第二十一話:とりあえずの大団円
フォルジェ王国にある榊原邸の客用居室は、深い静寂に包まれていた。
疲労と興奮の余韻が漂う中、榊原は革張りのソファに深く腰掛け、卓に置かれた大きな算盤を静かに弾いていた。彼の指が奏でる小気味よい音が、室内に規則正しく響く。
その音を聞くたびに、わずかに緊張感を覚えるのだった。目の前には、鈴村君が少しだけ青ざめた顔で座っている。彼の隣には縮こまっているシリルさんがいる。そして、その向かいでは、アレクシスが、優雅な姿勢で紅茶を啜っていた。
「今回の食の祭典とサイン会、大成功でしたね、榊原さん」
鈴村君が興奮を抑えきれない様子で言う。彼の顔には、国立魔術研究院での連日の取り調べによる疲労の痕跡と、イベント成功の達成感が複雑に入り混じっていた。
「ええ。想定を上回る収益です。特に、絵師アヤノ様のイラスト付き指南書は、初回出荷分が完売。増刷分の予約も殺到しています」
榊原は淡々と告げ、分厚い書類を私に差し出した。
フォルジュ王国通貨を日本円に換算した数字は、私が日本でBL漫画を描いて得ていた収入とは比べ物にならない額だった。桁数の多さに眩暈を覚えそうになるが、その莫大な額は、この数日間の混乱と疲労をいくらか和らげてくれるような気がした。
「さて、その莫大な利益を鑑み、アレクシス様。あなたの日本への再転移計画ですが、予定通り進めることになります」
榊原の言葉に、アレクシスは急に顔色を変えた。彼の完璧な表情に、焦りの色が浮かぶ。
「何を言うのだ、コウ。私の『愛の料理』は、まだこのフォルジェ王国で、真に理解されていない。このままでは、私の旅立ちの意味がないではないか」
アレクシスは、先日の愛の料理を極める旅立ち宣言を引き合いに出し、静かに抗議の姿勢を見せた。彼の瞳は、幼子のように潤んでいる。まるで、おもちゃを取り上げられた子どものようだ。
「アレクシス様は今回のイベントで十分に貴方の存在をフォルジェ王国の民に示しました。強硬派も、貴方が一時的に日本へ退避することは容認するでしょう。このまま此方側に滞在を続ければ、無駄な摩擦を生むだけです」
榊原は冷徹に言い放つ。彼の言葉には、一切の情がない。ただひたすらに、効率と利益、そして王国の安定という冷徹な計算があるだけだ。
「それに、日本での『リアルアレス王子』としての動画活動は、継続してもらいます。その収益で、今後のあなたの生活費を賄っていただきますので、ご安心を」
アレクシスは、榊原の言葉に渋々頷いた。
どうやら、自分の活動が金になるという話には弱いらしい。彼のプライドをくすぐりつつ、同時に彼の生活の基盤を握る。榊原の巧みな手腕に、私は感嘆のため息をつきそうになった。
「そして――」
榊原の視線が、私に向けられた。私の背筋がスッと伸びる。
「貴殿の『絵師アヤノ』としての活動ですが、フォルジェ王国での人気は絶大です。今後も、定期的に新作の料理指南書や、似姿集の制作を依頼をさせていただきたいと思います。もちろん、報酬は今回と同等、あるいはそれ以上を保証します」
「え……異世界での絵師活動……ですか?」
私は、自分の耳を疑った。
まさか、日本に帰って終わりではないとでも言うのだろうか。私の異世界生活は、このサイン会で区切りがつくと信じていたのに。
「ええ。定期的に、フォルジェ王国へ転移していただき、現地の食材を使った料理本や、王国の風景を描いた画集などを制作していただきたいと思います。フォルジェ王国の食文化と観光業の振興にも繋がりますし」
榊原は、まるでビジネスパートナーに話しかけるように淡々と語る。彼の頭の中では、私の異世界での活動が、既に緻密な収益モデルとして組み込まれているのだろう。私は、彼の目の奥にある、底知れない野望を感じ取った。
「いや、無理です。私は日本の漫画家で、異世界での絵師活動なんて、そんな……」
私が必死に抗議すると、榊原は冷たい視線で私を見つめた。
「貴殿の漫画の『アレス王子』は、アレクシス様がモデルです。彼が異世界での『愛の料理』を求める旅に出たとなれば、当然、貴殿の漫画もそれに合わせて展開しなければ、読者の期待を裏切ることになるでしょう。それに、この莫大な報酬を前にして、貴殿に拒否権があるとお思いですか?」
