晩餐での依頼
聖書は大別すると三つに分けられる。
混沌から世界、そして人が生まれた契機を記した正典と神の言葉を受けた者たちがいかにして周囲の人々に伝え、あるいは伝えられず、恩恵と罰を受けたかを記した外典。
そして王都アストリア成立と、聖人アレキオスの足跡をたどったアレキオス伝をはじめとする聖人伝の三つだ。
ぼくはアレキオス様のことは尊敬しているけれど戦争で荒廃した世界の各地を巡り、悪徳にまみれた人々を救う物語としか理解しかしていない。
教義に関する専門用語が多すぎるし、読みこなすためには長い時間がかかるだろうと思っている。
外典はどうかというと、神の啓示を得た人々が正しい行いをしようとし、間違い、滅びていくのかが描かれたものだ。教会で教えてもらった話自体には心惹かれるところがあるものの、実際に読んでみると、登場人物が多いうえに家系図の把握が面倒くさい。
誰が誰の息子で、その息子が、誰の娘と結婚して誰を産んだなどと、こんな描写が山のように出てくる。
ようやく本が読めるくらいになったぼくにとって、この本はあまりにも難しく、気合を入れて読まなければすぐに眠たくなってしまう。
そこで正典だ。
これはとても分かりやすい。
難しい言葉は出てくるけれど、それは辞書である程度調べて読める。
なにより内容がとてもはっきりしていた。
混沌の世界に生まれた神が、いかに世界を作り上げ、そして忌まわしき存在と対峙していったのか。
いくつかの挿話は子どものぼくに理解できないものではあるけれど、それでも、神と忌まわしきものの終わりのない戦いが描かれた正典は、ぼくを飽きさせなかった。
神アスラは上位の存在であるというよりは、どこか人間臭い。思い通りにいかず苦悩することも、忌まわしき存在に邪魔されて心が折れる描写などは、とても親近感がわいた。
しかし神はどんな苦難の中でも諦めず、人の住む世界を作り上げる。
ぼくはその物語が、とても好きだった。
◆ ◆ ◆ ◆
と、その時ノックがした。
「はっ! どうぞ!」
父さんが直立して答えるので、ぼくも立ち上がった。
扉を開けたのは、メイドの女性だった。
手には水のなみなみ注がれた桶を持っていて、腕には布が掛けられていた。桶からは湯気が上がっている。
「お食事まではもう少し時間がかかりますので、こちらで身を清めてお待ちください」
「ありがとうございます」
父さんが言い、頭を下げたので、ぼくもそれに続いた。
「使用後は布とともに部屋の外に出しておいてください。あとで取りに伺いますので」
「承知しました」
ぎこちなく桶を受け取る父さんは、明らかに困惑していた。
「それでは」
メイドさんが出て行っても、父さんは桶を手に持ったまま動かなかった。
「こりゃあ、またとんでもない歓迎ぶりだな」
ぼくは本を置き、父さんから桶と布を受け取ってテーブルに置いた。
「でも、家に泊めると考えるなら、汚れてない方が良いんじゃない?」
「まあ、そうだな」
ぼくたち親子は桶のお湯を使って体を拭いた。
確かに父さんの言うように、ただの商人を客として遇するなんてあまり聞いたことがない話だ。落ち着けというのは無理な話かもしれない。
体を拭き終わってしばらくするとノックの音がして、さっきと同じメイドさんが現れた。
「お食事の準備ができたました。こちらにお越しください」
丁度そのとき父さんは、持ってきた荷物をひっくり返し、なるべく汚れていない服をああでもないこうでもないと探していたところだった。
「こちらへ」
メイドさんの後に続いて父とぼくは部屋の外に出た。部屋の外に置いた桶はすでに片付けられていた。
日はすでに落ち、照明が廊下をぼんやりと照らしている。
メイドさんは黙って先を進む。
父さんもぼくも黙っているため、薄暗い廊下に足音と小さく床が軋む音だけが響いていた。
階段を下りて、玄関の豪華な扉を横面曲がる。しばらく通路を進むと、大広間らしい、大きな扉の前についた。
見るからに重そうな扉をメイドさんが開くと、そこは食堂だった。十人以上が座れるような長い机に、立った二人の女性が並んで座っている。
二人はぼくたちに気づくと立ち上がった。
一人はミレーゼ様、そしてもう一人は、ぼくたちが運んだリネと呼ばれていたお嬢様だ。二人の後ろにはそれぞれヴィルさんとメイドさんが立っていた。二人はこちらを向いて礼をしたけれど、その表情はひどく愛想のないものだった。
