4ー4 秘密の話とクロノワール
暖色系の優しい光を放つ、傘型のペンダントライト。剥き出しの梁、ボックス席の仕切りの木目、内壁を飾るレンガ。
レトロな雰囲気の店内は、名古屋市内のそこかしこにある同じチェーンの他店舗とほとんど差異がない。
僕の対面で深い臙脂色のソファに腰かけた百花さんは、ほっそりした指でメニュー表の文字をなぞっていた。
「クロノワール、半分っこしよ。飲み物は何がいい? こんな時間帯だし、カツパンとか頼んでもいいよ」
「いえ、ホットコーヒーだけで大丈夫です」
確かにヨネダの食事メニューはボリュームがあるけれど、夕飯というイメージではない。
この流れでガツガツ食べるのもおかしいだろう。そもそも腹が減っているのかどうかも判然としないのだから。
百花さんは店員を呼んでクロノワールとホットコーヒー、そしてウインナーコーヒーを注文した。
「デートみたいだねぇ、うふふ」
「はぁ……」
なぜか機嫌の良い百花さんに、間の抜けた返事を返す。
いったいどういうつもりなのだろう。
愚かな子供を捕まえて、説教でも始めようというのか。
こっそり様子を窺おうとしたら、ばっちり視線が合ってしまった。目を逸らすより先に、にっこり完璧な微笑みに捕捉される。
「あたしねぇ、大きい仕事の前には必ず好きなものを食べることにしとるんだわ」
「……そうですか」
自分でも驚くほど乾いた声が出た。
既に百花さんの口から二度も聞いたことだ。向こうへ行く前に現世のものを腹に入れた方がいい、と。
その方が自分自身の肉体を意識しやすい。精神があちら側へ引っ張られても、身体との繋がりで引き留められる。
そんなことぐらい、僕にも分かっている。
しかし。
「この仕事、いつ死ぬか分からんもん。悔いのないように、ね」
「いや縁起でもないですよ」
気付いたらツッコんでいた。
「でも、精神が向こうに囚われて自分が消えてく瞬間、『最後にあれ食べときゃ良かった!』ってなったら最悪なことない?」
「確かにそうですけど」
「今日ヨネダの話題が出て、例の病院行くまでの間にクロノワール食べんかったら、確実に後悔するよ」
「なんで食べ物の走馬灯を見る前提なんですか」
どこまで本気なのか。やけに力のこもった主張がおかしくて、僕はちょっと笑ってしまった。
百花さんがふわっと頬を緩める。それは何だか「ホッとした表情」にも見えた。
途端、バツが悪くなる。不意に訪れたいくらかの沈黙に、あっさり耐え切れなくなった。
「あの……さっきはすいませんでした。急に帰ったりして」
柔らかに微笑んだ百花さんは、小さく首を振った。
「ううん、あれは皓志郎もどうかと思ったわ。あーんな芝居がかった言い方しんでもいいのにねぇ。ほんと何なんだろうね、あの胡散臭いエセ紳士キャラ」
あんまりな言い草で、つい吹き出す。
だけど、自分の動揺がやっと腑に落ちた。さっきの樹神先生は、まるで依頼人と話すような態度だったのだ。『助手』などではなく。
改めて沈みかけたところを、百花さんの声に掬われる。
「服部くん、回線閉じるの上手なったことない? さっき、えらいこんがらがった匂いだったで心配だったんだけど。ちゃんと成長しとるんだねぇ」
「いえ……」
「でも、縁のある霊と接触した後だと、何かの拍子にまた『引き込まれ』るかもしれんでね。気を付けやぁよ」
「あ……はい」
全部お見通しだった。恥ずかしいのと同時に、胸の奥がくすぐったくなる。
百花さんは、僕を心配して追いかけてきてくれたのだ。
店員が注文の品を運んでくる。飲み物を頼むと必ず付く、ピーナッツにサクサクの衣を纏わせた『豆』と呼ばれる甘じょっぱい菓子の小袋も添えて。
僕のホットコーヒーと百花さんのウインナーコーヒーの間に置かれた、存在感のある一皿。
