破裂
「いやいや、危なかったみたいだね」
声がした。
男の声で、この状況に似つかわしくない、軽い調子だった。
ぼくの意識が浮上する。
目を開けると、ぼくの傍らに、知らない男が立っていた。
その姿は貴族が着る服に似ていたが、見たこともない様式だった。どちらかといえば執事が着る服に近いかもしれない。
「大丈夫かい? とりあえずその拘束を解こうか」
男がスッと指を横に動かすと、ぼくの体を縛っていたものが消え、体を自由に動かせるようになる。
「へ……?」
驚きながらもぼくは体を起こす。
全く理解が追いついていない。
リネとミレーゼ様、そして父さんがこちらを見ていた。先程は気がつかなかったけれど、その傍らには、ヴィルさんもいる。
「あんたは誰?」
リネが聞く。その視線はぼくの隣に立つ男に注がれている。
「ぼくかい? ぼくは補修人だよ。君たちのようにバグに取りつかれた人間を解放するのもぼくの仕事でね」
男は訳の分からないことを言う。
「ヴィル!!」
リネが叫ぶ。
声と同時に執事が飛び上がり、男に向かって襲い掛かる。それは人というよりは獣の動きだった。すさまじいまでの速度でぼくは眼で追いかけるのがやっとだった。
次の瞬間には、男が手のひらを突き出し、執事の頭を掴んでいた。
とてつもない力らしく、執事はバタバタともがいている。
「時間がないから、とりあえず寝てもらうよ」
男が言うと、執事は力が抜けたようにおとなしくなった。さらに男はヴィルさんの頭を掴んだ腕を横に振る。すると力の抜けた体が浮遊するようにゆったりとした速度で地面に着地した。
どういうことだ? いったい何が起こっているんだ?
「立てるかい?」
男がぼくに聞く。
「はい。何とか……」
ぼくは茫然と答えることしかできない。
「じゃあ、行くよ。楽にしてていいからね」
男がそう言うと、浮遊感に包まれる。次の瞬間には、ぼくはリネたちから遠く離れた場所に居た。
「君はここにじっとしていてくれるかな? 多分すぐに終わるから」
ぼくは何も答えなかった。
いや、答えることなどできるわけがなかった。彼が何を言っているのかかけらも理解できなかったからだ。状況の変化についていけず、ぼくはただ、その場に立ち尽くすばかりだ。
「どうして皆、私の思い通りにならないの!!」
リネの身体が、ジジジ、とぼやけ、人の輪郭を失って膨張を始める。
膨らんだ体は、近くにいたミレーゼ様と父さん、そして、後方に控えていた黒づくめの人々の群れを飲み込んでいく。
目の前で、壮絶な光景が繰り広げられていた。
わかることはそれだけだ。
「リネ! うれしいわ! これで寂しくない!」
飲み込まれながらミレーゼ様が大声で叫ぶ。
「これが! これこそが! 私が仕えるべき神だったのだな!!」
父さんもまた歓喜の声を上げていた。
リネの巨体がさらに膨張し、一定の大きさに達すると、黒く濁り、大きく形を変化させる。
それは地面から離れ浮遊する。
現れたのは、黒い巨大な球体だった。
禍々しい光を放ち、広い空間を暗く照らしていた。
表面が波打つ。
金属の表面のようにに滑らかで、生物の心臓のように脈動している。時折、球体の表面が膨らみ、うごめいているのは、取り込まれた人々がもがいた結果だろうか。
理解を超えた光景に、ぼくは吐き気を催した。
脈動する球体はさらに形を変える。
巨大な球体の上に人の大きさほどの小さな球体が生まれる。
その小さな球体はやがて人の形をとる。
ただ、人の形と言うだけではない。
形が明確になり、ぼくの知る人の姿を取る。
それはまさしく、リネそのものであった。
全身が黒く染まっており、表情も読み取れない。
「さあ、これでも、私をどうにかできるっていうの?」
黒い人形が、まぎれもなくリネの声で言葉を紡ぐ。
「ああ、出来るよ」
相変わらず軽い調子で男が答える。
「できるものならやってみなさいよ!!」
それは、少女の声にしては大きすぎる声だった。地下全体に響く轟音が球体全体から発せられていた。
リネの声と同時に球体から無数の棘が生え、男に向かって、恐ろしい速度で伸びていく。
だが、男は動かなかった。
槍のような太さの無数の棘が、男のいる場所を貫いた。
土煙が上がる。
「なるほど、こんな感じか」
声が聞こえた次の瞬間――
突き刺さった無数の棘が、すべて脆く崩れていった。
男は無傷でその場に立っていた。
「やり方は悪くなかった。人の内部に入り込み、村全体を支配する。でもそれは同時に、攻撃性の限界を意味している」
男が言う。
「なんなのよおおおおおおおお!!」
地下が震える轟音。
球体全体から棘が飛び出す。
男に向かって放たれた棘は、先ほどとは違って、あらゆる方向に延び、壁で、地面で、空中で自在に曲がり、全方位から男を貫こうとした。
だが、男はうろたえなかった。
巨大な球体に向かって走り出す。
その走りは、前傾姿勢のような本気のものには見えないのに、どういうわけか、異様なまでの速度だった。
棘は男に向かって方向を変える。
全方位からの集中攻撃。
男に逃げ場はない。
――けれど。
棘は男に当たることはなかった。
男は棘の動きを予測しているかのように、体をわずかに動かしただけで躱す。地面を蹴って跳んだかと思うと、足元から襲う棘を軽やかに躱している。
男はただ、球体に向かって進む。
棘の動きが荒々しくなり、地下室の壁面や地面を抉るけれど、男を止めることだけはできなかった。
ぼくは、変わり果てたリネに目を向ける。
この状況を受け止められないまま、思考だけがぐるぐるとめぐっている。
ぼくはリネのために何かしなければならないのではないか。しかし、一体何ができるというのか。どうしてぼくはこれほどまでに無力なのだろう。
けれどついに、
「リネ! もうやめてくれ!!」
と叫んだ。
ぼくは初めて、声に出して、彼女の名を呼んだ。
すると、棘の動きが一瞬、止まったような気がした。
地響きのようなリネの声も止まり、地下室に静寂が満ちる。
男が跳んだ。張り巡らされた棘の間を縫って、リネに向かって高く跳び上がる。
「その子は乗り移る相手にしては、少し優しすぎたようだ」
男の手が、リネの胸に伸びる。
「ああ……!!」
球体の上に居る人の形をしたものがうめき声を上げる。
それはまさしくリネの声だった。
男の手が彼女の身体を貫いていた。
球体に激しい変化が生まれる。
棘が崩れ、球体自体も歪にのたうち回っている。
球体が地下室の高い天井に届くほどの大きさまで膨らむ。
その先にあるのは――破裂だった。
黒い濁流が、球体から溢れ出る。
粘性のある黒い泥が地下室を覆う。
濁流の流れにぼくは飲み込まれた。
抵抗などできない。
ぼくは流れのままに、壁に叩きつけられ、そして、意識を失った。




