陰陽師
本当に、間一髪だった。
へらへらと笑って見せながら、俺は、背中を冷たい汗が流れ落ちるのを感じる。
俺たちは、危なく、もう一体、鬼を生み出してしまうところだった。
まあ、はっきり言って、俺のせい、だったわけだが。
こうもやることなすことが裏目に出るとは、自分は本気で、陰陽師からのジョブチェンジを検討する必要があるかもしれない。
茨木童子の封じられた結界。
頼光四天王と茨木童子との戦闘を、何とか中断させ、綱の闘気が収まったことを確認し、俺は息をつく。
親父と兄貴に半殺しの折檻をされ、正直、今の俺には、余力がない。
何とか力が保っているうちに、あまねちゃんだけでも、切り離さないと。
必死に繰り出した術は、しかしやはり、ある意味、裏目に出た。
薫子さんの身体に俺が太刀を振り下ろした瞬間、茨木童子から放たれた青色の邪気が俺を襲う。俺は本気で一瞬、死を覚悟した。
飛んできた矢の水の力を利用して、というかほとんど卜部が術を使い俺がサポートしたに等しいのだが、何とか茨木童子を、水球に閉じ込める。
俺は一瞬気を失いそうになりながら、最後の虚勢で、必死にニヤニヤ笑いを続けていた。
*
酒呑童子一味への潜入の任務は、もともとは、俺が行かされる予定のものだった。
だが最終的に、その任務に駆り出されたのは、まだ成人後間もない茨だった。その当時、別の大きな怨霊の案件が生まれてしまい、安倍の一族は、そちらにかからなければいけなくなってしまったのだ。
明らかに世間ずれしていない生真面目な茨に、こんな汚れ役が務まるはずもない。俺は反対したが、黙殺された。
そして事態は、最悪の結末を迎えた。茨がしくじるかもしれない、それは大半の妖狩りは頭の片隅で考えていたことだったが、あいつが殺されることはあっても、まさか、酒呑童子に魅了されてしまうとは、いくら俺達でも、全く予想ができなかった。
言い訳をさせてもらえば、酒呑童子は、男の鬼だと皆が信じ込んでいたのだ。
茨と酒呑童子の間に、本当のところ何があったのかは、俺たちには分かりようもないが、とにかく、頼光四天王は死罪級の失敗を犯し、将来有望だった一人の妖狩りの術使いは、恐ろしい力を持った鬼となり、彼が人として生きた証拠は、永遠に抹消された。
そして、俺の人生の時間で言えば、15年。
俺は、親父と兄貴の監視を受けながら、唯一許された方法――前進のみのタイムトラベル――で、細切れに人生を切り貼りし、ほぼ1000年の時空を、手掛かりを求めて飛び回った。
酒呑童子の首を感知したとき、俺は心に決めた。
ここからは、俺の残された時間はこの時代に賭ける。
どんな手を使ってでも、この首の力を利用して、茨木童子を見つけ出し、そして、討ち果たす。茨を、この日本のどこかにある彼の牢獄から、開放して見せる。
――で、結果が、これだもんな。
俺は、首元に太刀を当てたまま、成仏しようとする巫女と見つめ合う茨の姿を、心の底から苦々しい思いで眺める。
せっかく成ったのに。自由になれるのに。お前が選ぶ道は、それなのか。
俺が自分の人生の大半をかけて何とか取り戻そうとした、お前の1000年の人生の終わりは、それなのか。
人にとって、愛する者を失うというのは、それほどの打撃をもたらすものなのか。
俺はなけなしの式神を、茨にくれてやることに決めた。
どうせ、全部の首に鎖のついた身だ。はっきり言って、今後まともに術は使えない。
これからの俺の人生は、全てにおいて半端もの。
だが俺は、少なくとも、俺の身代わりになった一人の男の人生を多少はましにしてやれたことに、大いに満足していた。
問題は、まだ残っている。
俺は、今はひとつだけの魂を宿した、ひとつに戻った薫子さんの身体を振り返る。
酒呑童子が恐ろしい量の日本酒を注ぎ込んだ身体は、ほとんど急性アルコール中毒の、昏睡状態に近い。早く酒を抜かないと、まずいことは明らかだった。
