第十二話:異世界の賢者サマ(前)
会場の騒動は、異世界産の魔法によってあっけなく収束した。
なるほど、大変便利な代物である。
榊原向陽なるあからさまに日本人名を持つ、異世界より来訪した大賢者サマの指示を受けたシリルさん(身体は当然鈴村君)が、人々の記憶に軽微な撹乱魔法をかけ『あれは最新鋭の特殊効果』と認識させたのだ。
おかげで会場は熱狂そのままにイベントは滞りなく進行し、私も編集部の皆様から「先生、大成功です! 連載、このまま新展開に突き進みましょう!」と、嬉しいけれど手放しでは喜べない連絡をもらうことになった。
あれから数日。
私の部屋は再び、修羅場と化していた。そう、原稿の締め切りは明後日だというのにも関わらず、リビングのテーブルには書き散らされたネームが散乱し、タブレットからはペンの擦れる音が響く。
私はすっぴん眼鏡に加え目の下にはクマを作り、カフェイン漬けの毎日だ。
「何か困っているようだな。『伝説のコーヒー』で、その疲れを癒してやろうか」
そんな私の横で、アレクシスはご機嫌な様子でコーヒー豆を挽いている。あのイベント以来、彼は殊更に料理への情熱を燃やしており、私の部屋のキッチンは、もはや彼の私物と化していた。
今朝も『攻めのオムレツ』だとか『受けのベーコン』だとか、BL用語を駆使した謎の創作料理が食卓に並び、私の胃袋を襲う。
「アレクシスさん、ありがとう。でも、今は集中したいから……」
疲れた声で断る私に、彼はしょんぼりする。
その時、ドアのチャイムが鳴った。
「どうぞー」
返事をする間もなく、扉が開く。そこには、私の担当編集者である鈴村君が立っていた。
彼の顔色は、イベント後よりもさらに悪く、目の下には私以上の深いクマが刻まれている。そして、その表情には、疲労と諦め、そしてどこか悟りを開いたような空気が漂っていた。彼の身体には、もちろんシリルさんが宿っている。シリルさんの幽体がすっぽんと入り込んだ鈴村君は、思考の主人格はほぼ同率だが肉体は鈴村君100%の為、鈴村君が主体となって発言している時は、シリル憑き鈴村君と呼ぶことにした。
「先生、原稿の進捗はいかがでしょうか……って、この惨状は……」
シリル憑き鈴村君の視線は、散らかったネームと、その奥で湯気を立てるアレクシスの手元のカップへと向けられた。
「あなたも大変ですね……」
私が労いの言葉をかけると、シリル憑き鈴村君は力なく首を振った。
「ええ。そちらの王子サマが、悠々自適な生活を送っていることに関して『私が血の滲むような思いで立て直した王国の財政が、殿下の遊びに消えていくのは断じて認められない』と、恐ろしい声で、毎晩遠隔で説教を受けております。しかも、シリルさんに向けられているであろうその説教は私の身体を通して行われるので、全身に響き渡るんですよ……」
シリル憑き鈴村君の身体が、ブルブルと小刻みに震えている。
あちらはあちらで傍迷惑な同居人に取り憑かれていて気の毒すぎる。
その時、アレクシスが意気揚々とこちらへやってきた。
「ちょうど良い所に来たなスズムラとシリル! この芳醇な香りを味わってほしい。抽出する際に水と光の魔力を混ぜ込んだ逸品だ」
得意げに彼の差し出すコーヒーカップを受け取ろうとした、その瞬間だった。
「いい加減にしてください」
突如、あろうことか私のベッドの上に転移陣が光り輝き、三つ揃えのスーツに身を包んだ長身の男が、姿を現した。銀縁眼鏡の奥の瞳は、怒りに燃え、その口元は冷たく引き結ばれている。丁寧語ながら、その声には容赦ない苛立ちが込められていた。
「この多忙な折、私が直々に日本まで赴かねばならぬとは、一体どういう了見でしょう…… 王国の財政状況は火の車、強硬派の動きも活発化しているというのに、相も変わらず呑気に『伝説の料理』とやらを極めていらっしゃる。 お陰で私の個人財産から金が湯水のように消えているではないですか」
榊原は、目の前のコーヒーカップと、その奥に広がる私の散らかった原稿を見て、さらに眉間の皺を深くした。彼の堪忍袋の緒は、とうに限界を超えていたようだ。
「コウ! まさか……『伝説の料理人修行』を邪魔しに来たのか」
アレクシスは、黒髪銀縁眼鏡の出現に驚きつつも、どこか不満げに反論する。
