3ー7 真犯人の尻尾
「共感覚ね、それもとびきり強力な。自分でコントロールできるなんて素敵。その能力があれば、他人の心の闇を受け取れる。欲しいわ」
ぬらりとした長い胴を持つ化け物が、芽衣さんと同じ顔を恍惚とさせながら言う。
僕はきっちり回線を閉じて、相手を睨み据えた。
「お前は何者なんだ。どうして芽衣さんを狙った?」
「この付近をウロウロしてたら、たまたま『あめふり』が聴こえたのよ。子供向けの本にも載ってる都市伝説の歌ね。興味を引いたわ。闇を抱えた、霊感持ちの子。この子自身の心境にぴったりの歌だったから、利用させてもらったのよ」
この化け物は例の都市伝説を知っていて、それに擬えて芽衣さんの負の感情を煽ったということか。
歌は呪文だ。受け手の捉えた形で意味を成す。生首の顔は、化け物が受信した芽衣さんの精神を反映していた。そして彼女の脆い部分を攻撃するように、繰り返し語りかけたのだ。
心が弱れば、それだけ強い存在の影響を受けやすくなる。
「ここの護り石の注連縄を切ったのもお前だな」
「あなたも気付いたでしょ? 御神体を害したのは、この子よ」
「お前が芽衣さんの意思を乗っ取ってやらせたんだ」
「まぁね。器に入ってないと、現世にあるものには触れないから」
「なんで、そんなひどいことを」
「答える必要ある?」
会話がぴしゃりと遮断される。そうなると、この『狭間の世界』は完全な無音だ。耳に痛いほどの静寂が焦りを呼ぶ。
化け物が、小首を傾げた。
「あれ、あなた……」
次の瞬間には、相手の顔が間近にあった。
「あの時の子ね。見つかって良かったわ」
「……え?」
「忘れちゃったの?」
「な、何のことだよ。僕はお前なんか知らんし」
鼻先が触れそうな至近距離。化け物はすぅっと目を細め、嫣然と笑う。
「まぁ、いいわ」
強い眼差しから解放されるや否や、長い胴体がぐるりと僕の身体に巻き付いた。
「うぐっ……」
骨が軋む。抜け出そうと踠いても、びくともしない。それどころかますますきつく締め上げられる。
鱗に鬣のある胴。さっき拝んだ『白龍社』に置かれていた木彫りの龍と、イメージが重なる。
「なおさらあなたが欲しくなっちゃった」
両頬に小さな手を添えられる。温度は感じない。だけど、凄まじい怖気が全身を駆け巡る。
「現世と幽世の狭間。便利ね、生身の魂に近いもの。このままいただくわよ」
赤い視界に、ノイズがチラついた。
逃げ出す暇もない。状況を一片でも理解する前に、敵の手の内に堕ちていた。
情けない。
芽衣さんは気絶したままだ。せめて彼女だけでも現世に帰すことができれば良かったのに。
酸素を求めて開けた口を、すかさず何かで塞がれた。それが喉の奥まで侵入してくる。やはり温度はなく、ただただ気持ち悪い。
何一つ抵抗できないまま、徐々に意識が遠のいていく。
もう、駄目なのか。
その時だった。
「開け」
きぃん……と耳の奥で音が鳴る。
ついに幻聴まで。最初はそう思った。
「拘束を解け」
急に締め付けが緩み、僕は地面に崩れ落ちた。
荒く肩で呼吸をする。勢い余って盛大に咽せる。涙で滲んだ目に、見慣れた革靴が映った。
「正体を現せ」
「きゃあっ!」
僕から引き離された化け物から、龍の影が浮き上がるのが見えた。
「うちの助手に巫山戯た真似をしないでいただきたいね」
底冷えする低い声。静かだけれど、確かな怒りを孕んでいる。
懐中時計型スマートウォッチを翳した長い腕。束ねた髪に、スーツ姿のすらりとした背中。
我が師匠、樹神 皓志郎先生その人だった。
「大丈夫か、服部少年」
「先生……どう、して」
「君の妹が泣きながら事務所に電話してきた。今は百花さんが一緒だから安心していい」
ホッとしすぎて全身から力が抜けた。遥南が助けを呼んでくれたのだ。
化け物は今や、小柄な人型を取っている。実体がないのか、透けていて顔立ちはよく分からない。
龍の気配は消えていた。元のお社に戻ったようだ。
「アレはお嬢さんの身体を操って御神体を害し、この神域の結界を破った。そして同じ領域内にある白龍神の力を得たというわけだ。複数の神が祀られた『場』は、こういうリスクがあるな」
「な、何のために?」