蒼白な顔でぐったりとした薫子さんを抱える渡辺綱に、俺は声をかける。
「綱、悪いが一度、俺に彼女を預からせてくれ。術で酒を抜く」
本当のところを言えば、酒を抜くくらいの術は、別に皆の前で使おうが差し支えのないものだった。俺が彼女と二人きりになりたかった理由は、別にある。
横たえた彼女の体に手をかざし、彼女の血液と消化管の中のアルコール分を取り出し掌に貯める。息を吹きかけ火をつければ、それは青白い美しい光を放って燃え尽きた。
ゆっくりと目を開いた薫子さんに、俺は声をかける。
「気分はどう。神経系のアルコールも、抜ききれたかな」
彼女はまばたきをし、俺に目を向ける。ややぼんやりとしているが、大事はなさそうだった。
「俺は、安倍吉昌。君の守護者たち、頼光四天王の仲間の、術使い――陰陽師です。多分、名前は聞いているかな」
俺の自己紹介に、彼女はゆっくりと起き上がり、うなずいた。
「あの、私……」
「君の中のもう一人の巫女に、眠らされていた。今日は11月19日。多分、君の記憶が途切れて、ちょうどひと月だ」
彼女はもう一度うなずく。
「本当は、もう少し丁寧に、このひと月に何が起きたのか君に説明したかったけれど、時間がない。少し乱暴なやり方だけれど、許してほしい」
彼女は首をかしげる。
「多分、君の意識が戻ったら、渡辺綱――源君は、君と別れると言い出すと思う」
俺の言葉に、彼女の目がゆっくりと見開いた。
*
渡辺綱は、1000年の時空をつまみ食いした俺が知る中でも、多分、十指に入る剣豪だ。そして個人的には、俺はその沈着な性格も、とても気に入っている。
だが、あの時の綱の殺気は、ある意味、狂気に近いものだった。
綱には、いわゆる神通力は全くない。薫子さんが人のままであることなど、分かりようがなかった。あの時、綱の中での薫子さんは、鬼に犯され妖と化してしまった、なんとしても狩らねばならない対象だった。
まだ、武士道などという思想が生まれるはるか前に生まれたはずの男だが、彼の行動規範を簡単に表せば、多分それに近いものになるのだろう。綱は、自分の私情を力づくで押さえこみ、彼女に対して剣を抜こうとした。
多分、あと数秒でも俺の介入が遅ければ、薫子さんは、綱に一撃で斬り殺されていた。
あの性格の男が、責務を優先し恋人を斬り殺すことを選んだ自分に、その恋人と添うことを許すとは思えなかった。
薫子さんには、意識を取り戻して綱と顔を合わせる前に、何とか事情を説明しなければならなかった。だが、それは、部外者の俺にとっても、胸の痛む作業だった。
自分の意識がない間に、自分の身体は、見知らぬ人外の存在と通じていた。そして、自分の恋人は、そこに誤解があったにせよ、自らの責務を全うするために、自分を、殺すことを選んだ。
彼女は黙って静かに、その事実を受け止めた。
俺は話しながら、だんだん、自分の決断に自信がなくなっていた。二人を何とか不幸な結末から救いたいと考えたことだったが、あるいは二人は、黙って別々の人生を歩んだほうが、幸せだったことになるかもしれない。彼女は、何も知らずに、ただ、恋人に去られたと思っていられた方が、幸せな人生を、送れたのかもしれなかった。
「……大丈夫?」
話し終えた俺は、半分は自分に対して、この言葉を放ってしまっていた。
「……ええ」
彼女は、軽く唇をかんだ。それから、まっすぐに俺の目を見る。
「吉昌さん。……ありがとうございます。これから、私たちがどうなろうとも、それは、私たちが選んだ道です。私に、事実を知り、これからを選ぶ権利を与えてくださり、ありがとうございました」
彼女の瞳は、きれいに澄み切っていた。
降参だ。俺は、どうやらこの子の性根の座り具合を、舐めていたみたいだな。俺は、その顔を眺めながら、ぼんやりと思った。




