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浮き輪にあいた小さな穴

作者: Haru@miyuki


 子殺しの進化論的な意味合いについてつらつら考えていた。

 親は子供を愛しているから育てるのではない。子供が自分の遺伝子を乗せているから育てるのだ。

 生物はすべて自分の遺伝子を後世に残すためだけに生きて、努力する。

 恋も仕事も痴漢も万引きも、すべてはそのためだけにある。


 だが子供が生まれつき虚弱体質だったりした場合はどうだろう。

 その子がいるために他の子を育てる事が出来なかったりする場合、虚弱体質の子供を育てるよりも、殺して別の子を産んだほうが遺伝子の保存を考えると合理的だ。

 一度に複数の子を産むことが普通である動物の場合は、自然淘汰的に弱い個体は選別される。

 強い個体だけが生き残り、強い遺伝子を後の世代に残していく。


 人間の場合だけだ。弱い個体が無理やりにでも生かされるのは……。

 


 章は知的障害を持って生まれてきた。

 3歳の頃、言葉が遅いのを気にして病院に連れて行って判明した。

 それからの5年間、妻が病死するまでは二人で必死に章を教育してきた。

 何度言ってもひらがなを覚えない章に思わず手をだすこともあった。


 どうしてこんなのがわからないのと、足し算を教えながら妻は泣いていた。

 そんな母親を見つめ、章はどうしていいかわからずにただおろおろするだけだった。

「さっき教えたばかりじゃないの。1に3を足したら1の次の次の次。2、3、4で4になるって。わかった? 本当にわかった?」

「わかる。わかった。僕はさんすう苦手だけど、わかった」

 母親に何とか笑ってもらおうと、章はわかりもしないのに母親の喜びそうな答えを懸命に探していた。

 それがかえって母親を激怒させる事に気付くまで、何度か頬に焼けるような痛みを章は味わわなければならなかった。


 それでも9歳になった章は、何とか小学校の特殊学級でやっていけるくらいにはなっていた。

 たどたどしい言葉だったが、意思の疎通に支障をきたさない程度には話すこともできる。



「お母さんはどこにいったの」

 去年の冬、身近に存在しなくなった母親にやっと気づいた章に質問された。

 お母さんは死んだんだ。病気でね。もう会えないんだよ。

 そういう私に小首をかしげて章がいう。


「でもまた会えるよね。いつも居なくなってもまた出てきたから」

 妻は章の教育に疲れると、しばらく実家に帰ることがあった。

 そこで一週間ほど気分を静めて戻ってきたりしていた。

 章は今度もそうだと思っていたのだ。私はあえて章に死を理解させることはしなかった。

 そうしないといけないという理由を思いつかなかったからだ。

 いずれ、自分がいつまで待っても母親が現れないとわかったとき、章は嫌でも理解するだろう。

 二度と会えないという意味を。

 

 そして、しばらくして章は言った。

「お母さんは僕を嫌っているのかな」

「だから帰ってこないのかな」

 今度こそ章に死の意味を教えないといけない。

 私は覚悟を決めて章に言った。

 死んだ人は生き返らない。ずっと、ずっと死んだままなんだよと。


 章はやっと言葉の意味を理解したのか、涙を流し始めた。

 しかし、しばらくして、少し笑った。

 何が嬉しいんだいという私の問いかけに、

「怒る人が一人減った」と答えた章を私はちょっと憎らしく思った。

 でもそのあと、章は悲しそうにこう言った。

「僕が馬鹿だからお母さんは死んだ」



 夏休みに入って最初の日曜日だった。

 家の近くの海水浴場。その端の岩場にはさまれた狭い砂浜に、持ってきたパラソルを立てて日陰を作る。

 そしてその下にプラスティックの椅子を設置した。

 一学期をがんばったご褒美だといって章を海に連れてきた。

 

 クーラーボックスを開いて、ビールを取り出した。

 まだ朝の9時を回ったくらいだから、日曜日とはいえ他に海水浴に来てる家族はいなかった。

 章は早く海に入りたくてうずうずしている。

 まだ駄目だ。ちゃんと準備運動をするんだ。

 私の言葉に、知的障害のある子供特有の何の屈託もない素直な笑顔で章は、はいっと大声で答えた。

 浮き輪に空気をたっぷり入れて、章に渡す。

 章は浮き輪無しではまったく泳げない。

 もしこの浮き輪に穴があいていて、足のつかないところに章が流されていったとしたら、章は万に一つも助かる可能性は無いだろう。

 

 準備運動がすむと、私からもらった浮き輪を持って章は誰もいない海に向かって走っていった。

 すでに熱くやけた砂の上を、ひいひい言いながら大急ぎで波打ち際まで走っていく。

 そんな章を目で追いながら私は缶ビールの栓を開けた。

 かすんだような青空は青というより灰色に見える。

 波も静かで、風もほとんど無い、海水浴にはうってつけの一日だ。

 後一時間もすれば、あまり知られていないこの場所にも家族連れや高校生のグループがやってくるだろう。

 

