序1
地下迷宮。
ある日、なんの前兆もなく、各地の人里離れた秘境に出現した巨大地下空間。
人類への挑戦状である。
“迷宮”の名の通り、入り組んだ幾つもの階層が地上の如何なる高層建築物よりも深く重なって形成された巨大空間であり、その果ては未だに誰の目にも晒されていないままだ。
既に踏破されているだけでも30階層もの深さがあり、それ以降の記録が未だに更新され続けている。
ただ、間違いなくまだ先に、まだ深く続いていることだけは分かっている。
この空間が物理的にどこまで続いているのかという不思議は勿論あるが、それ以上に人々の頭を悩ませてやまない不思議が存在している。
例えば、普通の洞窟というのは、地下深くに行くにつれて光が届かなくなり、空気が薄くなっていくものである。当然ながらそこに住まう生物は限られているし、なんなら毒ガスが充満しているなど、普通の生物が住まうことの出来ない環境が形成されていることすらある。
しかしながら、この地下迷宮空間に限っては、そういった常識が通用しないのである。
まず、ほぼ地上と隔絶されていると言ってもいいほど深い階層に来ても、必ず何らかの光源が存在している。それは、場合によっては植物や虫などの発光生物であり、場合によっては何者かによって配置されたと思しき燃料ランタンなど、さまざまである。
光源の種類はどうやら各階層の環境によって決定されているようである。
例えば、肥沃な土壌に恵まれた階層であれば発光生物が光源となる。
岩がごろつくやせた階層であれば、発光鉱石やランタンなどの光源がある。
階層全体が水没している場所もあるが、そういった場合は発光能力を持ったプランクトンが張り付いた岩壁が輝いている。
例外的に、それこそ通常の洞窟深部のような真っ暗闇の階層も存在しているのだが、それを除けばどの階層にも基本的に何らかの明かりがある。
酸素を消費して燃焼するランタンが配置されているという時点でお気づきかもしれないが、基本的に空間のある階層であれば、好気呼吸をするに十分な酸素が存在しているのである。酸素源は植物や藻類プランクトンなどが光源の光を利用して行う光合成のようだ。
それだけではない。
酸素を生み出す者が存在しているのなら、(植物自身の酸素利用以外にも)酸素を消費して呼吸する者もまた存在しているのだ。
そう、どれだけ深い階層まで下りたとしても、必ず『原生生物』が生息しているのである。
それも、僅かに菌類が土中で息を潜めているというような生易しいものではない。
陸には哺乳類や爬虫類、昆虫類などが遊び、水中には魚類や両生類が揺蕩う。空、というべきではないのかもしれないが、空中には鳥などすら舞っている始末である。
これらの生物が、限られた空間リソースの中で、極めて絶妙な捕食・被食関係のバランスを成立させており、まるで地上のようなバイオームを作り出しているのだ。
不思議なことに、そこで生態系を育んでいる動植物の中には、現時点で地上や水中で観測されている者の姿が殆どない。一部の菌類を除けばそのほぼ全てが新種の生物なのだ。
また、面白い事に、人間たちが初めて迷宮に足を踏み入れて以降、地上生物の一部が迷宮内で観測されるようになったと言われている。
すなわち、人間が迷宮内で生活をするために持ち込んだ家畜や野菜、人間や家畜にひっついたり荷物に紛れ込むなどして偶然混入した小動物や雑草の種子など、人間の手によって意図的・偶発的に持ち込まれた生物たちだ。このような外来性生物の殆どは、迷宮内の環境に順応し、やがて定着していった。
とはいえ、原生している生物たちによって既に形成されていた生態系に、持ち込まれた地上生物が割り込む形になっているわけである。
既存生態系の絶妙なバランスのお陰で緩衝作用が働き、それらが崩壊するまでには至っていないが、従来の天秤の支点が新たな支点に落ち着くまでの間は、両者が混沌じみた様相で競争しながら共存していくことになるだろう。
さて、ここまで迷宮内の環境について述べてきたわけだが、それらを総括すると、『迷宮内にはエコシステムが存在しており、それは人間含む外来生物が生存するのに十分なリソースを保っている』ということになる。言い換えれば、『迷宮には人間が数年単位で生活できる環境が整っている』ということになる。
では、実際に迷宮内で生活している人間は存在しているのだろうか?
現段階においての答えは、否、である。
『迷宮には人間が生存するのに十分なリソースが存在している。』
そのことに間違いはないのだが、人間という生き物は、ただその身のみで生きている生き物ではない。人間というのは、その弱い身体を道具や群れの形成などといった文明の力で武装することで、初めて自然と相対することができる生き物だ。
確かに迷宮には、適切な濃度勾配の大気・食料になる生物・飲用可能な淡水などの資源がある。また、階層は限られるが、熱すぎもせず寒すぎもしない、人体に悪影響のない気温が保たれた、住みやすい環境も存在している。
だが、それだけである。
例えば、住みやすい場所には先住民として大型の原生生物が既に住み着いているものである。彼らの多くは牙や爪、もしくは毒などの危険な武器を持っており、生身の人間などはライバルどころか餌にしかならない。
では、人間が彼らから場所を奪うためには何が必要か。それこそ文明の力である道具、武器を用いる必要がある。
だが、無防備に背中を晒して何のツールもなしに即席の武器を作るわけにもいくまい。文明化により分業が進んだ今の時代、1人でそれができる者も少なかろう。
武器はあくまで例えの1つでしかない。文明発達した人間の“人間生活”のためには巣となる家屋が不可欠であるし、家屋を建てるのにも道具が要る。作業の際に怪我を防いだり、体温を調節するためには衣服が要る。衣服を作るためにも道具が要る。それらの入手を迷宮内でどうするのか、が課題となるのだ。
そもそも、道具を作るためには材料が必要になる。迷宮内で材料を採取することは勿論可能だが、必ずしも求めている材料が、浅くて安全な階層に有るとも限らない。深い階層に行くための道具を作る材料のために、深い階層に潜るわけにもいかないではないか。
結局のところ、迷宮の外世界、人間の住まう地上で道具を作り、それを迷宮に持ち込む方がよほど合理的なのである。
そういうわけで、迷宮内に長期間住まう者は居ないと言って過言ではない。だが、そうは言っても、迷宮という未踏の地は人間にとって非常に魅力的なものだった。未知の動植物や、ほぼ手付かずの鉱石資源。それらを地上に持ち出した際に得られる莫大な利益と名声。
危険は伴うが、リターンがあまりにも多大であるので、人々はこぞって迷宮に潜り始めた。
時の権力者たちは、迷宮から持ち出された物資の流れで市場に混乱が発生することを予想し、迷宮に潜る者達を統制する必要に駆られた。迷宮探索者たちが莫大な利益を得れば、思わぬ権力が乱立する恐れがあり、それが国の崩壊にも繋がりかねないためである。
結果、各国が協議した上で、取得難易度に応じて様々な段階を設けた共通規格の資格を発行することとした。迷宮から得られた物資の売買の場も認可制とし、特定の店舗でのみ取引を行うよう制定した。
これがいわゆる『探索者法』であり、法により定められた資格を入手した者は『探索者』として、社会の新たな地位に組み込まれていくこととなったのであった。
数か月放置している作品をさし置いて新連載です。これも不定期になるかと思われます。