2ー7 幸せな記憶
はじまりは、とくんとくんとやさしい音。
あったかいものに包まれて、ずっとふわふわ夢をみてた。
——かーごめ、かごめ。
お外から、なにかきこえる。
ぼろぼろになった戸のすきまから、そぉっとのぞいてみる。
××よりちょっと大きい子たちがいっぱいいた。
おててをつないで輪になって、ぐるぐるぐるぐる。
なにしてるのかなぁ。
おうちのなかに、おかあがいる。
ながい髪を、くしでといてる。なんどもなんども、なんどでも。
「今日はあの人みえるかもしれんで、綺麗にしとかなかん」
なぁに?
「おかあ……」
おひざにのろうとしたら、どん!とつきとばされた。
「触らんといて、汚い」
びっくりした。
おなかすいたよぅ。
おかあは、たべるものをくれる。
おひざにのせてくれることもある。
そんなとき、おなかがふわふわあったかくなった。
——かーごのなーかの とーりーはー、いーつーいーつー でーやーるー。
ある日、お外に出た。おかあが、おててをつないでくれた。
「お祭りがあるよ」
おかあは、きれいなお服。
××も、きれいなお服。
「大きなったあんた見たら、あの人、喜ぶかもしれんで」
いっぱいおとながいた。
そのすきまから、あかい大きなものがぞろぞろ通っていくのがみえた。
いろんなものが、きらきら光ってた。どきどきした。みあげると、おかあがいた。つないだおててがあったかい。
おかあが、あっ!と声をあげた。
だけど、それっきり。
また××のおててをひっぱって、おうちにかえった。
「あたしのこと、気付きもしぃせんのね」
きれいなお服も、それっきりだった。
——よーあーけーのーばーんにー、つーるとかーめがすーべったー。
ある夜、ガタガタいう音で目がさめた。
おかあがいない。
どこ? どこ?
戸が、ちょっとだけあいてた。だから××は、お外に出てみた。
まっくらだった。だけど、あかるく光るまぁるいものが、たかいところにあった。
いた。ながい髪のおかあが、ちいさくみえる。
まって。まって。
足がいたい。
まって。まって。
さかみち。
とがったものが、うでや足をがりがりひっかいて、すごくいたい。
まって。まって。
やっと、おいついた。
おかあは、ぼうっと立っていた。
ざわざわ音がする。ながい髪が、びゅうっとゆれた。
「おかあ!」
××がよぶと、おかあがびっくりして、ふりかえろうとした。
だけど、がくんとたおれて、いなくなった。
どこ? どこ?
「おかあ!」
いた。
下に、下に、おちていく。
××はおててをのばした。まって。まって。
とどかない。ちいさくなる。
とちゅう、おかあのからだがなにかに当たって、ぽんと跳ねた。
ながい髪が、ぱぁっとひろがる。しろいおかおが、こっちをむいた。
——後ろの正面、だーあれ。
大きくひらいた目が、やっと××をみて——
「服部 朔、目を覚ませ!」
気付けば、僕は地面に倒れていた。月明かりの夜の風景から一転、赤く染まった視界に目が眩む。
上から樹神先生の呆れた声が降ってくる。
「しょうがないやつだな、君は」
「すいません……」
「服部くんのせいばっかじゃないでしょ。あたしの香の影響もあったし」
百花さんは煙管を燻らせている。
亡霊は、再び白い煙を纏っていた。
「もっかい捕縛しといたよ。服部くんが女の人じゃないって言ったもんで。ねぇ、分かったらでいいで教えて。あれは、誰?」
僕は未だ鈍痛の響く頭をなんとか持ち上げ、身を起こす。
「あれは、小さな子供です。たぶん、秘女ヶ坂の怪談の元になった女の人の、子供。性別も分かりませんでした。それに名前も」
「あぁ、なるほど。それで俺の声音が逆効果だったわけか」
幼すぎて、自己の認識がひどくあやふやだった。だから、先生に「真名を示せ」と言われても上手くできなかったのだ。
先生の容喙声音で相手の行動を完全にコントロールするには、名前で縛る必要がある。今回は、それができないということだ。
僕はさっき見たものを掻い摘んで説明した。
「……あの子は、自分の母親が崖から転落死するところを見てまったんです。きっと死が何なのかも分かっとらんかったぐらいなのに、あのシーンが脳裏に焼き付いてる」
籠の中の鳥。
死どころか、生きることすら理解していなかった。何も知らないまま、母親とたった二人の昏い世界に鎖されていた。
先生が、ふむ、と顎の辺りに手をやる。
「幼いころに見たショッキングな光景は、意味が分からずとも記憶にくっきり残ることがある。母親が転落した出来事を境に、独りきりになった。だから、その光景を再現しようとした」
「そんな、どうして」
「子供が母親を求めるのは自然なことだろ」
咄嗟に返答できなかった。
唐突に途切れてしまった、母親のいる世界。きっと何が起きたのかも分からなかっただろう。