 黄色い色が目に入ったので見てみると、波に打ち上げられたペットボトルだった。

 長い時間強烈な紫外線を浴びていたのだろう、プラスティックのボトルは拾い上げてちょっと力を入れるとすぐに割れてばらばらになってしまった。

 金属の缶はさびて、やがては土に還るし、プラスティックだってぼろぼろになって土になってしまう。

 どんなものでもほおって置くと、ばらばらに壊れてしまい最後には何も残らない。

 物質でも、そうじゃないものでも……。


 環境破壊だ、ごみを捨てるな、なんて言っても一万年後に人間が生きていた証を見つけることはむしろ難しいんじゃないだろうか。

 本当に人間に環境破壊なんて出来るんだろうか。

 せいぜい人間に出来る事は生物の種を絶やすくらいのものだ。

 自然破壊だ、環境破壊だなんておこがましい気がする。

 

 ふと見ると章の姿が見えなくなっていた。さっきまでは波打ち際で遊んでいたのに、沖の方に泳いでいったのだろうか。両手で日差しをさえぎるようにして沖の方に目を凝らした。

 キャラクターアニメの絵のついたカラフルな浮き輪は見えない。

 私は立ち上がると熱い砂の上を走った。

 もしかして、と鼓動が早くなった。

 しかしあれからまだそんなに時間はたっていない。

 泳いでいくにしても流されるにしてもそんなに遠くまでいけるはずはないのだ。

 岩場の影に浮いている章を見つけた。

 章も私を見つけて、両手でこいでこちらに近づいてきた。


 もう上がっておいで。ジュースを飲もう、私がそういうと、章は顔をくしゃくしゃにして喜び、はしゃぎながら海から這い上がってきた。


「おとうさんジュースおいしいね。おとうさんのジュースは何ジュース?」

 自分のオレンジジュースを飲みながら、私のノンアルコールビールが自分のと違う事に気付いた章が首をかしげながら聞いてきた。

 身体は9歳という年相応に成長しているが、知能のほうは幼稚園児並だ。

 医者の説明では知能はこれ以上成長しない可能性が高いという事だった。

 お父さんのはジュースじゃなくてビールだよ、私がそういうと、章はビールという言葉を必死に思い出そうと眉毛を寄せた。

 そして思い出したようだ。

 以前夕食の時、私がおいしそうに飲むのを見て、自分もと欲しがった時の事を……。

 妻が生きていたら止められていただろうが、私は面白半分に一口だけだといって章に飲ませてみたのだった。


「苦い苦いあのビール」

 章は飲んだビールを吐き出すまねをして、つばを飛ばした。

 こら、止めなさいと私が注意するまで何度も何度も章はつばを飛ばした。

 

