辿り着いた場所
それからシャルは、当てもなく馬を走らせ続けた。
シャーデン家の領地を抜け、ただ遠くへ。クリードラント家にはもう帰るつもりはなかった。仮にこれまで通りの生活を続けたとして、エレアがラスロの隣にいることに耐えられるわけがなかった。
だから馬を走らせた。
何か計画があるわけでも、行き先が決まっているわけでもなかった。
シャルはただ遠くへ行きたかったのだ。
馬の揺れで足の感覚がなくなり、力を込め過ぎた手は開かなくなっていた。
にもかかわらず、シャルは止まらなかった。馬が疲労を訴え、速度を落とそうとすれば、鞭を使って無理に走らせた。
その間も、彼はずっと涙を流していた。
無力感に打ちひしがれ、全身に風を受けることで、何もかもを忘れようとしていた。
◆ ◆ ◆ ◆
どれくらい、走り続けたのだろうか。
馬がついに音を上げて、速度を落として止まった。
シャルが鞭を打っても動こうとはしなかった。
人を避けようとした結果、馬は人里離れた森に向かって進んでいた。
しかし、シャルはそれでも止まるつもりはなく、馬から降りて、自分の足で歩き始めた。
歩き慣れない森の中に入り、ただ足を動かし続けた。
シャルの頭は、これまでのエレアの記憶を掘り返し、絶えず彼女の幻影を追っていた。
彼は今自分がどこへ向かっているのかもわからず、森の奥のそのまた奥へと向かっていった。
雨が降ってきた。
シャルは虚ろな目で空を見上げ、そしてまた歩き続けた。
地面はぬかるみ、彼は何度も足を取られて転びそうになった。
大きな木の根に足を取られ、盛大に転んだ時、彼はしばらく動かなかった。
だがしばらくすると、また立ち上がり、とぼとぼと先へと進んだ。
エレアの言葉を反芻する。
家のために自分を犠牲にする。それこそがエレアであり、だからこそシャルは彼女を愛した。
シャルの言葉を断るとき、彼女はどんなに身を切る思いだったのだろうか。エレアを傷つけまいと誓った自分が、最も大きな傷を彼女に与えてしまった。
シャルは自分を責め続け、そのために歩き続けていた。山歩き用ではない靴で、足元もひどく悪い。靴のなかは血まみれで、体力の限界を迎えようとしている。
それでも彼は歩いた。
これは罰だ。エレアを苦しませた罰だ。
雨に打たれながら、歩き続けた結果、シャルはついに、立ち止まった。木々に囲まれた空は濁り、彼の心を表しているかのようだった。
「ああ、もう疲れてしまった」
シャルはその場に座り込み、そのまま仰向けに倒れた。
降り続く大粒の雨が、かれの視界をさらに曇らせた。口のなかにも雨粒が潜り込み、彼は自分がこのまま地上でおぼれ死んでしまうのではないかと思った。
でも、それでもいいと思った。
「あの……大丈夫ですか?」
シャルの顔を覗き込むようにして、一人の女性が声をかけた。若い村娘といった雰囲気の女性だった。
シャルは彼女の数値を見た。その数値から、彼女が本気で自分のことを心配し、手を差し伸べてくれているのだということを知った。
こんなもの、初めから見えなければいいのにと思った。
シャルは不意に手を伸ばし、彼女の数値に触れた。
「あっ」
娘から声が漏れる。
そこでシャルは気を失った。
◆ ◆ ◆ ◆
目を覚ますと、シャルはベッドに寝かされていた。
「あ、おはようございます」
「うん……」
シャルは寝ぼけながらも体を起こした。
「そのまま寝ていてください。食事をお持ちしますので」
娘は部屋を出て行った。
シャルはぼんやりしながら考える。
ここはどこだ? ぼくが歩いていた場所に、人の住む場所があるなどとは聞いたことはない。
しかし不思議なことがある。ほぼ一日中馬に乗り、歩き続けていたにもかかわらず、彼はあまり疲れを感じていなかった。
試しにベッドから出て、床に足をつけてみる。
「痛みも消えている……」
不思議なこともあるものだと思っていたが、部屋に娘が戻ってきて、ハッと顔を上げた。
「もう体を起こしても平気なんですか?」
娘が訊く。
「どうもそうらしい」
「パンがありますけど食べますか?」
「ありがとう。もらうよ」
娘の気やすい言葉につられて、シャルは自分が貴族であることを忘れた。彼は娘の用意した椅子に座り、バターを付けたパンを食べた。空腹を埋めるように、黙々と食べ続けていると、娘が笑った。
「どうかした?」
「いえ、あまりにも真面目な顔で食べているので面白くて。お客さまにすみませんね」
「とにかくおなかが減っていてね」
「どちらからいらしたんですか?」
しかしシャルは答えない。
「なにか事情がありそうですけど、怪しい人にも見えませんし、格好からすると貴族の方でしょう? あ、服はは土で汚れていたので洗っています。大したものは出せませんけど、この部屋は空いてるので泊って行っていいですよ」
「……どうしてそんなに親切なんだい?」
