忌まわしきもの
事態が動いてしまった以上、ぼくは覚悟を決めなくてはならない。
ぼくとリネは互いに役割を分担し、屋敷の規模にしては多い使用人たちから身を隠しながら、目的の場所へと進んでいた。
恐ろしい光景はまだ頭に焼きついているけれど、誰にも見つからないように屋敷のなかを進むのは、正直、楽しかった。
「どう? 見つかってない?」
柱の影に二人で身を寄せて隠れる。
「ええ、そのはずです」
ぼくは思わず笑みをこぼす。
それが隠れて進むこと自体を楽しんでいるのか、リネとともにいることが楽しいのかわからなかった。
こそこそと身を隠しながら、階段を降り、一階へと進む。廊下は相変わらず薄暗く、ぼくは周囲を警戒しながらリネの後を追った。
何度か、メイドさんの姿が見え、慌てて身を隠す。
その度にリネは自身のドレスの裾を抱え込み、体を隅に押し込めるのが面白かった。
「どうして笑っているの?」
「いえ、そんなことはありません」
こそこそと声を抑えるけれど、互いに笑いを押し殺すことは出来なかった。
リネはぼくに顔を近づける。
「どう? 面白いでしょう?」
「こういう遊びも楽しいですね」
「あと少しね。次に使用人が見えなくなったら走るからね」
「分かりました」
ぼくたち二人は息を殺し、そして足音が立たないようにさらに奥へと進もうとした。
「リネ様」
「わあ!」
背後から声が聞こえ、ぼくは危うく転びそうになった。
「ヴィル!?」
リネが慌てていた。
「地下に行くことは禁じられております。部外者の方は特に」
ヴィルさんの顔が薄暗い廊下に浮かび上がる。
「ち、地下に行くなんて誰が言ったのよ」
「……であれば問題ありません。リネ様、私はあなた様をお呼びするために来ました。例の件です」
執事は無表情に言う。
「私でなくてもあなたたちで処理すればよいことでしょう」
「状況は常に変化しています。あなた様に来てもらわなくては」
その時、リネがこちらを見た。とても悲しそうな顔をしていた。
「クロン、ごめんなさい。あなたとはもっと一緒に居たかったけれど、予定が変わってしまったの」
「ぼくのことでしたら気にしないでください」
「ごめんなさいね」
「リネ様、こちらへ」
ヴィルさんが先に一階の廊下の角を曲がって消えた。
リネはぼくの方を見ていたが、そっと顔を近づけて、
「夜にまた、この場所に来て。一緒に探検しましょう」
と囁いた。
「え……?」
彼女は体を離し、ぼくに笑顔を見せる。そして、踵を返して執事の後を追いかけて行った。
ぼくはどうしてよいかわからず、しばらく茫然としていた。
◆ ◆ ◆ ◆
それからのことは、特に目新しいことはない。
分不相応な部屋で、たった一人の時間を過ごすばかりだった。
ぼくは落ち着かないまま部屋の椅子に座り、正典を手に取って読もうとしては、集中できず、やめるということを繰り返していた。
しばらくするとメイドさんから呼ばれ、食堂へと向かったけれど、ミレーゼ様も、父さんも、リネさえもおらず、広大な食堂のなかでぼくは一人で食事を済ませた。
メイドさんが言うには、父さんは、倉庫の仕分けに熱中して戻れないとのことで、リネもまた、やらなければならない仕事で手が離せないのだという。
ぼくは寂しさは感じなかった。それよりも、リネに言われた「夜に」という言葉が気になって仕方がなかった。
無言で食事を終え、すぐに部屋に戻る。
することもなく、かといって、眠るわけにもいかないぼくは、正典を改めて読み始めた。何度も繰り返し読み進めているため、どこに何が書いてあるかは大体わかる。
ぼくは導かれるようにして、あるページで目を止める。
忌まわしきものの項目だ。
正典にはこう書かれている。
“忌まわしきものはどこにでも現れる。人はもとより、神ですら、その発生を止めることはできない。忌まわしきものは正常なるものを混乱に陥れ、時には壊滅的なまでに秩序を破壊する。神が恐れているのは、忌まわしきものそのものであることは言うまでもないが、忌まわしきものを利用する人間もまた、同様の脅威だった”
とぎれとぎれにページをめくり、ようやくその文言を読み終えると、ぼくは睡魔に襲われ、布団に飲み込まれるようにして、まどろみ続けた。
ハッと気づいた時、あたりを闇が包んでいた。
慌てて起き上がり、隣を見ると、父さんはまだ戻ってはいなかった。仕事を終えて遅い食事でもとっているのだろうか?
