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補修人、相良修司は蚊帳の外  作者: 久慈望
第七話 凍結
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悪魔の誘惑

 ある日のことだ。


 サリスは農家の手伝いを終えて、家に帰るところであった。


 村の人々は優しく、サリスのために食料や生活に必要なものを分けてく入れる。


 しかし、それだけでは彼女の気がすまなかった。


 これは自分とロルクス二人が望んだ生活なのだ。


 施されることなど、彼女の誇りが許さなかった。


 それが、自分のわがままであることも知っている。だが、そうしなければ、心の均衡が上手くとれなかった。


 サリスはロルクスの状態が落ち着いているとき、進んで農家の手伝いを買って出た。


 村の人々は、そんなことはいいと言ってくれるのだが、サリスは譲らなかった。


 そんな彼女のことも、村の人々は受け入れた。


 サリスはよく働き、村人もよくやっていると思わざるを得なかった。


 二人は自分たちのことをあまり語らないが、話に聞く、魔王とやらを倒した存在らしい。それがどれほどすごいことなのかはわからない。わからないながら、彼らが何かしらの功績をあげ、療養のためにここに住んでいるであろうと納得している。


 だが、それにしても、と村の人々の一部は思っている。サリスはよく働いているが、そのもう一人の男は何もしていないではないか。


 農作業を終えて帰ろうとしたとき、女性がサリスを呼び止めた。村でもおしゃべり好きで有名な女性だった。


「あんたも苦労するねえ」


「いえ、もう慣れていますので」


「そっちじゃないよ。あんたの家の男のことさ、なんでもずっと寝込んでるっていうじゃないか」


「はい……そうなんです」


「あんたら町から来たんだろう? そこで神父さんに診てもらわなかったのかい?」


「いえ、聖職者の方ではどうすることもできないので」


「あんたらのことは深く聞いてないけどさ。名のある人なんだろう? だったら顔も広そうだし、どこかしっかりとした町で治すなりなんなりした方ががよかったんじゃないか。勘違いしてもらっちゃ困るが、これはあんたらに出て行ってもらおうとか、そういうんじゃないからね、心配してんのさ」


「これは、私たち二人で決めたことですので」


「本当かい? まさかと思うが、男のほうが勝手に決めたんじゃないだろうね。自分が病気だってのに、周りを巻き込んで……」


「おい! やめろ! サリスさんにはサリスさんの事情があんだろうが」


「でもあんた! あたしはこの子がかわいそうでかわいそうで見ていられないんだよ」


「大丈夫です! 私は平気です。だから、ロルクスのことは責めないでください」


「あんたが言うならいいけどさ。苦しかったらいつでもいうんだよ。出来る限りのことはするからさ」


 サリスは頭を下げ、逃げるようにその場を去った。


 彼女の後ろでは、夫婦の言い争いが続いていた。


 サリスはあふれそうになる涙を抑えるために、何度も目をこすりながら家路を急いだ。


「あなたがサリスね」


 名前を呼ばれ、彼女は立ち止まった。


 振り向くと、そこには黒く、見たこのもない素材の服を着た女性が立っていた。


「どなたですか?」


 サリスの思考が切り替わる。この人からは、良くないものがあふれている。自分に危害を加える気配はないが、魔術師か、とにかく魔素に通じていることだけは確かだ。


 人でなければ……魔物かもしれない。


 サリスは警戒し、小声で詠唱を開始した。彼女の周辺に氷の結晶が舞う。


「よお、サリスちゃん、その人はお客さんかい?」


 サリスの体がびくりと震える。もしもこの場で戦闘が始まってしまったら、村の人々を巻き込んでしまう……


「ちょっと邪魔ね」


 女のつぶやく声が聞こえたと思った瞬間、サリスの目の前の風景が灰色に染まった。まるで世界ががらりと切り替わったように、白と黒、その中間の灰色で構成された風景のなかにサリスはいた。


