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補修人、相良修司は蚊帳の外  作者: 久慈望
第八話 異物
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忌まわしきもの

 事態が動いてしまった以上、ぼくは覚悟を決めなくてはならない。


 ぼくとリネは互いに役割を分担し、屋敷の規模にしては多い使用人たちから身を隠しながら、目的の場所へと進んでいた。


 恐ろしい光景はまだ頭に焼きついているけれど、誰にも見つからないように屋敷のなかを進むのは、正直、楽しかった。


「どう? 見つかってない?」


 柱の影に二人で身を寄せて隠れる。


「ええ、そのはずです」


 ぼくは思わず笑みをこぼす。


 それが隠れて進むこと自体を楽しんでいるのか、リネとともにいることが楽しいのかわからなかった。


 こそこそと身を隠しながら、階段を降り、一階へと進む。廊下は相変わらず薄暗く、ぼくは周囲を警戒しながらリネの後を追った。


 何度か、メイドさんの姿が見え、慌てて身を隠す。


 その度にリネは自身のドレスの裾を抱え込み、体を隅に押し込めるのが面白かった。


「どうして笑っているの?」


「いえ、そんなことはありません」


 こそこそと声を抑えるけれど、互いに笑いを押し殺すことは出来なかった。


 リネはぼくに顔を近づける。


「どう? 面白いでしょう?」


「こういう遊びも楽しいですね」


「あと少しね。次に使用人が見えなくなったら走るからね」


「分かりました」


 ぼくたち二人は息を殺し、そして足音が立たないようにさらに奥へと進もうとした。


「リネ様」


「わあ!」


 背後から声が聞こえ、ぼくは危うく転びそうになった。


「ヴィル!?」


 リネが慌てていた。


「地下に行くことは禁じられております。部外者の方は特に」


 ヴィルさんの顔が薄暗い廊下に浮かび上がる。


「ち、地下に行くなんて誰が言ったのよ」


「……であれば問題ありません。リネ様、私はあなた様をお呼びするために来ました。例の件です」


 執事は無表情に言う。


「私でなくてもあなたたちで処理すればよいことでしょう」


「状況は常に変化しています。あなた様に来てもらわなくては」


 その時、リネがこちらを見た。とても悲しそうな顔をしていた。


「クロン、ごめんなさい。あなたとはもっと一緒に居たかったけれど、予定が変わってしまったの」


「ぼくのことでしたら気にしないでください」


「ごめんなさいね」


「リネ様、こちらへ」


 ヴィルさんが先に一階の廊下の角を曲がって消えた。


 リネはぼくの方を見ていたが、そっと顔を近づけて、


「夜にまた、この場所に来て。一緒に探検しましょう」


 と囁いた。


「え……?」


 彼女は体を離し、ぼくに笑顔を見せる。そして、踵を返して執事の後を追いかけて行った。


 ぼくはどうしてよいかわからず、しばらく茫然としていた。


◆    ◆    ◆    ◆


 それからのことは、特に目新しいことはない。


 分不相応な部屋で、たった一人の時間を過ごすばかりだった。


 ぼくは落ち着かないまま部屋の椅子に座り、正典を手に取って読もうとしては、集中できず、やめるということを繰り返していた。


 しばらくするとメイドさんから呼ばれ、食堂へと向かったけれど、ミレーゼ様も、父さんも、リネさえもおらず、広大な食堂のなかでぼくは一人で食事を済ませた。


 メイドさんが言うには、父さんは、倉庫の仕分けに熱中して戻れないとのことで、リネもまた、やらなければならない仕事で手が離せないのだという。


 ぼくは寂しさは感じなかった。それよりも、リネに言われた「夜に」という言葉が気になって仕方がなかった。


 無言で食事を終え、すぐに部屋に戻る。


 することもなく、かといって、眠るわけにもいかないぼくは、正典を改めて読み始めた。何度も繰り返し読み進めているため、どこに何が書いてあるかは大体わかる。


 ぼくは導かれるようにして、あるページで目を止める。


 忌まわしきものの項目だ。


 正典にはこう書かれている。


“忌まわしきものはどこにでも現れる。人はもとより、神ですら、その発生を止めることはできない。忌まわしきものは正常なるものを混乱に陥れ、時には壊滅的なまでに秩序を破壊する。神が恐れているのは、忌まわしきものそのものであることは言うまでもないが、忌まわしきものを利用する人間もまた、同様の脅威だった”


 とぎれとぎれにページをめくり、ようやくその文言を読み終えると、ぼくは睡魔に襲われ、布団に飲み込まれるようにして、まどろみ続けた。


 ハッと気づいた時、あたりを闇が包んでいた。


 慌てて起き上がり、隣を見ると、父さんはまだ戻ってはいなかった。仕事を終えて遅い食事でもとっているのだろうか?