だから、母親に似た背格好の女性を求めた。
「正直、ひどい母親でした。自分を捨てた男に執着して、子供を蔑ろにした。でもあの子の中じゃ、嬉しいとか好きとか、そっちの感情の方がずっと強かったんです」
胸の奥に、温かさばかりが残っている。そのせいで、同じところが躪られるように痛い。
その痛みは、忘れたつもりの傷のすぐ近くにあった。
「なるほどねぇ、だいたい分かったわ」
百花さんは、白い煙の塊の前で目線の高さを合わせるようにしゃがむと、柔らかい声で話しかけた。
「お母さん、探しとったの?」
返答はない。百花さんは構わず続ける。
「あんたのお母さんは、ここにはおらんよ」
どんなトーンで言ったとしても、幼い子供にしてみたら残酷な事実だろう。
でも、そう告げる他ないのだ。
煙がそわそわと薄れ始めた。
途端に『念』の圧が膨れ上がり、そして。
——後ろの正面、だーあれ。
今度は、僕にも聴こえた。
瞬間的にフラッシュバックする。崖から落ちていく、あの子の母親の姿が。
「……あたしに訊いとんのね」
空気が緊迫している。
今のターゲットは、百花さんなのだ。
全身が竦むほどの怖気を、僕は受信した。恐らく、百花さんが受けている精神干渉の。
見れば、紅い唇に触れる細い指先が震えている。回線を閉じていてもこれだけ波及してくるのだから、百花さん自身が感じているのはこの程度じゃ済まないはずだ。
後ろの正面は、誰なのか。
ここでの返答次第では、幽世へ引き摺り込まれるかもしれない。それだけあちらに近い場所だ。
先生が懐中時計型スマートウォッチを握り直して、小さく注意を促す。
「百花さん」
「ん、大丈夫、ちょっと待って……」
消え入ったその語尾に、荒い吐息が混じっていた。
「服部少年、少し不味い。これ以上に『念』の影響が大きくなったら、百花さんを強制退避させる」
「はい、でも……」
心臓がばくばく鳴っている。
僕が思い付いた答えは、たぶん合っていると思う。
「服部くん、答え、分かったの?」
「あ、あの……でも」
正解してしまったら、百花さんはどうなるのか。
僕のせいで、百花さんに何かあったら。
百花さんはずいぶん蒼ざめた顔で、しかし見透かしたように笑う。
「大丈夫、教えて。多少ヤバなっても、あんたの先生がおるから」
先生を見やれば、いつものように片側の口の端が上がる。
「他でもない百花さんに頼られちゃ、駄目とは言えないな」
気障な口調に背中を押される。二人の視線がこちらに向いて、僕はとうとう観念した。
「その問いの答えは、たぶん……」
僕がそれを伝えると、百花さんはわずかに息を呑んで、瞳を揺らした。
「そういうこと、ね……」
そして、子供の亡霊に向き直る。
——後ろの正面、だーあれ。
「当てたげるよ。後ろの正面におるのは……」
きっとこの子は、何度も何度も同じ記憶を再生していたのだろう。自分の母親が落ちていく光景を。
痩せた身体が途中で跳ねて、白い顔がこちらを向いて。
この子の母親が、最期に見たのは。あの時、後ろにいたのは。
百花さんは、小さな頭にそっと手を乗せた。
「あんた、でしょ」
感情が、揺れた。吹き抜ける風のようなそれを、僕は受け止める。
人型を形作っていた煙が、一瞬のうちに晴れた。
姿を現したのは、粗末な着物を纏った三歳くらいの幼い子供。頬が薄汚れていて、やはり性別は分からない。見開いた大きな丸い目だけが、きらりと光っていた。
「お母さんと、一緒にいたかったんでしょ。だから最後の最後まで、頑張って追っかけた」
例え狂気にかられて死に引っ張られていても、自分を見つけてほしかった。
触れたかった。必死に手を伸ばしても届かなかった。
本当は、いつでも正面にいてほしかった。
ただ、愛してほしかった。
百花さんのしなやかな両腕が、子供をふんわりと抱き締める。
「よしよし、怖かったでしょ。強い子だね。えらかったねぇ」
こちらに背を向けた彼女の表情は分からない。
だけど、長い髪を流した後ろ姿は、先ほど幻影で見たあの母親に似ていた。
「こんな良い子には、おまじないをかけたげるわ」
懐の物入れを取り出し、再び粉を煙管の火皿へ落とす。
「来世こそ、優しいお母さんに会えますように」
慈愛に満ちた声でそう告げた唇が、新しい煙を小さな身体へと注ぐ。
「おかあ……」
子供が小さく呟く。
自分の身体が軽くなった気がした。あの子の発する『念』の質が変わったのだ。
「さぁ、もう行きゃあよ。きっとこの先、たっくさん楽しいことがあるわ」
もう一度、百花さんが煙を吹きかけると、子供は嬉しそうにくしゃりと笑った。
その姿が、だんだんと薄れていく。
「おかあ!」
最後に無邪気な可愛らしい声を残して、子供は完全に消えてしまった。
同時に。
百花さんは、とうとうその場で気を失った。