「お邪魔だと仰せでございますか。貴方は私の常識をはるかに超えていらっしゃいますね。よろしいでしょう、アレクシス様。今から私が、この世界の現実というものを、貴方様の心に深く刻み込ませていただきます」
冷たい視線が、アレクシスに向けられる。その目は、獲物を定めた捕食者のようだ。私の胃袋は、彼の出現によって、締め切りとカフェインとBL創作料理の三重苦に加えて、新たな緊張感でキリキリと痛み始めた。
私の部屋は、今、異世界の王子と、その護衛に身体を乗っ取られた編集者、そして堪忍袋の緒が切れた新たなる登場人物によって、私の部屋は異世界と現実が入り混じった真の混沌と化したのだった。
冷徹な視線がアレクシスを射抜く中、榊原もまた、主人公格になり得そうなキャラクターだなと、あらゆる現実を向こう側に押しのけつつ、この異常な状況の行く末を見守るしかなかった。
「アレクシス様、心中で『伝説の料理人』を目指されるのはご自由ですが、そのために私の私的財産及び国庫が傾いては本末転倒かと存じます。シリルからも報告を受けておりましたが、どうやら貴方様は、こちらの作家先生から『寄生されている』と思われているようですね」
榊原の言葉に、アレクシスは目を丸くした。
「寄生? 私がアヤノに? 当初の約束通り、材料は実費だが」
アレクシスは、心外だとでも言いたげに私に同意を求めてくる。しかし、私の脳裏には、鍋を焦がし、食材を無駄にし、BL講義に熱中する彼の姿ばかりが浮かんだ。寄生されている、と思ったことは恐らく一度も無いと思うのだが、世間の料理修行とはかけ離れているのは確かだ。
「え、ええと……」
私が言葉に詰まっていると、榊原は唐突に冷たい視線を私に向けた。
「アヤノ様。貴女様の漫画は、この現代日本において、大変な人気を博していると伺っております。そして、その登場人物でいらっしゃる『アレス王子』は、アレクシス様がモデルになられているそうですね」
まさか、そこまで調べられているとは。
突き刺さる視線が物理的に痛く感じるのは初めての経験である。つい、うっかり榊原の言葉を全肯定してしまった。
「はい……その、おかげさまで……」
「ならば、話は早いかと存じます。アレクシス様がこの世界でどうしても『伝説の料理人』を目指されるのであれば、そこに付加価値を加えてはいかがでしょうか。例えば、貴女様の漫画とコラボレーションし、アレクシス様を『リアルアレス王子』としてプロデュースし、料理に関するコンテンツを発信なさるのはいかがでございましょうか」
唐突な提案に、私は耳を疑った。
リアルアレス王子としてプロデュース?
料理に関するコンテンツ?
「ちょ、ちょっと待ってください! それは、つまり、アレクシスさんを、インフルエンサーのように……?」
「はい、その認識で差し支えございません。貴女様の漫画の人気を活用すれば、資金調達も容易になるかと存じます。それは強硬派への牽制にもなりましょう。そして何より、アレクシス様の無駄遣いを可視化することで、私が管理しやすくなるかと考えております」
眼鏡の奥で冷徹な光を放つ男は、すべてを計算し尽くしたような表情で言った。彼の頭の中では、すでに莫大な金が動き出しているのだろう。
アレクシスは、そんな言葉に目を輝かせた。
「 私の『伝説の料理』が、この世界の文化に貢献できるというわけか…… よかろう、その提案乗ろう」
アレクシスは、自分が資金調達の道具として利用されようとしていることなど、微塵も気づいていない様子だ。彼のあの目は、新たな学びと伝説の創造にしか向いていない。
「え、アレクシスさん、話が早すぎます! 私は聞いてませんから!」
私が慌てて抗議すると、横から冷笑と怒涛の長台詞が一気に降りてきた。
「アヤノ様。貴女様には選択の余地がないかと存じます。日本でのアレクシス様のお立場は、部屋の契約者である私の庇護下にございます。そして、貴女様の漫画の『アレス王子』は、そのアレクシス様をモデルにされている。もし真実が世間に知られることになれば、貴女様の連載にも少なからず影響が出るでしょう。それに、この提案は、貴女様の連載のテコ入れにもなるはずです。もちろん、原稿料とは別に、相応の報酬はお約束いたします」