榊原の言葉は、私の弱みを的確に突いてくる。漫画家としての責任、そして、目の前の莫大な金。私は、ぐうの音も出なかった。彼の言葉には、脅迫めいた響きがあった。しかし、それに抗う術は、私にはない。
「それに、先日、我が屋敷の筆頭執事に紙の準備を依頼されたでしょう。『フォルジェ王国の謎の絵師アヤノ様』の画室を母屋から続く離れに準備させていただきました。ほら、ちょうど転移した際に使用した礼拝所を、創作の場に相応しいよう改修したのですよ。――ちなみに改修費はこちらとなります」
ぴら、と見せつけた書類の桁は、先ほどの売り上げに匹敵する。
さながら悪徳リフォーム業者に騙されたような気分になる。
「お、お願いって、私、はした紙とかあればって」
「フォルジェ王国の王位継承者の特別なご友人でもある貴殿の要望に対して、我が執事は最善を尽くしたというのに、酷い言いようではないですか」
「アヤノ、共に、愛(の料理)の道を極める旅に出ようではないか。そして、私の姿を、故郷の民に描き続けてほしい、伝えて欲しい。それができるのは、私が唯一パートナーとして認めた貴女にしかできぬことだ」
アレクシスが、満面の笑顔で私の手を握ってきた。
彼の瞳には、新たな旅への期待と、私の異世界での活動への熱烈な歓迎が込められている。彼は、榊原の言葉の裏にある冷徹な計算など、全く理解していないのだろう。ただただ、純粋に私と――色々省略すると『愛の旅』に出たいと願っている。
「え、一緒に……ですか?」
私の胸は、痛みとは違う、複雑な感情で満たされていく。
どうやら日本と異世界を股にかけた、前代未聞の冒険へと突入していくらしい。この旅が、私の胃にどう影響するのか、想像もつかない。
◇◇◇
榊原の指示を受け、アレクシスが転移の準備を始める中、鈴村君が深いため息をつきながら、私に話しかけてきた。
「先生……異世界での絵師活動、本当になっちゃいましたね」
彼の顔には、疲労と諦めが入り混じっている。シリルと分離したことで、肉体的な負担は減っただろうが、精神的な負担は増しているようだ。
「そうだね……。それにしても、アレクシスさん、漫画のモデルが自分だってこと、どう思ってるんだろうね」
私が問いかけると、鈴村君は首を横に振った。
「多分、全く理解していないと思いますよ。彼は、自分の存在が『愛の料理』を広めるための天命だと思っているので、先生が描く漫画も、その『天命』の一部だと考えているんじゃないでしょうか」
鈴村の言葉に、私は妙に納得した。アレクシスにとって、全てが愛に帰結する。その純粋さが、私の精神を常に揺さぶるのだ。
「スズムラが苦労しているのは、長く一緒にいた私には分かります。しかし、アヤノ様と共にアレクシス様を支えるのは、我々の使命でもあるのですよ」
シリルさんが、鈴村君の肩にぽんと手を置く。生身となったシリルはどう見てもやはり、配色違いの鈴村君にしか私には見えないのだが、皆はどう思っているんだろう。
「あのですね! シリルさん……もう僕の身体は乗っ取らせませんよ!? なんだか気が休まらないなあ……魂の片割れとかほんと」
鈴村君は、疲れた顔でシリルさんを見つめる。え、魂の片割れってなんなんだ。今初めて聞いたぞ。国立魔術研究院での調査とやらで判明した新事実なのだろうか。めちゃくちゃ気になる。そう、この予測不能な日々が、私の創作意欲を刺激しているのもまた、事実。
「わかりました……やります。異世界での絵師活動も、アレクシスさんの旅にも……付き合います」
私の覚悟の決まった(諦めに近い)返事に、アレクシスは満面の笑みを浮かべた。
彼の笑顔は、まさに太陽のようだった。
「やはりお前は、私を唯一理解してくれる存在なのだな。共に伝説を紡ぐ旅に出よう」
異世界と日本、二つの世界を股にかける私のBL漫画家人生は、まだ始まったばかりだ。アレクシスの純粋な熱意、榊原の冷徹な策略、鈴村君とシリルの献身的なサポート。個性豊かな仲間たちと共に、私はこの予測不能な冒険を進んでいく。
これは、ただの異世界転移物語ではない。
胃痛と共に成長し、新たな創作に挑み続ける、私達の壮大な物語なのだ。