「神は人々の信仰心によって力を増す。神になり代われば、参拝者の祈りで力を得られる。中には、アレにとって旨みのある闇を抱えた者もいるだろう」
神頼みをするような人は、だいたい悩みや迷いがあるものだ。まさに入れ食い状態である。
「被害を拡大させないために百花さんが簡易結界を張っていたはずだが、アレの受容体であるお嬢さんが神域の中へ入ったことにより、結界にアレの通れる穴が開いた。想定外だったな」
先生は相手に向き直る。
「さて、お前に質問がある。ここ数ヶ月の間に、名古屋市内のいろいろな『場』が乱されている。それも全てお前の仕業か」
「あなたには関係な——」
「答えろ」
強い言葉が、頭の中に直接響くように谺する。
だが。
しばしの間の後、悪霊の口元がいやらしく歪んだ。
「嫌よ」
まさか、容喙声音が効かないのか。
「お前を野放しにしておくわけにはいかない。真名を示せ」
しかし。
「……あなたに名乗る名前なんてないわ」
人型の霊体は霧状にその形を変え、散り散りになって姿を消した。
先生が舌打ちする。
「やはり生霊とは相性が悪い」
「え? 生霊?」
「あれは亡霊じゃない。生きた人間の思念体だ。名前さえ縛れればと思ったんだが……」
生霊は現世にある自分自身の身体と引き合う。視えない糸で繋がっているのだ。
だから、先生の能力でもその行動を制御することは難しい。糸を辿って本体の方へと逃げられてしまうと、容喙声音はたちまち効力を失う。
どこからともなく声がする。
「力づくで言うこと聞かせようとするなんて、最低の男ね」
「悪いが、こういう能力なんだ」
生霊が逃げようとしている。気の流れで分かる。
先生は、スマートウォッチの蓋の紋章を相手の気配へと向けた。
「止まれ」
「うっ……」
一瞬、邪悪な気配が止まる。しかしやはり拘束しきれず、再び取り逃がしてしまう。
「あぁもう! 本当に気に入らないわ!」
空気の動きを感じた刹那、激しい突風が巻き起こった。
「くっ……!」
悍ましい気が、肌を削ぐほどの勢いで駆け抜けていく。
ぴしり。何かがひび入ったような音がした。
僕の頭の中に声が響く。
『私、あなたのこと、諦めないから』
気付けば、禍々しい気配は跡形もない。
「くそ、逃げられたな」
作り物めいた赤い景色だけが後に残った。
スマートウォッチに目をやった先生が、あ、と声を上げる。
「割れとるがや」
「え?」
見れば時計は蓋が外れて、画面に蜘蛛の巣状のひびが散っている。先生が指先でつついても、何の反応もない。
「動きます?」
「いや、壊れたな」
「どうするんですか」
「自力で戻れんくはないよ。スマホは百花さんに預けとるし。地声で上手く周波数を合わせりゃいいだけだ」
「声でもできるんですか?」
「元々俺の声音に合わせて設定した電波だでな。任せとけ。さて……」
先生は喉に手を当て、「あ、あ、あー……?」と低音の声を出している。気の振動はあるが、状況は変わらない。周波数が合うのに少し時間がかかりそうだ。
一方、倒れた芽衣さんの周りに、ぞわぞわと変な気が集まってきているのが分かった。無防備な状態でここ長く留まるのは危険だ。
「先生、せめて芽衣さんだけでもどうにかしんと」
「マジかぁ……あー、百花さんが気付いて扉作ってくれやいいんだけどな」
寄ってくる虫や動物などの霊を警戒し、僕は辺りを見回した。
ある一画から、なぜか清浄な気が流れてきている。
何があるのかと、そこへ足を向けて合点がいった。
小さな鳥居をくぐった先に、四つ並んだ屋根神さま。
僕がお賽銭を入れて拝み、そして走りざまに助けを求めた。
危なかったけれど、どうにか助かった。神さまが見守ってくれていたのかもしれない。
僕は小さなお社の前に立ち、ぱんぱんと二度、手を打った。
何か考えがあったわけじゃない。いつものように、条件反射的にそうしただけだ。どんな時でも神さまは拝むべきものだから。
すると次の瞬間、信じられないことが起きた。
屋根神さまの放つ護りの気が大きく膨れ上がり、辺り一面に拡がって——
「あ……」
空の天辺から、赤色のフィルターが剥がれ始めた。
『狭間の世界』から現世へ。景色が移り変わっていくさまを、僕は他人事みたいに眺めていた。




