3ー5 荒らされた神域
僕たちが境内に一歩を踏み入れた瞬間、耳元で何かがぱちんと弾けたような音がした。
途端、ざぁっと突風が駆け抜けていく。肌に感じるピリつきがにわかにひどくなる。まるで砂嵐を浴びているみたいだ。
「わっ……」
芽衣さんが身をすくませた。彼女にも分かったのだろう。
だけど、それもほんの束の間のことで、すぐに収まった。相変わらず妙な空気感ではあるけれど。いったい何だったのだろうか。
「どうしたの? 行くよ」
何も感じなかったらしい遥南は、平然と進んでいく。
人気は全くない。時間帯や天気の悪さとも相まって、辺りはえらく暗かった。
見える範囲だけでも石灯籠や狛犬がいくつも置かれており、雑然として不気味な雰囲気だ。
僕たちは細々と水を吐き出す手水舎で手を清めた。
遥南がきょろきょろと見回しながら言う。
「ここ、こんなふうになっとったんだね。初めて入った。中にも鳥居があるんだ」
境内には、小ぶりな石造りの鳥居が複数あった。その一つをくぐれば、小さな社が四つも並んでいる。道端のお地蔵さまの社くらいの大きさのものだ。
手前の看板にある説明書きを見て、僕は少し驚いた。
「あぁ、これ、屋根神さまなんだ」
「屋根神?」
「古い家の庇屋根の上とかに祀られた祠のことだよ。熱田神宮や津島神宮、秋葉神社なんかを氏神として祀って、地域のお祭りをやっとったらしい。今はもうあんまりないみたいだけど」
「へぇ、初めて聞きました」
なお、屋根神さまは愛知や岐阜にしかないものだそうだ。以前、樹神先生に教わった。
「屋根の上の神さまが、なんでこんなとこに?」
「古い家を壊す時とかに神さまだけ外して、ここに移設したんかな。大事にされとったんだろうね」
その証拠に、この社からはわずかではあるがそれなりの護りの力を感じる。
僕はリュックから財布を取り出し、それぞれの前にあった小さな賽銭箱へ十円玉を一枚ずつ入れて、軽く合掌した。
「お兄ちゃん、律儀だね」
「あぁ、うん、癖みたいなものかな」
樹神探偵事務所でバイトするようになってからというもの、僕の小銭入れには常に十円玉が何枚もストックされている。いつ賽銭箱を見つけてもいいように。
地域の人々が大切にしているものなら、なおさら敬意を払いたい。
「あ、こっちにも参道があるよ」
遥南はさっさと行ってしまう。置いていかれた僕と芽衣さんは、思わず顔を見合わせて小さく笑みを交わした。
踵を返して進む先には、更なる鳥居。
敷地内には、何ヶ所かに分かれて小さな社が配置されているようだ。都度看板が立っていて、祀られているものの由来などが記されている。
社の一つに、『白龍社』と文字の入った幟で囲われたものがあった。中には小ぶりな木彫りの龍が置かれていた。
「白龍もおるの? いろいろありすぎじゃない?」
「八百万の神って言うけど、ここまで来るとさすがに雑居感あるね」
境内の中ほどに、立派な石板に彫られた神社の由緒書きを見つけた。
それによれば、ここの御神体は心霊の宿った大石らしい。だから『石神神社』か。
遥南が「あっ」と声を上げる。
「思い出した。この辺って昔っから、いつか東海大地震が起きるって言われとるけど、未だに起きとらんでしょ。ここに鎮め石の御神体があるで、土地が護られとるってことらしいよ」
「あぁ、割と全国各地にあるみたいだね、そういう鎮め石」
「日本神話が由来なんだって」
芽衣さんが目をぱちくりさせた。
「遥南、よくそんなこと知っとるね」
「織田じいが言っとったよ。日本史の授業中に」
「そうだっけ?」
「うん。まぁ、聞いとった人も少なかったかも……」
「遥南、いっつもよく起きとれるねぇ。あたし、すぐ授業中ぼうっとしてまう」
「ん……ほら、私なんか、真面目だけが取り柄みたいなもんだし……」
珍しく、遥南の歯切れが悪い。
芽衣さんがのんびりした口調で言った。
「でも、ちゃんと授業聞いとくと、そういう面白いことも知れるんだね。あたしもたまには頑張って先生の話聞いてみよっかな」
「えっ……」
遥南が少し目を見開く。そして、くすぐったさを堪えるような顔をしたかと思うと、「行こっ!」と出し抜けに再び駆け出した。
何となく腑に落ちた。元気でまっすぐな遥南と、おっとりふんわりした芽衣さん。それでバランスが取れているのだ。
僕は芽衣さんと一緒に遥南の後を追う。
「本殿とか拝殿とか、どっかにあるんかな」
社務所らしき建物も見つけた。中は真っ暗だ。窓口のガラス引き戸の向こうに御朱印が置かれている。
管理はなされているようだけど、今は無人らしい。近所から人が来ているのかもしれない。
「拝殿、っていうの? あれかな?」
フットワーク軽くどんどん進む遥南が指をさした先に、小ぢんまりした拝殿があった。
そこへ近づくにつれ、異様な気配が色濃くなる。
「わっ、この辺すごい……」
「芽衣さん、無理しんでいいよ。僕が見てくるで、待っとって」
足を止めた芽衣さんにそう声をかけ、僕は遥南に続いた。
