人の心を掴むということ
シャルの力は彼の意志を必要としない。
欲しいと望む前にあらゆるものが彼に与えられた。
完全に満たされた存在であった彼は、力を認識した後も、それを悪用することはなかった。
シャルは与えられた力と、周囲の環境にただただ感謝していた。
ただ、そのような彼にも、たった一つ望むものがあった。
古くからクリードランド家と親交の深いジャーデン家の一人娘、エレアからの愛である。
シャルはエレアを女神のように崇拝し、馬を与えられて行動範囲が広くなると、彼は何かと理由をつけてジャーデン家の屋敷へと向かうようになった。
もちろんエレアに会うためだ。
シャルがエレアを思い浮かべる時、彼は、彼女の姿だけでなく、その美しい感情に思いをはせる。
穏やかなパラメーターの起伏は、安らぎに満ち、よほどのことでなければ怒りもしない。シャルはエレアの可憐な姿だけでなく、彼女の心の動きすべてを愛していた。
シャルは何度か、エレアの数値が大きく動いたのを見た。
幼い頃の彼がしゃぎすぎて膝を擦りむいたとき、エレアは慌ててシャルに駆け寄り、傷口に自分のハンカチを巻いてくれた。
「シャル! もう! 慌てて走るから!」
シャルは自分が怪我をしたことよりも、普段穏やかな口調のエレアが大声を上げていることに驚いていた。
「平気だよ! 僕はもう子どもじゃないんだ」
シャルは強がって見せたが、心の内では、エレアが自分のためだけに心を動かしてくれることに感動すら覚えていた。
彼は強く心に誓った。
いつかエレアに認められる男になろう。そして、彼女の感情を揺さぶるような悪いことが起こったら、命を懸けてでも助けよう。
シャルは時間に余裕ができるたびに、ジャーデン家に赴き、エレアと会話を楽しんだ。彼にとってはそれで十分であり、いつか優秀で頼りがいのある男として認められることを望んでいたのだ。
姉弟のように仲の良い二人。
それはいつしか、両家の間で当たり前の光景となり、そこに誰かが口を挟むようなことは一切なかった。
◆ ◆ ◆ ◆
シャルがジャーデン家の屋敷に行くとき、彼はいくつかの手続きを踏まねばならなかった。
それは執事のフランダルとの会話から始まる。
「ようこそおいでくださいました。シャル様」
「こんにちは、フランダル。エレアは居る?」
「ええ、お庭にいらっしゃいますよ」
「よかった。ありがとう。エレアに会う前に……」
「はい、わかっております。ユニファ様ですね」
「うん。ここで待っていたらいい?」
「はい、少々お待ちください」
フランダルの数値が変動する。
今日も合格のようだとシャルは思う。
フランダルのように、歳を重ねた大人の男性の数値を読み取ることは難しい。まして感情を表に出さないような訓練を課している執事の感情の動きを読み取るのには苦労した。
たかが使用人、とシャルは思わなかった。
屋敷内の管理をすべて任されていたフランダルは、絶対に味方につけておきたい人間の一人だった。
だからこそ、シャルは彼に認められるまで長い時間をかけた。
シャルは貴族のようにふるまいながらも、子どもらしく、かつ礼儀を忘れない完璧な貴族の子息を目指した。
まず、嘘はついてはならない。
正直にエレアに会いに来たということを伝える。
ここで分かりやすい嘘をついてしまえば、何か後ろ暗いことがあると思われる。さらにここからが重要なのだが、必ず、エレアの両親に挨拶をしなければならない。
しかし、エレアの父を直接名指しするようなことはしない。
ジャーデン家とクリードラント家はほぼ同格ではあるものの、シャルと当主では格が違う。そこで、エレアの母であるユニファにまず声をかけることになる。
この時重要なのは、必ずフランダルを通すということだ。所用で出迎えるのがメイドであるなら、出直さなければならない。
フランダルがとりつぎ、ユニファに判断を仰ぐ、どちらも不在の場合はおとなしく帰ることになる。
フランダル、ユニファ、エレアの順序で話が通って初めて、彼はジャーデン家の屋敷に踏み入れることができるのだ。
この複雑な工程を経ることが、規律を重んじるフランダルから気に入られるために必要なことだった。
しばらくすると、上階からメイドを引き連れ、ゆったりとした足取りでユニファが降りてくる。
今日はそういう日かとシャルは思う。
ユニファはシャルが来ることを歓迎はしているが、その日によっては降りてこないこともあるのだ。
その日はシャルと話したい気分だったのだろう。
ユニファは優しく人格者ではあるが、気分屋なところがり、シャルは彼女と相対するとき、いつにも増して気を使っていた。
「シャル、よく来てくれました」
「お久しぶりです。ジャーデン夫人」
シャルは丁寧なお辞儀をする。
「ユニファで良いと言っているでしょう」
