睦月 満月 再訪(2)
「アマネ殿」
クサブキさんの声には、若干呆れた響きがある。
「それは、だいぶご無体です。私は、神ではないのですよ」
やっぱり無理か。私はぺろりと舌を出す。
「温泉を湧かせろなどと……」
出来たらとっくにやっている。意外にも温泉好きらしい鬼は苦々しくつぶやく。
「でもここ、どこかの山の中でしょう。山なら何とかならないかなーっ、て……」
クサブキさんは、軽く首をかしげて私を眺める。
なんかちょっと、嫌な感じだ。
「あなたは、聡い方のようにお見受けするが、ずいぶんと委しさに偏りがおありのようだ。シホウには、山はあっても火山はない」
山ならどこでも温泉が湧くと思うなよ。言外に告げられ、私は若干へこむ。
「……地学とか、苦手で。……それはともかく」
私は気を取り直す。
「カピバラは、温暖な水辺の生き物です。日本で飼育する時は、よく、温泉を利用したりしているみたいです。……今は、真冬ですし、なんとか、もう少し暖かく過ごさせてあげる方法を、考えなくてはなりません」
「暖かく」
クサブキさんの声音に思案が混じる。
この結界内の気温は、年間通して、いわゆる人間の適温に保たれているようだ。今だと私の体感では、22℃ぐらいだろう。夏にはもう少し、温度が上がるらしい。
「何とかしよう。……ところで、先日、新たな生類が参ったのだが」
「え」
またですか。
今度は一体何だろう。不謹慎ながら、私はワクワクを止められない。
「これは、……ペンギンですね」
「ぺん、ぎん」
クサブキさんは明らかに渋面になる。私がいなければ、頭をかきむしっていたかもしれない。
「どうしてこう、吾が惑う類の名のものばかり」
ぺん、ぎん。ぺんぎん。いつもの反芻作業。
「……参ったな、ペンギンは大体、寒いところに住んでいるんです」
ペタペタと歩き回る飛べない鳥を前に、私は唇をかむ。
アルパカも寒冷地、そして乾燥した環境を好む。こうも飼育環境がばらばらだと、この限られた結界の中で、どうやって動物たちを快適に過ごさせるか、非常に悩ましい。
そもそも、クサブキさんが、どんな力を持っているのか、動物たちの環境を整えられる力があるのか、まだ私には皆目わからないのだ。
「『寒い』とは、どのような場所なのかな」
クサブキさんが目を上げて私に問いかけた。
「ペンギンの種類にもよりますけど……水の温度が低くて、場合によっては、雪の上で過ごすものも……」
動物園のペンギンを思い浮かべながら、私は返事をする。
ああ、動物図鑑が欲しい。目の前のペンギンが何ペンギンかもわからず、私はもう一度唇をかむ。
「ふむ、冷水と温水か……」
なにやら独り言ち、クサブキさんが指を鳴らすと、彼の目の前に水を張った桶が現れた。
彼は右腕をまくると、おもむろにその桶に腕を突っ込み、ぐるぐるとかき回す。
やがて桶から引き上げた右手には、何かが握られていた。
「氷……」
私は呆然とつぶやく。
桶の中の液体は、湯気を上げぐつぐつと煮立っている。
「ふむ、この術の理を使えば、冷水と温水を生み出すことは、訳はないが」
私はあっけにとられて彼の手元を眺める。
神ではない、とかおっしゃってましたけど。
温泉湧かすのと、水を氷と熱湯に変えるのと、どっちもどっちではないかと。
「……この術は、自然の力の理を歪めるものではない。故に、今の私でも、成すことができる」
私があまりにガン見していたからなのか、クサブキさんは静かに説明してくれる。
要は、熱エネルギーを移しているだけで、無からエネルギーを生み出しているわけではない、ゆえに簡単な術だ、ということらしい。
うなずきながら、私は改めて実感する。
この世界の、原理が良く分からない。
それから、クサブキさんは空中に手をかざし、温風と冷風を生み出して見せてくれた。
持続的に術を使い続けるのは、消耗も激しいため、何か策を考える、と彼はつぶやく。
アルパカは元気だった。
意外に広々とした草原を自由に歩き回っているが、クサブキさんに指を鳴らして呼び寄せられ、私が撫でても、抵抗する様子はない。
カピバラは、気のせいでなければ、若干クサブキさんになついている気がする。
「……そろそろ、時間のようだ」
空がうっすらと白み始めていた。
クサブキさんが私に目を向ける。
「お教えいただいた案内をもとに、気や水の温みやらを、工夫することにする。恩に着る」
「あの、これ。動物たちの、生活環境や食べ物、世話の仕方、できるだけ、調べてきました。……今の時代の文字が、どれほどお読みになれるか分からないので、なるべく写真や図解を多くしたつもりですけれど……」
私はあわてて、クサブキさんの手元にノートを押し付ける。
彼は一瞬目を見開き、それから微笑んでノートを受け取った。
「これは、……かたじけない」
「次、来る時までに、ペンギンのこと、調べてきます」
彼の微笑みが深くなる。
暁の光が一条、私を貫いた。
「アマネ殿。次にお越しになるときは、ご自分のおんじきを、持参なさると良い」
「おんじき?」
彼が軽くうなずき、口を開きかける。
そこで、前回と同じように、唐突に私の世界は暗転した。