浸食する闇
頭を侵食する音は続いている。
体を震わせ、耳をつんざく音は収まっている。だがそれは、ぼくが慣れてしまっただけなのかもしれない。
ぼくは目を開ける。
「おはよう。よく眠れた?」
リネがぼくを見下ろしていた。
その隣には、
「……父さん?」
父さんが黒いローブのようなものを身に着けている。それは、先ほど襲いかかってきた黒い群れと同じ姿だった。父さんと分かったのは、頭のフードを外していたからだ。
父さんはどこか焦点の合わない眼で、
「クロン、これは素晴らしいことだ。我が息子が選ばれたことを誇りに思うぞ」
抑揚のない声で言う。
「そう。あなたの御父上も喜んでいるわ。上手くいったらお祝いしましょうね」
父さんの向かいに、ミレーゼ様が立っている。
父さんと同じように黒い布を纏い、焦点の合わない眼で、ぼくを見下ろしていた。
「本当は、もう少し様子を見たかったのだけれど、もう使い物にならなくなってしまったのよね。何度か調整も続けてみたのだけれどうまくいかなかった」
リネは顔を上げ、ぼくの隣の離れた場所に視線を向ける。
ぼくは無意識にその目線を追う。
祭壇のような棺のような、横長の巨大な石の塊が見えた。
それが赤く染まっている。
上に、なにか赤黒い塊が載せられていた。
人だ。
ひょろりとした細長い体が、石の上に載せられて、ぐちゃぐちゃになった顔をこちらに向けていた。
「うわああああ!?」
ぼくは叫び、この場から逃れようとする。
しかし体が動かない。手と足が縄かなにかで縛り付けられているようで動かせなかった。
「嘘をついてごめんなさいね。あれがラストンさん。協力してもらおうとしたのだけれど、上手く適合できなかったのよ」
抑揚のない声でミレーゼ様が言う。
「ラストンさんが見つかって良かった。しかしこれは、テガートさんにどう説明したらよいもんかな?」
父さんは信じられないことを言う。
ぼくは恐ろしさで声も出せなかった。
「クロン」
リネに名前を呼ばれて彼女の方を見る。
父さんやミレーゼ様とは違い、リネは、以前のままの姿で、意識もはっきりしているらしい。
「私はね。この村の外に出たいの。そのためには、クロンの身体が必要なの。この身体でも何度か外に出ようとしたのだけれど、結局は失敗してしまった。そこであなたたちと出会った。これはきっと運命なのよ。クロンならわかってくれるよね。だって、あなたはとっても優しくて、私のことを理解してくれるはずだもの」
「やめて、ください。こんなことは、間違ってる……」
ぼくは体を震わせながら、絞り出すように声を出す。
「間違っているかどうかなんてどうだっていいのよ。私は外に出たいだけ。そしてそれは、忌まわしきものの願いでもある。きっと、あなたとはうまくやって行けると思うわ」
ぼくは必死に体を動かしてみるが、抜け出せる気配は全くない。父さんとミレーゼ様は無表情にぼくを見下ろすばかりだ。
リネがふわりとした身の動きでぼくの身体を跨いで立つ。
そして、ぼくの体に覆いかぶさる。ぼくはさらに強く体を動かそうとするが、それは無駄な抵抗だった。
「さあ、一緒になりましょう」
彼女の額が、ぼくの額に触れる。
そして、触れたところから、ぼくのなかに何かが流れ込んできた。
◆ ◆ ◆ ◆
リネは幼いころから“それ”の存在を感じていた。
だが、それは明確なものではなく、あくまで、感じている、程度のことであった。
物心つく前に父を亡くした彼女は、新たな父を得た時、素直に嬉しいと思えた。
滅びかけていた屋敷が新しい父の主導のもと建て替えられ、内装や調度品も豪華なものに変わった。
使用人も増え、生活が劇的に変わった。
彼女は本を与えられ、知識欲のまま本を読み漁ることができるようになった。
幼いころから体の弱かったリネにとって、本の世界は安らぎと興奮、喜び、悲しみ、あらゆる感情がすべて詰まった最高の娯楽だった。彼女は本を読めることに幸せを感じ、そして、本を与えてくれた父にこの上ない感謝の念を抱いていた。
新しい父は優しかった。
リネの求める本なら何でも買い与え、彼女の部屋の本棚にはさまざまな物語が詰め込まれていた。
父は定期的に屋敷を訪れ、彼女と本の話をした。
何不自由ない生活のなかで、その時間こそが、彼女にとって一番楽しいひと時だった。
だが、そんな父に対して、一つだけ、不満があった。
父と毎日会えないということは納得していたが、屋敷に居る間に自分を放っておいて部屋に籠ることがあったのだ。なにやら難しい本を読んでいて、その本のことだけは、リネに教えてくれなかった。
それに、地下室へ良く行っているのも気になった。