 さっき章が見えなくなったとき、私は章が死んだ時の事を想像していた。

 悲しみは大きいだろう。妻と二人でがんばり、ここ数年は一人で章のためにがんばってきたのだから。

 だけど、悲しみだけではない。そこには少なくない喜びが見え隠れしていた。

 章がいなくなれば、肩の荷が下ろされて、私は随分楽になるだろう。

 再婚するのに障害もなくなり、きれいな嫁さんでももらって今度は心も身体も健康な子供をたくさん産み、育てることが可能になる。

 その喜びはエゴに満ちた感情であり、心の奥深くに葬るべきものだったが厳然と存在する事はどうしようもない事実だ。

 生物学的に考えても、それは正しい感情のはずだった。

 健康な子孫をたくさん残したいと思うのは生物として当然の思いだから。


「また泳いでくるね」

 黙っている私の膝をとんとんと叩いて、章が声を張り上げた。

 大きな声じゃないと聞こえない時もあれば、小さなささやき声で事足りる時があるというのがまだ理解できていないのだ。章は時折意味もなく大声を出していた。

 砂浜から沖の方まで一列に並んだ岩が突出している。私はそこを指差して、あの岩を回ってきてごらんと言った。


「怖いよ」

 章は泣きそうな顔をした。

 私は少しきつく言った。

 章なら出来るはずだ。あそこを回ってきたら、ご褒美を買ってやるぞ。前に欲しがってたミニカーを買ってやるぞ。ミニカーという言葉で章は俄然やる気を出した。

 ミニカーミニカーと叫びながら、砂浜を走って行った。

 波は静かだし潮の流れもほとんどない場所だ。危険はないはずだった。


 海に入った章の身体が浮き輪を押し沈めている。

 その浮き輪はさっきより空気が抜けているように見えた。

 もしかして岩に擦れて穴が開いたのではないか。

 胃のあたりをえぐるような嫌やな思いが湧きあがる。

 このまま黙って見てればいい、と。


 あの岩場は岸から30メートルくらい。あそこを回ってくるのに章なら10分はかかるだろう。

 浮き輪の穴が大きな物だったら、章はもう戻ってこれない。

 小さな穴だったら、何とかたどり着けるだろう。

 穴が大きいか、小さいか。私が開けた訳じゃない。すべては神の御心のままというわけだ。

 仮に穴が大きかったとしても、近くに岩場があるのだから、そこに掴まれば助かる見込みもある。

 必ず溺れると決まったわけじゃない。

 章の身体とカラフルな浮き輪はすぐに岩に隠れて見えなくなった。


 このまま待っていればいい。章はきっと戻ってくる。

 戻ってこなかった時は、神様が私に新しい人生を歩めといってくれた時だ。

 その時は悲しみを乗り越えて、やり直す事にしよう。

 自分勝手で自己欺瞞に汚れた思いを神の御心だなどとごまかす自分には吐き気がするが、そうでもしないとやりきれない。

 自分の気持ちに正面から向き合う勇気はなかった。

 

 出来るだけ時間を気にしないようにしていたが、我慢できなくなって腕時計を見てみた。

 章が見えなくなってからすでに15分が過ぎていた。

 やはり、あの穴は大きかったのだろう。空気が抜けて、章はいま水の中でもがき、暴れている最中かもしれない。

 私の肩の荷が下ろされようとしている。

 人生をやり直せとの神の意志なのだ。

 私は助けに向かいたい気持ちを必死で押さえ込んだ。

 あと10分待っていればいい。

 そうしたら助けにいこう。手遅れの可能性が高いが、運がよければ―章の運がよければ岩にでもつかまってまだ章は生きているはずだ。

 あとほんの10分だ。


「一足す一は楽しいね」

 章の言葉が記憶の中から不意に浮かび上がってきた。

 算数を教えていた時の事だった。

 何のことかわからずに聞くわたしに、

「一足す一はニイー」

 章はそう言いながら、にいっと笑って見せた。

 一足す一と言う言葉に合わせて、自分と私を指差して見せた。

 章のその笑顔はかけがえのないものだった。

 章はいつも笑っていた。

 私のことを信じて笑っていたのだ。

 おとうさんは自分を絶対愛していると信じて……。


 私の足は意思に反して駆け出していた。

 章は誰のためでもない。私のために生きていてくれたのだ。

 つらい教育に耐えて、いつも笑って見せていた。

 馬鹿みたいだから笑うなといわれても、気にせず笑っていた。

 そんな章が自分の前から消えてしまうことに、私はやはり絶えられない。

 頭の中で行くなと命令する別の自分がいるが、私はその声を力ずくでねじ伏せ、引き裂いた。

 思えばずっと私は二つに分裂していた気がする。

 章を愛する自分と、章を邪魔に思う自分と。

 頭の中の合理的な、自己中心的な思考と、肉体に密着した感傷的な感情。

 自分の本当の声すら失っていたかもしれない。


 とがっている部分で足の裏を傷つけるのもおかまいなしで、波に浸食された岩場によじ登った。

 所々途切れている岩場を飛び越えたりしながら一番先まで急いだ。

 章がまだ浮いてますように。

 浮き輪の空気がまだ抜けきっていませんように。

 浮き輪に開いた穴が小さな物でありますように。

 岬のように張り出した岩場の先端に立って章を探す。


 見当たらない。私の立っている岩を左側から右側に回るようにして進んだはずだ から、気づかずに通り過ぎてなければ、この近くに浮いているはずなのに。

 やはりもう沈んでいるのだろうか。それともどこかの岩にしがみついてるのか……。

 透明度は高いが、太陽が反射して水中がよく見えない。周囲の岩にも章の影は見当たらなかった。


 膝の力が抜けてきた。章はやはり沈んだんだ。立っていられない。

 私は岩の上にへたり込んだ。第二の人生設計なんてどうでもいい。

 目の前には太陽を反射した海がどこまでも続いているというのに、私は暗黒の洞窟に向き合ってるような気がしていた。



「おとうさん」

 章の声がした。思わず立ち上がり周囲を見回す。

 岩場の先端から少し沖に行ったあたりに章は浮いていた。進路からずいぶん反対側に流されている。

 引き潮に変わる時間だから潮の流れがやや早くなってきてるのかもしれない。

 浮き輪の空気はまだ残っているが、かなり抜けてしまっていて、抵抗になって進みにくくなっているようだ。

 浮力が小さくなって沈みそうになってるのをわかってるのか、心配そうな顔で必死にこいでいた。


「がんばれ!今行くぞ」

 私は心の底から大声で叫ぶと、海に向かって思い切り岩を蹴った。


 章との距離は、その時約30メートルだった。



 浮き輪にあいた小さな穴     おわり

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