第二話:合鍵と不穏な予感
昨今の事情的に、固定電話は仕方ないとして、スマホさえも持っていないという男を、私は自宅の玄関に案内していた。マスターキーと身分証明書は自宅のどこかにあるというので、犯罪の片棒を担ぐわけでは恐らくないと思いたい。
検索して探した鍵屋はちょうど近くの現場にいるらしく、あと十五分程度で到着すると言っていた。男に付き合って通路で待つのも面倒だし、コンビニで買ったビールが温くなるのでは無いだろうか、という不安もあった。主役級のイケメンをちょっと明るい所で見てみたいという好奇心も、少しあった。
通路で拾ったイケメンは玄関横の壁に少し凭れ掛かり、両腕を組んだまま目を閉じている。彫像のようなその姿を写真で撮影したいという欲求をなんとか抑え、少し離れた所で観察する。
白いシャツに黒いパンツ。シャツのボタンをもう二つ三つ外した方が良い。
が、私は二次元と三次元の区別を付けられる良い大人なので、極力無表情を保つ。非常にシンプルな服装だからこそスタイルの良さが際立っている。上背は恐らく百八十cmを優に超え、シャツの下の筋肉はしっかりとついていそうだ。ただし裸足というのは、ちょっと頂けない。
うっかり外に出てしまったとか? このマンションは最先端を行く建築物では無いので、エントランスもオートロックではなく、当然各部屋も手動ロックである。施錠して外に出たとして、いったいいつ失くしたのだろうか。というか、裸足で外出したのだろうか?……こんな時間に?とコンビニに行っていた自分を棚にあげてしまうが、さすがに私だって外出する際に靴は履く。
じろじろと観察している視線を感じたのだろうか、男の瞼が薄く開かれ、自分の爪先へと落とされる。重たい沈黙の隙間を縫って、低く掠れた声が届いた。
「私は本当に物を知らないのだな……」
どことなく責めるような声音だ。
「いや、でも、日本語お上手ですよ」
あまりの落ち込みように、うっかり励ましたくなってしまう。訛りのない流暢な言葉は、それを操っている人間を見なければ、日本人が話しているのと変わりがない。しかし、男は自嘲気な笑みを浮かべる。
「お仕事でこちらに? 留学とか?」
なんとなく続けると、少し考え「仕事……の一環だろうか」と空を睨む。空気は相変わらず暗く澱み、それ以上の会話を続ける気力が出てこない。天の助けの様に、私のスマホが鳴り、鍵屋さんが到着したことを知らせてくれた。
◆◆◆
「これですかね」
疲れた声が出てしまった。革製のアンティークっぽいトランクの中から取り出した紺色の手帳に、男はぶんぶんと勢いよく頭を縦に振る。玄関で待たせている鍵屋さんは、ちょっとだけ苛々している様子だ。
結局あれからすぐ鍵屋さんが到着し、身分証明書を一緒に探してほしいという男に頼まれ、私は隣人の部屋にお邪魔した。
同じマンションではあるが、分譲賃貸ということもあり各部屋のリノベーションはそれぞれの雰囲気が大きく異なっていた。私の部屋は白を基調とした広めのワンルームの設計だが、隣人の部屋は壁面も濃茶の板張りで、間接照明くらいしか明かりがなく、薄暗い。
キッチンとリビングとベッドルームと分けられた1LDKの作りをしているようだ。リビング中央に天蓋付きのベッドが置かれてある。ベッドルームの方には未開封の木箱と開封済みの木箱がいくつも積み上げられてあり、ちぐはぐな印象を受ける。
問題の身分証明書であるパスポートは、ベッドルームに備えられているクローゼット内のトランクの中にあった。高価そうな財布に揃いのペンケース。ついでに帯付きの札束。金塊。来日したてのどこかの箱入り御曹司かよ。内心で毒づいていると、背後から遠慮がちに声を掛けられた。
「一万七千円と言っている」
私に視線を流す男を、ねめつけてしまう。札束から二枚乱雑に引き抜いて渡すと、ほっとしたような顔をされた。いい加減眠くなってきたし疲れた。
「それでは、戻りますね。おやすみなさい」
鍵屋さんが閉じたばかりのドアに手を掛ける。
「ま、待ってくれ! 合鍵も念のため作成しておいた。保管しておいてくれないか」
「――は、あ――?」
予想外に剣呑な声が出て、口元を手で覆う。
「頼めるものがこの世界――いや!この異国に誰も居ない。また鍵を失くしてしまったらと想像すると……頼む!」
ぐいぐいと真新しい鍵を押し付けられ、「や、やだよ!」と押し返し、「頼む!」と押し付けられ、「なんで私が!」と押し返し、「見知らぬ私にも親身になってくれたではないか」と押し付けられ、「巻き込まれただけ!」と押し負け、そして追い出された。
右手の中には鍵がある。
「はあ……」
思わず深いため息が漏れる。右手の中で主張する真新しい鍵が、やけに重く感じられた。まさか、深夜に隣人の鍵を預かる羽目になるとは。しかも相手は、どう見ても二次元から飛び出してきたようなイケメンときた。
自分の部屋のドアを閉め、ドサリと床に座り込む。コンビニで買った缶ビールはぬるくなっていたが、そんなことはどうでもよかった。目の前にあるのは、現実ではありえない事態の連鎖だ。
まず、あの男が言っていた「この世界――いや!この異国」という言葉。そして、身分証明書代わりに出てきた、古めかしい革のトランクと、中に入っていた金塊。どう考えてもおかしい。普通じゃない。
BL漫画家として、日々様々な妄想を形にしている私だが、まさか自分の生活圏でこんなぶっ飛んだ設定に遭遇するとは夢にも思わなかった。まさか、本当に異世界から来た王子様だとか、そういうオチじゃないだろうな。
そういえば、数日前に隣から聞こえていた「ぐああんぐああん」という大きな音。あれは、もしかして異世界転移か何かの音だったのだろうか? いやいや、そんなとんでもファンタジーみたいな話、現実にあるわけがない。漫画じゃあるまいし。
だがしかし、あの男の言動はあまりにも素朴で、そして、まるで世間知らずの子供のようだった。鍵の概念を知らないかのような振る舞い。スマホも固定電話も持っていないという常識外れな状態。そして、あのゴールデンレトリバーのような、純粋な眼差し。
もし本当に異世界から来たのだとしたら、彼にとってこの日本は、文字通りの「異国」なのだろう。そして、鍵の預け先が私しかいないというのも、ある意味納得がいく。……いやいやいやいやいや、納得はしたくない。
疲労と困惑でぐらぐらする頭で、私は改めて右手の中の鍵を見つめた。これを持っているということは、万が一の時、私が彼の部屋に「侵入」できてしまうということだ。なんて恐ろしい権限だ。
もし、彼が本当にどこかの国の王子様だとして、この鍵を預けたのが私――三次元に興味がなく、引きこもってBL漫画を夜な夜な描いている女――だということを知ったら、果たして彼はどう思うだろうか。間違いなく、絶望するに違いない。しかし、今はどうすることもできない。とりあえず、この鍵に関して今日のところ考えるのはやめておこう。非常に私は疲れている。
……まさか、あのイケメンが、私の生活の根幹を揺るがし、深く深く関わってくることになろうとは、この時の私は知る由もなかった。