ヨネダ名物、クロノワールだ。直径二十センチほどのデニッシュパンの上に、チョコのソフトクリームが乗った豪快なデザートである。ソフトクリームの横には赤いサクランボが一つ。
百花さんは慣れた手付きでシロップを回しかけると、半分を小皿に取り分けてくれた。
僕の方がソフトクリーム多めな上、サクランボまでこちらに来ている。
「すいません、いただきます」
手を合わせてから、フォークで一切れを刺して、齧り付く。
甘い。すごく甘い。
ソフトクリームはやや硬めで冷たく、デニッシュパンはふんわりして温かい。
「美味しいねぇ」
「そうですね」
冷たくて温かい。硬くて柔らかい。そして甘くて甘かった。もう、ここはどうしようもない。
「あー幸せ。こういう甘くっていい匂いのする美味しいものは、運気が上がる感じがするわ」
百花さんはずっとにこにこしている。改めて、可愛らしい人だと思う。きっと僕よりずっと年上だろうけれど。
急に緊張してきた。先生との食事とはだいぶ勝手が違う。無言でいるのが難しい。
そわそわした気持ちの勢いで、僕は前々から気になっていたことを口に出してみる。
「あの、百花さんの言う『匂いで分かる』って、具体的にどういうことなんですか?」
「ん? あー……何だろ、服部くんの共感応と似たようなものではあるんだけど。匂いが感情に結び付くみたいな感じ……?」
「生まれ付きのものなんですか?」
「そうねぇ、生まれ付きっていうか……何から説明したらいいんかな、うーん」
小首を捻った百花さんは、「ま、いっか」と呟いた。
軽く伏せられていた睫毛がぱちりと上がり、黒目がちの瞳がまっすぐ僕を捉える。
「あたしね、前世の記憶があるの」
「……え?」
唐突にも思える告白に、僕は二度三度瞬いた。
「『百花』ってのは本名じゃない。江戸時代の名古屋にいた私娼のことなんだよ。公的な風俗営業が認められんかった時代には、娼婦はそういう隠語で呼ばれた。あたしの前世は、そんな『百花』の一人だった。今の中川区の山王橋にあった妓楼の廃屋を塒にして、客を取っとったの」
今度こそ、相槌すら打てなかった。
八竈神社の一件の時に、彼女は自分のことを『夜の間に籠の中にいる女』だと言った。その意味を、ようやく知る。
籠。狭い部屋。そこへ男を誘い込む。
僕は思わずごくりと唾を呑んだ。
「これは、前世から引き継いだ特性だと思う。人の欲望の匂いほど強く感じるんだわ。誰が自分を買ってくれそうか、嗅ぎ分けとったんだよ」
彼女の表情にわずかばかりの陰が差す。
「未練だらけで死んでった女だった。ひどい客に当たってまってね。悪霊には成らんで済んだけど、記憶って形であたしの中に残った。何もかも昨日のことみたいに憶い出せるよ。自分が殺される瞬間のことも」
白い指が細い首筋に触れる。それがどれほど凄絶な経験なのか、想像もつかない。
いつも彼女から感じる独特の気配の原因も、前世の記憶があるせいなのだと合点がいった。
記憶とは、魂のようなものだ。
人一人分に異質な何かが上乗せされた気を、彼女は常に纏っている。
「おかげで、あっちとこっちの境界線がえらい曖昧なの。あたし、全然器用じゃないもんで、集団生活に馴染めんかった。代々の親戚を見ると、あたしみたいに前世の記憶があったり霊感の強かったりする人が時々おるみたい。皓志郎が同世代におったのは良かったけど、あの子はあの子で妙に割り切った考え方をするもんでね。羨ましかったなぁ」
「あぁ、確かに」
先生は軟派と見せかけて、かなりドライだ。時おり冷淡にも思えるほどに。
僕にもよく分かる。迷いのない人は羨ましい。
紅い唇が、フォークの先に乗ったソフトクリームをそっと食む。そこに再びふわりと淡い微笑みが戻った。
「今回の件ね、何となく他人事じゃない気がするんだよ。もちろん年代は違うけど、遊女の無念が関係しとるんだとしたらね」
「でも、『生霊』なんですよね」