いつも同じ会話をする。このやり取りをしておかないと、フランダルの数値が下がってしまうからだ。
「はい、ユニファ」
「セリカはどうしている?」
セリカというのはシャルの母の名だ。二人は幼い頃に王都の社交界で出会い、結婚後も良好な関係を保つ間柄だった。しかし、そこには仲がいいだけとは違う何かがあることをシャルは知っていた。
「はい、今は下の兄のギリアムが王都の騎士見習いとなるための準備に追われています。僕はいつも放っておかれてさみしく思っています」
「ふふ、でもそれは、あなたが優秀だからよ。ギリアムだって、あまり手がかからないんじゃないの? 昔から武芸に関してはあなたたち三人のなかでも特に秀でていたし」
そこでシャルは少し暗い顔をして見せる。
「それが、やはり王都の騎士となると、話が違うようです。全国各地から腕に覚えのあるものが集まりますからね。さすがに兄でも苦労しているようです」
ユニファの数値が変化する。
彼女は自分でも気づいていないようだが、クリードラント家の子供たちの行く末をやたらと気にしているのだ。兄弟が評価されると喜ぶことは確かだが、それに加えて、上手く行っていないという話も彼女の興味をそそるらしい。
母というものは大変なものだとシャルは思う。
「あなたは今度王都に面接に行くのでしょう?」
「はい。その予定です。長兄のラスロも三年間、王都の学士として学びましたので、あまり不安はありません」
「早いわねえ。ちょっと見ないうちにそんな年になってしまって、あなたなら、王都で立派にやっていけるでしょうね」
「いえ、僕は長兄ほど優秀ではありませんので。せいぜい落第しないように頑張りますよ」
「謙遜しちゃって」
上品に笑うユニファ。シャルはここだと言わんばかりに、
「エレアはどうされていますか?」
と言う。ユニファは嬉しそうに笑う。
「あの子はよくやってるわ。この前も、家庭教師から勉学の才能があると褒められてね。あの子は昔から本が好きだったから、問題を読み解く力があると言われてるの。私からあんな聡明な子が生まれるなんて驚いているところよ」
シャルは心のなかで頷きながらも、謙遜なさらないでという仕草をして見せる。
そう、ユニファの言うことは正しい。エレア以上に聡明な女性など居るはずがないのだ。
「あなたはエレアに会いに来たのでしたわね。あの子は庭の花の手入れをしているところよ。庭師に任せておけばいいと言っているのだけれど好きみたいでね。シャルが来てあの子も喜ぶと思うわ。さあ、フランダル、案内して」
「かしこまりました」
そしてシャルは、フランダルに案内されて庭へと向かう。
「ジャーデン様は今日もお仕事ですか?」
シャルは当主のことを話題に出すことも忘れなかった。
「ええ、王都に向かわれております」
「王都でも相談役のお立場なのだと聞いています」
フランダルの数値が変わる。
だが、その様子がおかしい。数値が不安定に揺れ動いている。
「ええ、ジャーデン様もそのような立場はないと仰せなのですが、お声がかかれば行かないわけにもいかず、苦労なされているようで……人に信頼されるというのも難しいものです」
シャルは珍しく動揺しているフランダルの数値を見逃さなかった。理由はわからないが、何か気になることがあるらしい。
「しかし、それでも王都で評価されていることは素晴らしいことです。確か王都にはナイルズ様もいるのでは?」
ナイルズとは、ジャーデン家の長男で次期当主だ。だが、彼の名前を出した途端。フランダルの表情はわずかにゆがむ。
「それが……」
感情の数値が大きく揺れる。
だがそれは一瞬のことで、当主の話題の時に動いた揺れすらも消えた。これは感情が強制的に統制されたことを意味する。
「王都での政務に励んでおられます。ジャーデン様の伝手もあり、王都の中枢で忙しくされているようです」
とフランダルは続けた。
彼の表情は仮面をつけたように固く、感情を一切表に出さなくなる。
シャルはこの状態になって、さらに踏み込むことはしなかった。
「おお、それは素晴らしい。仕事が落ち着かれたら、またお会いしたいものです」
上手く話題を終わらせることを選んだ。この屋敷の当主とその長男に何かありそうではあるが、その領域に踏み込むような愚かな真似はしなかった。
「ええ、お伝えしておきます」
フランダルがすました顔で言うのと、回廊を抜けてエレアのいる庭にたどり着いたのはほぼ同時だった。
「それでは私はこれで」
「ありがとう、フランダル」
「御用がありましたらメイドにお声掛けください」
シャルは笑顔で応えた。
実はここまで来るのに、何年もかかっているのだ。彼は執事の心をやわらげ、そして懐に深く入り込んだ。夫人までも掌握し、そして、彼がこの屋敷でのある程度の自由を手に入れていた。
これはすべて、彼の力と積み重ねた実績のなせる業だった。