父さんは恐縮しきりで何度も頭を下げ、ぼくも続いた。
まったくこんな時、どうしたらよいのだろう。
ぼくは知らないし、父さんだってわかっていない。村に踏み入れてから変なことばかり起こっている。ぼくたち商人に出来ることといったら、頭を下げることくらいだ。
「立っていないで、こちらにいらしてください」
ミレーゼ様が言うと、
「こちらへ」
とぼくたちを連れて来たメイドさんが案内する。磨き上げられた長机の表面は美しく、気品が漂っていた。
ぼくたち親子は勧められるままに椅子に座る。
父さんの前にはミレーゼ様、ぼくの前にはお嬢様が座っている。
とても不思議な感覚だった。
貴族のお嬢様と同じ部屋にいる。それだけでも大変なことなのに目の前に座っているのだ。こんなことは滅多に起きることではない。正面に座ったお嬢様は、透き通るような肌を持ち、体の線が細く、その姿はまるでガラス細工を思わせた。
「ヴィル」
ミレーゼ様がそう言うと、執事のヴィルさんが手を鳴らした。すると奥の扉が開き、料理が運ばれてくる。
嗅いだことのない良い匂いがあたりを包む。
「リネ、この方々があなたを助けて下さったのよ。お礼を言いなさい」
ぼくたちが席について早々、ミレーゼ様が言った。
色白の少女は微笑を浮かべ、
「この度は、助けていただいてありがとうございます」
と上品に言った。
「いえいえ、そんな! 私たちは偶然、お嬢様の近くを通りかかっただけで、大したことはしていませんよ。なあ! クロン」
父さんは助けを求めるようにぼくの方を見る。
「はい。無事でよかったです。なかなか目を覚まさなかったものですから心配していました」
ぼくは当たり障りのない言葉で応えた。
「マーシャルさん、クロンさん、先ほどお話したように、ラストンさんが戻られるまでこちらでゆっくりと過ごされてください。もしも何かありましたら、メイドか、もしくはこの――」
「わたくしヴィルにお声かけください」
ミレーゼ様の隣に控える執事の異様に高い声が響いた。
「はあ……きっとそのようなことはないと思われます。とても良いお部屋でしたし、なにも不満はございません」
父さんは慎重に答える。
「それは良かった。では、食事にしましょうか」
ミレーゼ様の声で、ぼくと父さんは食事を始めた。
前菜からメインと続き、黙々と食事を続ける。
ひどく重苦しい空気。
父さんが落ち着かなげに周りを気にしている。父さんはとても話好きで、そのために商人をやっているような人だった。こんな沈黙に耐えられるわけがない。
やがて父さんが、そっと食器を置いて、口を開いた。
「あの……つかぬことをお聞きしますが……」
「なんでしょう?」
父さんの言葉にミレーゼ様が食事の手を止めた。
「お嬢様は、その、体調の方はよろしいのでしょうか……・」
父さんもぼくと同じことが気にかかっていたらしい。
「それが……すべては私の責任です。この子はもともと体が弱く、すぐに気を失うような子なのですが、時折、神がかりのように家を抜け出してしまいますの」
「はあ……神がかり」
父さんは首を傾げる。ぼくもその言葉の意味を掴みかねていた。
「申し訳ありません。お母さま」
隣のお嬢様は消え入りそうな声で言う。
「このようなことは一度や二度ではないため、私どもも娘の行動には目を光らせているのですが、それでも止められないのです」
ミレーゼ様が言うと執事が進み出る。
「申し訳ございません。私どもの配慮が行き届かないばかりに」
「良いのよヴィル。あれだけしっかり見ていたのに煙のように消えてしまうのですもの。おそらく人には手に負えない何かの力に違いないわ」
「その……私らに詳しいことはわかりませんが、聖職者様にお願いするというのは……」
父さんが言う。確かに、体の不調があれば、聖職者にまず相談するのが普通だった。
神がかり、のような不可解な出来事が起こればなおさらだ。
ミレーゼ様はため息をつく。
「聖職者の方には何度もお願いしました。王都の名のある方にお願いして、さらに魔術師にも相談しました。それでも原因はわからなかったのです」
「ふむ。それはまた難儀な」
「いつも気づけば屋敷の外にいる、ということを繰り返していたのですが、今回のように村の外まで出たのは初めてのことです。一体どのように抜け出したものか……あなた方にはとても感謝しています」
「はあ、それはどうも、もったいないお言葉で。道で倒れられていて幸いでしたな。森の中では私らも見つけられなかったでしょう」