拝殿でも、賽銭箱へ十円玉を放る。
「お賽銭もスマホ決済できればいいのにな」
遥南が変なことを言いながら、僕に続いて十円玉を投入した。
互いにそれとなく譲り合って順にガラガラを鳴らし、ぱんぱんと手を叩く。
僕には大して願かけすることもないので、数秒だけ合掌してすぐに目を開ける。
神さまがいるから拝む。ただそれだけだ。
隣の遥南は、何やら熱心に手を合わせていた。たっぷり三十秒はその姿勢を取り続け、やがて意を決したように瞼を上げて息をついた。
「遥南、えらい長いお願いだったね」
「んー……まぁね」
遥南は僕に横顔を向けたまま、ぽつりと言う。
「ねぇ、お兄ちゃん。叔父さんち、楽しい?」
「え? すごい良くしてもらっとるよ。どうしたの、急に」
「いや、ちょっとね……何でもない」
そして口角だけを上げると、くるりと踵を返した。
追及するほどでもないけれど、そういう態度は意外だった。遥南は悩みも迷いもなく生きていると思っていたから。
芽衣さんのところへ戻っていく妹の背中を横目に、僕は正面へと向き直った。
妙な気配は拝殿の後方から来る。つまり本殿に何かあるのだろう。
砂利の地面を、ざりざりと踏んでいく。
更なる鳥居をくぐった先に本殿がある。御神体の護り石が祀られているはずだけれど、この異様な気はどうしたことか。
一歩一歩と刻む足が、だんだん重くなってくる。空気自体が澱んでいるとも感じられる。泥の沼を漕ぐように、僕は身体ごと押し進む。
「え……?」
最初は、目を疑った。
それがどういう状態なのかも、即座に判別できなかったぐらいだ。
あり得ない、と思った。
小さな神社とはいえ、仮にも神さまのいる場所なのに。
やや高床になった本殿の、御神体を隠す古い木の戸板が、見るも無惨に叩き壊されていた。
冷たい風が吹き抜け、葉のない枝が寒々しくざわめく。鳥たちが一斉に飛び立つと、たちまちしんと静まり返る。ただ、僕の心臓が激しく鳴る音だけを残して。
背筋を怖気が駆け上がる。分厚く着込んだはずなのに、肌が粟立つ。自然、呼吸は浅く短くなる。
もしや、百花さんが調べている件とは、これのことなのでは。
申し訳程度に仮補修された戸板の隙間から、こわごわ中を覗き込む。
そうして見えた——いや、視えたものに、僕は目を瞠った。
本堂の中央に鎮座する護り石。
大人が両腕で輪を作ったほどの大きさの。
そこに巻かれていたはずの注連縄は、切れて床に落ちていて。
その石の上には、人影があった。
やや小柄。実体じゃない。透けて向こうが見えている。女の子のようだけど、服装までは分からない。
それが、僕の方へ首を巡らせて——
一瞬のうちに、掻き消えた。
「えっ?」
辺りを見回しても、どこにもいない。
ワンテンポ遅れて、拝殿の方から悲鳴が聴こえてきた。
「いやぁぁぁぁ!」
芽衣さんの声だ。
僕は慌てて駆け出す。鳥居をくぐり抜けると、両耳を塞いで蹲る彼女が見えた。
「来ないで!」
「芽衣? どうしたの? 大丈夫?」
「うるさい! あっち行って!」
友達から投げかけられた強い言葉に、遥南はびくりとして後退る。
妙な気配が、今度は芽衣さんの周りに蔓延っている。これはまずい。
御神体の力を何者かに乗っ取られたのだとしたら、この神社の領域そのものも危ういだろう。
僕は彼女の正面に回り込み、しゃがんで目線の高さを合わせた。
「芽衣さん、しっかりして! 大丈夫だ、僕もここにいる」
芽衣さんの瞳の焦点が僕に結ばれる。
「あ……は、朔、さん」
「ゆっくり呼吸して。大丈夫だから」
吸って、吐いて。それで少し正気を取り戻したようだった。おかしな気配がわずかに彼女から浮いた。
「今すぐここを出よう。離れた方がいい」
「はい……」
「お兄ちゃん、何かヤバいの?」
「たぶん、悪いものが芽衣さんに干渉しとる」
「えっ、じゃあ、早く行こ」
芽衣さんを立ち上がらせ、出口へと向かう。
先頭を走るのはやはり遥南だ。間に芽衣さんを挟んで、僕が最後。
背中の皮膚がびりびりする。追ってきている。
石灯籠、狛犬、立て看板。不規則に置かれたそれらを、くねくね避けてひた走る。障害物の多い境内が恨めしい。
横目に過ぎる屋根神さまの社へ、半ば無意識に刹那の祈りを送る。
神さま! 神さま! どうか……!
鳥居が見えた。神域の外へと繋がる門だ。最初に遥南がそこから飛び出す。
続く芽衣さんが鳥居をくぐろうとした時。
辺り一面の視界が、強烈な光に灼かれた。
「わっ!」
芽衣さんが声を上げた。
僕は咄嗟に固く目を瞑る。
うるさいほど鳴り響く心音を短い呼吸で散らしつつ、ゆっくりと瞼を開ければ。
「えっ……?」
「嘘、だろ……」
鳥居も、木々も、参道も。
何もかもが真っ赤に染め抜かれていた。
当然、まだ夕暮れには早い空さえも。
「なっ、何ですか、これ」
「これは……『狭間の世界』だ」
遥南の姿が見当たらない。
僕と芽衣さんの二人だけが、赤い世界に迷い込んでいた。