「どうしてって……この村にはあまりお客さんが来ないからですかね。私もそうなんですけど、外の人が珍しいんです。村のみんなもあなたを見に来たりしてました」
「村の名前は?」
「エルフィールです。大層な名前でしょう?」
「聞いたことのない名前だ……」
「村はいっぱいありますからねえ」
シャルはパンを食べ終えて、机に置かれた水を飲む。空腹だった体に水分が染み渡るようだった。彼は立ち上がり、地面を踏みしめてみる。やはり痛みはない。わずかに感じていた疲れや倦怠感も食事をとることですっかり消えてしまっていた。
シャルは改めて目の前の娘を見る。青みがかった髪を後ろで編んでいる。貴族の社交界に居てもおかしくないような、美しい目鼻立ちをしていた。
「助けてくれてありがとう。ぼくの名前はシャルだ。君は?」
シャルは立ち上がり、娘に握手を求めた。
「ターニャです。あなたを運んだのは村の男の人ですよ。私は見つけただけです」
ターニャはシャルの手を取り、
「元気そうですね。どうです? ちょっと村を見てみますか?」
と続けた。
「いいね。悪くない」
◆ ◆ ◆ ◆
ターニャと外に出ると、彼女の父親が出かける準備をしていた。
「こちらが私の父です」
「やあ、やあ、父のタンガです。大変お疲れだったようですがもういいんですかい?」
「シャルです。ベッドを貸してくれてありがとう」
「そんなもん気にせんでええよ。ちょうど部屋も空いてたからね」
「母さんは?」
ターニャが訊く。
「ちょっと用事で村長のところまで行っとるよ」
「そっか」
ターニャはシャルの方を向いて、
「じゃあ、行きましょうか」
シャルはターニャの後ろを歩き、村を見て回ることになった。
彼の村の印象は、どこにでもある小さな村、というものだった。
しかしそれは次第に変化していく。
「やあ、その人が貴族さんかい? 初めてお目にかかったよ」
歩いていると村人の男性から声をかけられた。
「ええ、今案内をしているの」
ターニャが笑顔で応えた。
「あんた男なのに軽くてびっくりしたよ。貴族さんってのはみんなそうなのかい?」
「はあ……」
シャルが気の抜けた返事をする。
「この人があなたを運んだのよ」
ターニャが補足した。
「ああ、そうでしたか。ありがとう」
シャルが礼を言うと、
「いいよ。おれは力仕事にゃ慣れてるからね」
男は笑顔で応えた。
ここでシャルは奇妙な感覚にとらわれる。
領民として村で生活する人間は、基本的には貴族を恐れている。もちろん、対面した際に表に出すことはないが、それでも、卑屈な態度を崩さない場合が多い。
領主で普段から付き合いがあるならばまだしも、シャルはまったく無関係の貴族なのだ。
普通ならば恐れられて当然にもかかわらず、この村では一切そのような感情がなかった。それはパラメーターを見ても分かる。
どこへ行っても誰かしらが、気軽な言葉で笑顔で挨拶してくる。
彼らは貴族の存在を知っていても、見たことがないと口々に言う。
つまりそれはこの村の領主の不在を示していた。
確かにここには領主の屋敷が見当たらない。多少大きな家屋があっても、貴族特有の装飾過多な建物が一軒も建っていないのだ。
領主がいないということは同時に、王都からの影響も受けていないということでもある。
しかし、そんなことがあり得るのだろうか。
さらに不思議なことに、村にあるべきもうひとつの建物も見当たらなかった。
「ターニャ、少し聞きたいんだが」
「ええ、なんでしょう?」
「この村には教会はないのかい?」
「きょうかい?」
「神に祈る場所さ」
「ああ、だったらありますよ。村は一通り見て回ったし、行ってみますか」
ターニャは村の奥の細い道に入り、そのまま先へと進む。
シャルは首を傾げながらも後を追った。
開けた場所にあったのは、巨大な大木だった。
「ここは?」
シャルが訊く。
「神樹の森です」
「しんじゅ?」
「この大きな木には、不思議な力が宿っているという言い伝えがあるんです。私たちがお祈りするときは、いつもここに来ますね」
「じゃあ君たちにとっての神が、この神樹なのか」
「どうなんでしょうか。神様って、お話のなかに出てくる偉い人でしょう? 子どものころから両親に言われてお祈りはしていますけど、神様って感じはしませんね。でも、ここにいるとすごく安心するんです」
シャルは神樹に近づき、巨木を見上げた。長い年月を積み重ね、威厳すら感じられるその姿。彼は誘われるように木の表面に触れた。
その時、木肌が淡い光を放ったような気がした。
シャルはめまいに襲われ、その場に崩れ落ちそうになる。
めまいと同時に、シャルのうちに潜む黒い感情が、力とともに溢れ出る。
力……そう、ぼくは力を持っていた。
これほどの力があれば、ぼくは自分の夢を叶えることができるかもしれない。
ならば、ならばだ。
実験を始めなければならない。
幸い、ここは王都の手も届かない。領主もいなければ教会もない。
つまりこの力を存分に発揮できる場所というわけだ。