「うん、そこがねぇ。調べてみんと何とも言えんよね。何にせよ、生者は現世に、亡者は幽世に、在るべき場所があるはず。引ける境界線はちゃんと引くべきなんだよ」
芯の宿った声。そこに先生と共通するものを感じた。
正体不明の脅威にも臆することなく立ち向かう、戦う理由を持つ人の靭さを。
「ねぇ、良かったら今度、あたしの仕事も手伝ってまえる? 服部くん、そんだけ強い共感応でコントロールも上手いし、使い方次第でいろんなことできるんじゃないかしらん」
「そう、ですかね。回線閉じるのはいいんですけど、結局自分の中でモヤモヤすることが多くて……」
「あー、それ分かるわぁ。しょうがないよね、知らんでもいいことまで分かってまうし。でも、受け取ったものをどう使うかは自分で決めていいんだよ。もし迷ったら、皓志郎もあたしも力になるでね」
……いや、先生は。
僕は返事の代わりに、コーヒーをブラックのまま一口飲んだ。クロノワールの甘みの反動で、ひどく苦い。
彼女はすぅっと目を細めると、秘密の話でもするように口元へ片手を添え、そっと囁いた。
「あいつには言いづらいようなことだったら、こっそりあたしに教えてくれてもいいよ」
いたずらっ子みたいな表情なのに、彼女の眼差しは優しい。
僕はまた、何と応えていいのか分からなくなった。すごい勢いで頬に上っていく熱をどうすることもできない。
自分がちっぽけで情けないのに、柔らかな毛布で包み込まれたように温かい。少しでも気を抜いたら、涙が滲んできそうなほどに。
食事を終えて別れ際、僕は思い切って彼女に訊ねた。
「あの……えぇと、何て呼んだらいいですか?」
『百花』というのが、本名でないのなら。そんな曰く付きの名前ならば。
「あたし? 今まで通りでいいよ。あたし自身の名前なんてあってないようなもんだし。どこの誰とも特定できない、『百花』って呼び名が一つあれば」
「前世の記憶、嫌じゃないんですか?」
「もう、これを引っくるめてあたしだもん。それにねぇ、嫌いになれんのだわ、この女のこと」
あたしだって似たようなとこあるしねぇ、と。百花さんは、花みたいに笑った。
その晩、僕のスマホにLIMEのメッセージが入った。
【つとむ】こんばんは、都築です。
昨秋の案件で『引き込まれ』に遭った当人、都築 務夢さんからだ。
【つとむ】今日、合格発表があって、四月からT福祉大学に通うことになりました! 将来的には、社会福祉士として児童養護施設とかで働けたらいいなと思ってます。
まさしく、目標への第一歩だ。
【つとむ】服部くんが、俺に「誰かを助ける人になれる」って言ってくれたおかげです。やりたいこと、そのために身に付けるべきことが分かりました。本当にありがとう!
今さら恥ずかしくなってくる。
実際のところ、僕は何も分かっていなかった。
あの時、先生に「若いな」と言われた。間違いなくその通りだったと思う。
芽衣さんのことを考える。
助けようとして地雷を踏んだ。それどころか、彼女だけでなく自分自身をも心身ともに危険に晒した。
返してもらったハンカチは、可愛らしいジッパーバッグから出せずにいる。
瘡蓋どころか生乾きだ。次にまた同じようなことがあっても、この惨めな傷の痛みを言い訳にして、一歩も動けないに違いない。
何をしようにも、そうしたいと願うだけではとても足りない。
ちゃんと学んで経験を積み、それを成し得るだけの力を手にして、初めてスタートラインに立てるのだ。
『真・善・美』。弓道と同じかもしれない。
僕には力が足りず、心も不安定で、己に向き合いきれない。
でも——
【服部 朔】合格おめでとうございます! 応援してます。頑張ってください。
僕は散々悩んで、それだけを務夢さんへ返信した。
胸の奥から湧き出すような羨望が、鼓動を掻き回す。
このままじゃ嫌だ。
僕も、変わりたい。