 彼女に話しかけてきた村人は、時が止まったように停止していた。


「何なの……?」


 驚きつつも、サリスはすぐさま攻勢に転じる。詠唱を開始し、彼女が最も得意とする氷魔法の術式を身の内に組み上げていく。


 ――だが。


「え!?」


 魔法は発動しなかった。


「こんなものかな。魔法は使えないからそのつもりで。あたしはあなたと争いたいんじゃなくて、話し合いに来たのよ」


「あなたは魔物なの? これまであたし以外の魔法使いは見たことあるけどこんな魔法はなかった」


「そう? 結論を出すのは早いんじゃない? あなたの知らない技術だってこの世界にはあるかもしれない」


「私は自分を卑下したりしない。私以上に魔法が使える人なんていない。だから、あなたは魔物」


「ずいぶんと傲慢な考えね」


「本当のことだもの。私は嘘をつくのをやめたの。これはロルクスが教えてくれたこと」


「ロルクスね。世界を救った勇者。これはあなた二人に関係あることなのよ」


「え……」


「ふふ、興味がわいてきたでしょう?」


「そんなことはない」


「じゃあもしも、ロルクスの苦しみを取り除くすべがあるとしたら?」


「……」


 サリスは答えなかった。


「正直、もう限界なんでしょう? ロルクスに身を捧げるとは決めてみたものの、心がくじけそうなんでしょ? 認めなさいよ」


「あんたに何がわかる」


 サリスが吠える。それは誰も見たことがない感情の発露だった。


「あたしにはわからない。一人の男に自分の身をにささげようなんて気持ちはね。ロルクスは追い詰められ、もう限界なのよ。きっかけさえあれば、自分で命を捨てることさえするかもしれない。一度崩れた魂は、元に戻るのは難しく、どの時代だって、方法は確立されていない。だったらどうする?」


「どうするって……」


 サリスは女の語りに飲まれていた。


「あたしはね。人の心を修正する力は持っていないけれど、人の力を底上げしたり、強くしたりすることができる。あなたにあたしの力を与えたら、もしかしたら、彼を治療できるかもしれない。出来ないとしても、あなたの力で、彼を治療できる人が現れるまで、彼の死を引き延ばすことができるかもしれない……」


「帰ってよ」


「うん?」


「帰ってって言ってるの! そんなわけのわからないことを言って、何が目的なの? 魔物ならさっさと襲い掛かってきなさいよ。こんな状況になって、あたしたちを殺して何の意味があるっていうのよ。私たちの生活を邪魔しないで!」


 女はにやりと笑った。サリスが心から震え上がるほど、悪意を含んだ笑いだった。


「そう、じゃ、今日のところは帰るわ。あなたが気が変わった頃にまた来るからよろしくね」


 すると、灰色の世界に甚割と色が戻る。村人が動き出し、サリスはめまいに襲われた。


「あれ? サリスちゃん、今そこに人がいなかったかい?」


 ハッとして女がいる方を見ると、彼女は姿を消していた。


 サリスは走った。


 今無性に、ロルクスに会いたかった。


◆    ◆    ◆    ◆


 小屋に戻った時、ロベルトは、ベッドのある部屋にはおらず、食卓に座っていた。


 今までは彼女が声をかけない限り出てこなかった彼が、食卓にいることにサリスは驚いていた。


 もしかしたら、ロルクスに改善の兆候が出ているのではないか。


 サリスは喜び、彼に駆け寄った。


「ロルクス、どうしたの? ごはんだったらもう少し待っててね」


 ぼんやりとした表情のロルクスは胡乱げに彼女を見上げた。その顔には、以前の苦悩は消えていたが、一方で、生気が失われていた。


 ロルクスが口を開く。


「君は……誰だ?」


 サリスは息を止める。驚愕に目を見開き、そのあと悲しみの表情を浮かべた。


「ロルクス……? 私よ。サリス、覚えてないの?」


「わからない。気が付いたらここにいたんだ。ロルクスというのは、ぼくの名前なのかい?」


 サリスはロルクスにつかみかかる。


「ロルクス! それだけは! それだけダメ! あなたがどれほどつらい重荷を背負っているのかは、私にだってわからない! でも、記憶を捨ててしまったら、本当に、あなたはあなたでなくなってしまう!」


 サリスは涙を流しながらロルクスに縋り付いていた。しかしロルクスはぼんやりとしたまま、


「すまない。君の言っていることはわからないが、ぼくはよくないことをしてしまったようだね。謝って住むことではないかもしれないが、申し訳ない。でも、本当に覚えていないんだ」


