第一話:其れは序章もなく、唐突に始まる
予定していた締切日前に珍しく原稿を編集部へと送ることができたその日。区民税や年金、公共料金の類をまとめてコンビニに支払いに行き「独り打ち上げだー」と缶ビール数本とおつまみを購入して、私は自宅マンションへと戻った。
駅からは徒歩十五分。築四十五年もののレトロな外観をした建物ながら、十一階建てを誇るそのマンションには当然エレベーターも設置してある。郵便ポストからはみ出たチラシ類をエントランス脇のゴミ箱にぽいぽい捨て、掲示板に貼られている不審者注意の文字を横目で辿り、エレベーターへと乗りこんだ。
実に四日ぶりの外出だった。
エレベーターを起点にL字型をしている建物の最上階。右側最奥に、私の仕事場兼生活している部屋があった。
フロアの通路は薄暗く、蛍光灯が一部切れている。古びたマンションの壁面にはひび割れを埋めた痕があり、階下へとつながる水道管のつなぎ部分はさびていたり、通路の先には屋上へと続く外階段がそのまま伸びていたりと、現代の建築法に合わせるといささか問題点が多そうにも見える。
住人は若い層と老人世帯、事務所、といった具合に混沌としているが、いずれの部屋の室内もリノベーションされていて、個人的には雑多な雰囲気含めて気に入っていた。
ただし現在の時刻は深夜2時半を過ぎようとしている所為か、当然ご近所さんとすれ違うこともなく、室内からの生活音が聞こえることもなかった。
この部屋を契約してから一度目の更新も済ませて三年目。宗教の勧誘や怪しげな訪問販売員が訪れることもなく、時折ニュースを騒がせるような事件に遭遇することもなく、かなりひっそりと暮らしていた私は、突如として突き付けられたこの状況に、途方に暮れた。
通路に座っている人影が在る。
薄暗い通路の灰色のドアの前。最奥のひとつ手前。つまり、私の部屋の隣のドアの前に、外国人らしき男性がその身を小さくするように体育座りをしている。足音に弾かれたように顔をあげ、その憂いを帯びた蒼い瞳は、明らかに私の姿を捉え、思い切り眉を下げた。
自宅までは数メートルの距離。叫ばなかった自分を褒めてあげたい。いや、何がって、丑三つ時に重たそうな空気を纏って座り込んでいる影。明らかに揉め事の匂いしかしない。ぴたりと当てられた視線は強いものではないが、こんな時間帯にこんな場所で注視されると非常に居心地が悪い。
漫画家なんかを生業にしている私は、ほぼ自宅に引きこもっているが、その生活時間軸は、一般社会人とかけ離れているため、ご近所づきあいは少ない方だ。ごく稀に隠居し暇を持て余し、個人的にマンション内の美化に勤しむ方と、顔を合わせたときに挨拶をする程度である。
そういえば何日か前に大きな音が隣から響いてきていたことを思い出すが、締め切り直前だったこともあり、さほど気にしていなかった。そもそも社会との接点が、あまりないのだ。
時間も時間だし、と塩対応でもって軽く会釈だけし、ポケットから鍵をじゃらりと取り出した。
「鍵」
「え?」
ぽつりと落ちた声に思わず振り返る。私をすがるように見上げる顔は彫りが深く、無造作に1つに束ねられている長い髪は蜂蜜色。まごうことなきイケメンである。しかも主役級。表紙を飾れる。と、一瞬考えた所に重ねられた言葉が、情けなそうに揺れた。
「――失くした」
「それは……お気の毒です」
そう答える以外ない。私は私の部屋の鍵しか持っていないし、残念ながらイケメンの部屋の鍵の行方は知らない。
「あなたの持っている鍵では、だめだろうか」
私が手にしている鍵を物欲しげに見つめる。
「や、それは無理だと思います」
この人何言ってんだろう、と顔に出ていたかもしれない。ついでに小さく鼻で笑ったかもしれない。途端にしゅんと肩を落とし「そうだろうな……」と小さく呟く姿は、なかなか庇護欲をそそられる。が、深夜もとうに過ぎたこの時間のなんともいえない邂逅は、さすがに警戒する。
そもそも私が部屋を出たのは30分程度前である。その時、隣室の前に彼は居なかった。よくよく考えなくても怪しい。ただ、こうも落ち込んでいると初対面の人間の前で見せる姿はもの珍しく、項垂れる男のつむじ辺りを見下ろしながら、せめてもの仏心で言った。
「鍵屋さん呼べばいいんじゃないですか? 部屋にマスターキーありますよね? たぶん2、30分で来るかと」
「――それはまことか!」
弾かれたようにあげられた顔は期待に満ち溢れており、実家で飼っているゴールデンレトリバーを髣髴とさせるものがあった。長毛種だし。
漸く解決の糸口を彼に見つけさせる事ができたようなので、改めて鍵を差し込むと、大きな掌で制された。立ち上がった男の影が落とされ、無意識にも体が震え、その力の強さに思わず息を飲む。
「ま、待ってくれ!」
私は物凄い表情で振り返ったようだった。視線の合った男は少し怯んでいる。そして怯みながらも再び眉尻を下げ「どうやって呼べばいいのか、教えてくれないか……」と、小さな声で続けたのだった。