とにかく、ぼくは行かねばならない。
リネを待たせているのではないかと焦り、ぼくは寝ぼけた頭で行動を開始する。
一応、物音を立てないように扉を開けて、忍び足で廊下を進む。すでに明かりは消されていて、ほとんど暗闇だった。
ぼくは記憶を頼りに壁を伝いながら、階段に向かう。
オオオオオ
昨日の夜の影響か、耳障りな音が聞こえている気もする。
だが、それどころではない。
階段の手すりを探し当て、軋む音が鳴らないように、ゆっくりと、そして、細心の注意を払いながら階段を下りていく。
暗い足元は、ぼくに恐怖を思い出させる。
何かに追われているような感覚。
いつになったら階段は終わるのだろうか。
はやる気持ちを抑えながら、一段一段丁寧に足元を確認し、ぼくはようやく一階に降りる。
「ねえ」
「――ッ!」
後ろから声がして、ばっと振り返る。
危うく大声を出してしまいそうだった。
「良かった。夜とは言っていたけれど、それしか伝えていなかったから、不安だったのよ」
リネは笑顔を浮かべながら、横を通り過ぎて先を行く。
驚きで固まっていた体を無理やり動かし、ぼくは彼女の持つランプの明かりを目指して追いかけた。
屋敷一階の最奥にその部屋はあった。
全体の構造までは把握できていないけれど、おそらく森にはみ出るようにして突き出た部屋のように思われた。
リネが扉を開く。
狭く、地下に続く階段だけがある、奇妙な部屋だった。
「覚悟は良い?」
リネが首だけで振り向いた。ランプで照らされた彼女の顔は、その白さも相まって、とても美しく、不気味に見えた。
「はい。しかし本当に良いのでしょうか? ヴィルさんは禁じられているといっていましたが」
「良いのよ。ヴィルは所詮使用人だし、私が決めたことをとやかく言う資格はないの。それより、足元に気をつけてね。不安だったら私の体につかまっていいからね」
「いえ、大丈夫です」
リネが階段を降り、ぼくは後に続いた。
気恥ずかしさもあり、とっさに答えはしたものの、照明は彼女の持つランプだけで、足元はまったく見えない。
ぼくはおそるおそる慎重に、階段を下りて行った。
コツコツと、ぼくとリネの足音が響く。
ぼくは、足を踏み話さないように、壁に手を当てながら降りていく。ざらざらとした壁が、長い年月の経過を感じさせた。
「クロンは、忌まわしきものについて考えたことはある?」
突然の言葉にうまく反応できず、
「えっと……そうですね。あまり、考えたことはありません」
とぎこちなく答える。
「忌まわしきものが主に出てくるのは正典だけれど、具体的には何も書かれていない。神を困らせる厄介な存在。神が作った世界を破壊する者。人々の生活を脅かす者。このように描かれてはいるけれど、じゃあどんな形をしているとか、何を考えているかと言うと、これが全く分からない」
「たしかに、そうかもしません」
ぼくは答える。
「正典に書かれているのは、忌まわしきものに翻弄される人々、そして苦悩する神なのよ。だからこそ、正典は読みやすいし面白い。外典や聖人伝とは違って、神の御心、人の苦しみを描くことに主眼が置かれているからね」
「……それはわかります。ぼくが正典を読むのは、神を身近に感じることができるからです」
「そうね。わたしもそう思う。だからこそ、気にならない? 忌まわしきものと言うのは、一体どんな姿をしているのか」
「ぼくは……わかりません。考えたこともありません」
ぼくはどこか上の空で応え、会話はそこで途切れた。
階段の段差が不ぞろいなのかどうかわからないが、何度も足を踏み外しかけている。
こんなことなら、リネに捕まって歩けばよかったと思ったほどだ。
長い階段をひたすら降りる。
暗闇が続き、ランプの光が揺れる。
やがて、自分が夢の中にいるような感覚に襲われていた。
いったいどれくらい降りたのだろうか。
しばらくリネも話さなくなっている。
不安がってもいられない。油断すると、すぐに足を滑らせてしまうからだ。
突然、リネが立ち止まる。
ぼくは危うく、彼女の背中にぶつかりそうになった。
どうやら、階段が終わったようだ。
リネの肩越しにランプで照らされた先を見ると、行き止まりになっているようだった。
「なんだか、はじめてここに来た時のことを思い出すな」
リネがつぶやく。
「え?」
「その時は、いろいろなことがいやになって、ここに逃げ込んだのだけれど、あれは優しく私を受け入れてくれた」
その時、あの、音がした。
オオオオオオオオオオオオオオオ
壁を通してぼくの体に低い音が響く。
体を通して、頭にまで届く不快な音。
ぼくは思わず壁から手を離し、耳をふさぐ。
だが、耳をふさいでも、地面を通じて重い響きが伝わってくる。
「あれはクロンを受け入れてくれるかな。とっても不安だけれど、でも楽しみでもある」
リネが目の前の壁に触れ、押し開く。
目に入ってきたのは、あまりにも高い天井と広い空間だった。
人がいるとしか思えない照明の数だ。
そして――
リネの立っている場所の先には、屋敷を取り巻いていた、人ともつかぬ黒い何者かがうごめいていた。彼らはたいまつを掲げ、こちらを見ている。
「うわあ!」
ぼくは腰を抜かしてしりもちをつく。
あまりの恐ろしさになりふり構わず、這って階段を登ろうとする。
黒い群れが、濁流のように押し寄せ、リネもろともぼくを飲み込んでいった。
何もかもわからない。
ただ、足や手を掴まれたことだけはわかる。
オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ
という音が響く。
そしてぼくは、再び気を失った。