「ロルクス……」


 サリスは泣き続けた。


 ロルクスは恐る恐るサリスに触れ、しがみつく彼女の背を優しくなでた。


◆    ◆    ◆    ◆


 その日から、サリスの生活は変わった。


 ロルクスはベッドから身を起こすようになり、彼女の言葉を受け入れるようになった。


 かつてのように突然苦しみだすこともなく、彼女の負担は減ったはずであった。


 しかし記憶を失ったロルクスは、もはやロルクスではなかった。


 普通に会話ができる。彼女からの世話を受けなくても生活できるようになり、外で散歩もするようになった。ロルクスは明らかに改善していた。散歩に出ると村の人から話しかけられ、それに笑顔で答えるようになっていた。


 しかしそれは、あくまで表面上のものでしかなかった。


 夜眠りにつくと、彼は再び苦しみ始めた。それは以前よりもひどいものであった。普段彼を襲っていた絶望が睡眠の間に凝縮されたに過ぎなかったのだ。


 ロルクスは絶望を夜に押し付け、少なくとも昼間は、普通の自分でありたいと願った。その結果が、昼間はすべての記憶を失い、別人となるという選択だった。昼間の彼には自覚できないが、それはすべて、サリスのためであった。


 しかしサリスにとってそれは、悲しみ以外の何物でもなかった。彼女とともに絶望を分かち合うことを拒み、夜の中でただただ疲弊していく。


 それがわかっているからこそ、サリスは苦しかった。


 どうしても自分にも、その苦しみを分け与えてくれないのか。二人であれば、乗り越えられることもあるかもしれないのに。


 ロルクスの夜が絶望に支配され、彼は日に日に疲弊している。それでも彼は昼間、サリスとの生活を成り立たせようとしている。


「ぼくも元気になってきたから、君の手伝いをしようかな」


 ロルクスがサリスに言う。


「でも、あなたにはまだ無理じゃない?」


「外も歩けるようになったし、もう十分元気だよ。記憶をなくしてしまったぼくを君は優しくしてくれる。その恩返しをしたいんだ」


 サリスはロルクスからそんな言葉を聞きたいわけではなかった。


 こんなことであれば、絶望を周りに振りまいてもらった方がどんなに良かっただろう。


 サリスの愛は歪み、そして、真実のロルクスを求めた。ロルクスは彼女のために記憶を失ったのだろうが、それはサリスにさらなる苦しみを与えてしまった。


 だが、サリスは、ロルクスの気持ちもわかっていた。


 だからこそ、言い出せない。


 浮ついた空気のまま、互いを気づかう作り物の平穏が続いた。


 ――そして、数か月の時が立ち、その日がやってくる。


 小屋にノックの音が響く。


 苦しみ疲れて眠っているロルクスの傍らで目を覚ましたサリスは、扉へと向かう。


 わずかな違和感。扉を開けると、それは現実のものとなった。


「お久しぶり」


 そこにいたのはかつてサリスの前に現れた謎の女であった。


「あなたは……」


 疲弊したサリスはさしたる驚きもなく、女の顔をぼんやりと眺める。


「あたしはユウカ。ユウちゃんって呼んでね。最近自分でこう名乗るようになったんだけど、まだ誰も呼んでくれないのよね」


 状況に似つかわしくないユウカの言葉は、サリスの頭に入ってこない。


「……あなたどうしたの? ひどく疲れているみたい」


「出て行ってください」


 サリスが力なく言う。


「あなたの様子を見たら、そうはいかないわ。きっと勇者になにかあったのでしょう? こんなこと終わりにしなくちゃ」


 サリスの目から涙があふれた。そして、口から勝手に言葉が流れる。


「そんなこと、私だってわかってる。ロルクスは私のためと思っているかもしれないけど、これまでのことをすべて捨ててしまった。じゃあ、私、これまでやってきたことは何なの? ロルクスと旅をしてきたことが、全部なくなってしまったの? じゃああたしが見ている彼は誰? 私はロルクスではない人のために、いったい何をしているの?」


 泣きながら話す彼女の声は、途中から、ひどくかすれたものになっていた。


 ユウカはサリスの言葉を最後まで聞いた。


「そうね。あたしだったら耐えられないでしょうね。一人で勝手に苦しんで、一人で勝手に忘れて、ほんと自分勝手よね。本音で言うなら、そんな男放っておいて、自分の人生を歩めって言いたいところだけど、勇者のことがまだ好きなんでしょう? だったら、もう一つの道がある。あたしの言うとおりにやれば、あんたは自分の望みをかなえることができる。ま、完全にってわけにもいかないけどね」


 サリスは自分の心が冷えていくのを感じた。


 冷たく、硬く、これからのことを冷静に考え始めていた。


「私は……」

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