「ええ、家のもので村中を探し回った後に、人を集めて村の外に出ようと思っていたところでした。重ねてお礼申し上げます」
「いえいえ! そんな!」
父さんが話を切り出したことで、徐々に調子を取り戻していることがわかる。場の空気も和らぎ、ミレーゼ様の口調も少しずつ穏やかになっていた。
そこにいるのは、貴族の領主であるとともに、娘のことで悩む一人の母親だった。
◆ ◆ ◆ ◆
柔らかい空気が漂うなか、ミレーゼ様が口を開いた。
「あなた方は普段どのようなものを取り扱っていらっしゃるのですか?」
「へえ、そうですね。私ら旅の商人は、あるところからないところへ物を運ぶのが仕事でして。基本的には何でもやりますよ」
「例えば骨董品のようなものは?」
「はあ、物にもよりますが、ある程度はわかるつもりです。といっても高いものか安いものかというくらいのものですが」
「そうですか、実は倉庫に、判別もつかないほど古いものが埃をかぶっているのです。片付けたいということはありませんが、価値だけでも把握しておきたいのですが」
すると、父さんの目の色が変わる。商売人の目だ。
「へえ! そうですかい! いや、私がこうだと値段はつけられませんが、こりゃ高価だ、あるいは価値がわからねえってなんてものについては、知り合いの商人を紹介することもできますよ」
すっかり喋り方も商人になっている。
「私、ほんとうに色々なことがわからなくて……ラストンさんにお願いしたのだって、どちらに頼めばいいかわからず困り果てたところにあの方がちょうど現れたの。この領地は作物は取れるけれど、取れるからこそ、外にあまり開かれていないのよ」
ミレーゼ様は安堵の表情を浮かべていた。
「われわれ商人ってのは、金儲けのことしか頭にないとお思いでしょうが、私らはないもののところにあるものを持ってくるといったような、人を助ける仕事でもあるわけなんですよ」
父さんは生き生きとしている。
「ではお願いしようかしら。売ると決めているわけではないから、お金にはならないかもしれないけれど」
「商人というのはそういうもんです。軽く調べさせてもらって、こちらから提案する。んで、駄目ならばおとなしく引き下がる。これが良い商人ってもんでね!」
「ふふ、威勢がいいのね。今日は遅いから、明日からお願いしますね。ラストンさんが戻るまでの間、出来る限りで良いのです」
「受けさせていただきます」
そうやって、父さんとミレーゼ様が盛り上がっている時、ぼくはふと正面を見た。リネ様は、ぼくの方をじっと見つめていた。
深い紫色のドレスを着た彼女はまるで、陶器で作られた人形のようにも見えた。ぼくが気づくと、彼女はミレーゼさんの方を向き、それから一度も目が合うことはなかった。
食事が終わるとぼくと父さんは部屋に戻った。
父さんはミレーゼ様の話を聞いてからずっと上機嫌だ。
「いやあ! こりゃまた良い話に乗れそうだ」
「あんなに気やすく受けてしまってよかったのかな。父さん、古いものの目利きは難しいって聞くよ」
ぼくは一応忠告する。
でも商売に関して決めるのは父さんだ。
「私も伊達に長いこと商売をしていない。駄目かそうでないかくらいはわかる。それにあの場で言った通り、わからなければ詳しい商人に話を通せば良いんだ。この家の様子では、なかなか期待ができる」
「下手な値をつけたら厄介だよ。わかってるとは思うけど」
「当然だ。私にも商人としての誇りがある。商品価値を伝えたうえで手数料をはずんでもらうさ。商人は信用が一番なんだ」
「分かってるなら良いけどさ」
「クロンは心配性だな! 悪い人たちでもなさそうだし、いつも通りの仕事をしていれば問題ない」
「うん……ぼくもそう思うけれど」
「さあ、明日に備えて早く寝るぞ!」
「うん……」
ぼくは何かに引っかかりを覚えながら、寝る支度をする。ベッドはとてもふかふかで、普段馬車で眠り、外で寝ることも多いぼくにとっては逆に落ち着かなかった。
眠りに落ちていくとき、ぼくはリネ様の顔が頭に浮かんだ。
よくわからない病気を患っているらしい彼女。きっと普段は外にも出られず、屋敷の中で暮らしているのだろう。色白で、はかなげな彼女のことを思うと、ぼくは心が痛くなった。
とはいえ、ぼくも、慣れない体験をして、疲れてしまっていたらしい。やがて頭がぼんやりとしてきて、深い眠りに落ちていった。