 とにかく、ぼくは行かねばならない。


 リネを待たせているのではないかと焦り、ぼくは寝ぼけた頭で行動を開始する。


 一応、物音を立てないように扉を開けて、忍び足で廊下を進む。すでに明かりは消されていて、ほとんど暗闇だった。


 ぼくは記憶を頼りに壁を伝いながら、階段に向かう。


 オオオオオ


 昨日の夜の影響か、耳障りな音が聞こえている気もする。


 だが、それどころではない。


 階段の手すりを探し当て、軋む音が鳴らないように、ゆっくりと、そして、細心の注意を払いながら階段を下りていく。


 暗い足元は、ぼくに恐怖を思い出させる。


 何かに追われているような感覚。


 いつになったら階段は終わるのだろうか。


 はやる気持ちを抑えながら、一段一段丁寧に足元を確認し、ぼくはようやく一階に降りる。


「ねえ」


「――ッ!」


 後ろから声がして、ばっと振り返る。


 危うく大声を出してしまいそうだった。


「良かった。夜とは言っていたけれど、それしか伝えていなかったから、不安だったのよ」


 リネは笑顔を浮かべながら、横を通り過ぎて先を行く。


 驚きで固まっていた体を無理やり動かし、ぼくは彼女の持つランプの明かりを目指して追いかけた。


 屋敷一階の最奥にその部屋はあった。


 全体の構造までは把握できていないけれど、おそらく森にはみ出るようにして突き出た部屋のように思われた。


 リネが扉を開く。


 狭く、地下に続く階段だけがある、奇妙な部屋だった。


「覚悟は良い?」


 リネが首だけで振り向いた。ランプで照らされた彼女の顔は、その白さも相まって、とても美しく、不気味に見えた。


「はい。しかし本当に良いのでしょうか? ヴィルさんは禁じられているといっていましたが」


「良いのよ。ヴィルは所詮使用人だし、私が決めたことをとやかく言う資格はないの。それより、足元に気をつけてね。不安だったら私の体につかまっていいからね」


「いえ、大丈夫です」


 リネが階段を降り、ぼくは後に続いた。


 気恥ずかしさもあり、とっさに答えはしたものの、照明は彼女の持つランプだけで、足元はまったく見えない。


 ぼくはおそるおそる慎重に、階段を下りて行った。


 コツコツと、ぼくとリネの足音が響く。


 ぼくは、足を踏み話さないように、壁に手を当てながら降りていく。ざらざらとした壁が、長い年月の経過を感じさせた。


「クロンは、忌まわしきものについて考えたことはある?」


 突然の言葉にうまく反応できず、


「えっと……そうですね。あまり、考えたことはありません」


 とぎこちなく答える。


「忌まわしきものが主に出てくるのは正典だけれど、具体的には何も書かれていない。神を困らせる厄介な存在。神が作った世界を破壊する者。人々の生活を脅かす者。このように描かれてはいるけれど、じゃあどんな形をしているとか、何を考えているかと言うと、これが全く分からない」


「たしかに、そうかもしません」


 ぼくは答える。


「正典に書かれているのは、忌まわしきものに翻弄される人々、そして苦悩する神なのよ。だからこそ、正典は読みやすいし面白い。外典や聖人伝とは違って、神の御心、人の苦しみを描くことに主眼が置かれているからね」


「……それはわかります。ぼくが正典を読むのは、神を身近に感じることができるからです」


「そうね。わたしもそう思う。だからこそ、気にならない? 忌まわしきものと言うのは、一体どんな姿をしているのか」


「ぼくは……わかりません。考えたこともありません」


 ぼくはどこか上の空で応え、会話はそこで途切れた。


 階段の段差が不ぞろいなのかどうかわからないが、何度も足を踏み外しかけている。


 こんなことなら、リネに捕まって歩けばよかったと思ったほどだ。


 長い階段をひたすら降りる。


 暗闇が続き、ランプの光が揺れる。


 やがて、自分が夢の中にいるような感覚に襲われていた。


 いったいどれくらい降りたのだろうか。


 しばらくリネも話さなくなっている。


 不安がってもいられない。油断すると、すぐに足を滑らせてしまうからだ。


 突然、リネが立ち止まる。


 ぼくは危うく、彼女の背中にぶつかりそうになった。


 どうやら、階段が終わったようだ。


 リネの肩越しにランプで照らされた先を見ると、行き止まりになっているようだった。


「なんだか、はじめてここに来た時のことを思い出すな」


 リネがつぶやく。


「え?」


「その時は、いろいろなことがいやになって、ここに逃げ込んだのだけれど、あれは優しく私を受け入れてくれた」


 その時、あの、音がした。


 オオオオオオオオオオオオオオオ


 壁を通してぼくの体に低い音が響く。


 体を通して、頭にまで届く不快な音。


 ぼくは思わず壁から手を離し、耳をふさぐ。


 だが、耳をふさいでも、地面を通じて重い響きが伝わってくる。


「あれはクロンを受け入れてくれるかな。とっても不安だけれど、でも楽しみでもある」


 リネが目の前の壁に触れ、押し開く。


 目に入ってきたのは、あまりにも高い天井と広い空間だった。


 人がいるとしか思えない照明の数だ。


 そして――


 リネの立っている場所の先には、屋敷を取り巻いていた、人ともつかぬ黒い何者かがうごめいていた。彼らはたいまつを掲げ、こちらを見ている。


「うわあ!」


 ぼくは腰を抜かしてしりもちをつく。


 あまりの恐ろしさになりふり構わず、這って階段を登ろうとする。


 黒い群れが、濁流のように押し寄せ、リネもろともぼくを飲み込んでいった。


 何もかもわからない。


 ただ、足や手を掴まれたことだけはわかる。


 オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ


 という音が響く。


 そしてぼくは、再び気を失った。

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