地下に続く階段の部屋が新たに作られ、父以外は入ることを許されない、禁じられた場所になった。
ある時、母にそのことを話すと、
「でもねえ、お父様の決めたことだから」
と言って取り合わなかった。
リネはその頃から、現在の父と母との関係性に違和感を感じ、断片的な情報から、ほかの貴族とは違うことを知る。
父には別に妻が居て、母は愛人でしかない。すなわち、今まで自分が父だと思っていた存在は、全く関係のない他人だったのだ。
そんな境遇の人間は、本の中だけだと思っていた。
リネは驚き、しかしそれで、“父”や母のことを嫌いになるほど、子どもではなかった。すべてを理解したうえで、三人で幸せに過ごすことを願ったのだ。
だが、その願いは、唐突に叶わぬものとなった。
ある時を境に父が屋敷に来なくなったのだ。
理由はわからない。
ただ、地下室から帰った後様子がおかしくなり、ほとんど会話もせず王都に帰ったきり、姿を見せなくなった。
リネはそのことに関して寂しいとは思ったものの、必要以上に傷つくことはなかった。“父”と母の関係を知っていたから、いつかそんな日が来るだろうとは思っていたのだ。
しかし、彼女の母、ミレーゼは違った。別人になったように取り乱し、食事もあまりとらなくなった。
ある時などは、父がしつらえた調度品を片っ端から破壊しようとし、メイドたちに止められた挙句、彼女たちに怪我を負わせた。
やがてミレーゼの矛先はリネにも向かった。
その時、リネは自室で本を読んでいた。荒れた母を見ないようにするには、本を読むことが一番だったからだ。
ミレーゼが力任せにリネの部屋の扉を開く。
「リネ! あなたはどうしてそんなに落ち着いていられるの!?」
「お母様?」
「お父様が居なくなって苦しいのは私だけ。使用人も、あなただって、なんてことないことだって思ってる」
「そんなことはないわ。だって、私にはどうすることもできないじゃない」
ならば自分で手紙でも何でも行動を起こせばよいのにと思っていたが、口にすることはなかった。
「あなたよ……」
「え?」
「あなたのせいよ! そう! そうに決まっているわ!」
「お母様? 何を言っていらっしゃるの? どうして私のせいなの?」
「あなたの身体が弱いから! この家に先はないと思われたのよ。あなたがもしも男の子だったら、この家は安泰で、あの方だって、長くここにいて下さったのよ!」
母の目は明後日の方に向かっていた。
「そんなわけないじゃない。お父様が言っているのを聞いたの?」
「うるさい! あのお方がそんなこと言うわけがないでしょう! あなたが悪いのよ!」
リネは立ち上がる。
「お母様! しっかりして! いくらお父様が居ないことが苦しいからって、私に言うのはおかしいでしょう!」
「口答えするな!!」
母はリネを突き飛ばし、近くにあった燭台を掴んだ。
「お母様やめて! ネスカ!」
ミレーゼがリネに向かって振り下ろす。それを危うくかわし、リネは転がるようにしてドアの方へと向かう。
入れ替わりにネスカをはじめ使用人たちが部屋になだれ込む。
「ミレーゼ様! おやめください!」
「うるさい! お前たちも私の邪魔をするのか!!」
メイドたちの声と母の罵り声を聞きながら、リネは廊下を走り、階段を駆け下りる。
だが、生来の体の弱さが、リネの足を止めた。
彼女はゼイゼイと息を吐き、その場に足をつく。
「リネ! どこに行ったの!」
母の声が聞こえ、ひどく恐ろしくなる。
その時、屋敷を震わせる大きな音がした。
オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ
リネは無意識に立ち上がる。
不思議と息は落ち着いている。
地面から、壁から響く音は、彼女の頭に響いている。
彼女は音に導かれるようにして地下へ続く扉の前へと向かった。
扉には鍵がかかっていたはずであったが、ドアの取っ手がガタガタと振動しており、すでに壊れているようだった。
閉じ込められていた何かが、扉の外に出たがっているかのようだ。
リネは、それを見て、何か悲しい気持ちになった。それは恐怖ではなく、哀れみと同情であった。
「そうか、あなたも閉じ込められてしまっているのね」
リネは震える把手を掴む。振動が、彼女へと伝わっていく。
ジジジ……
という音とともに視界がぼやける。
「今、外に出してあげるからね」
リネが扉を開ける。
地下に閉じ込められていた忌まわしきものの塊が、粘度のある濁流として、彼女もろとも押し流す。
漆黒の泥の濁流。
それが一階をつつみ、階段を登り、人々ごと屋敷を包む。
屋敷からあふれ出した闇は、村全体を覆っていく。
やがてドメルの村は、忌まわしきものに汚染された。




