、と並んでいた書籍が床へと落ちた。
アレクシスはその大きな掌で顔半分を覆い、瞠目していた。声を完全に失ったらしい。
いかがわしい気配を漂わせていた男と私の間に、成人男性同士が愛を語り合う、実に耽美な見開きのイラストが、これでもか!といった具合に、存在感を際立たせていた。
「これが私の仕事です。職業、BL漫画家なんです」
「びーえる、まんがか……」
ふるふると美しい蜂蜜色の髪を震わせ、アレクシスは芝居がかったように、両手を床に押し付ける形で、項垂れた。ナイスポーズ。
「男性同士の恋愛模様のすったもんだを題材にしているんです。理解するのは難しいと思いますけど」
「理解……その、男色というものだろう? それは知っている」
――ん。
「もしやそういう経験が有ります!?」
思わず身を乗り出した私に対して、アレクシスはびしっと姿勢を正し両掌をこちらに向けた。
「いやっ、無い。無いぞ! そ、そういうのが好きな御仁が居るのは、居るのは……」
「身近にいらっしゃるんですか!?」
詳しく聞きたい。アレクシスレベルの顔面偏差値を持っていると、尚良い。
「軍などは男所帯で、そういう話も、あると……」
「軍! 軍隊があるんですね! 軍服っっ! とても良いですねえええ」
「お、落ち着け」
「アレクさんも軍に所属した事があるんですか?」
「いや、私は無いぞ! そして私は異性愛好者だ!」
胸を張り、片手を挙げ宣言をする。そこまで主張してくれなくても大丈夫。二次元での出来事だからこそ愛でられるのだ。三次元だと生々しすぎて、頂けない。
「べ、別に、そのアヤノは実は男性という訳ではないんだな?」
「私は生物学上は女性で、異性愛好者です」
探るように問う蒼い瞳が、あからさまにほっとした色を宿す。
「それは行幸だ。しかし……」
「世の中には、こういう世界を俯瞰して眺めるのが好きな方も居るんです。需要と供給。私は職業として提供する側ですよ。勿論、嫌いでは無いですけど。深くハマっている訳じゃないです」
「成る程……」
アレクシスの持参してきた葡萄酒は、アルコール濃度がかなり高めの感触だったのだが、彼は私が書籍を片付けている間に、すべて飲み干してしまったようだ。ほんわりと赤い首元は、ボタンが理想的な位置まで外されていた。
自棄になったように床に直接片膝を立てて座っている姿は、美しい。テーブルに頬杖をついて、理想の角度から鑑賞させてもらっている。流し目を受けて、微笑んで返せるくらいなんだから、私もやっぱり酔っていたのだろう。うむうむくるしゅうない。




