睦月 朔 邂逅(1)
「珍しいな、ここに客人とは」
目の前の彼は柔和に微笑んでいる。
私は黙ってその顔を見つめていた。……正確には、言葉が出なかった。
ここに来るまでの流れは全く記憶にない。
気がつくとこの人物の前で立ち尽くしていた。
ただ分かるのは、ここが、私が普段暮らしている世界ではなさそうなこと、そして、目の前の人物が、ただものではなさそうなことだ。
これ、どうしたらいいんだろう。
私はぼんやり考える。
これまでの私の乏しい人生経験からは、この事態を切り抜ける正解を導くことは、まあ、無理だった。
「いずこからお見えになられた。壁を通ってこられたのかな」
彼の表情も、声も、変わらず柔和だったが、何となく、この問いかけには、適当に答えては、いけない気がした。
とはいえ、私にできることは、正直に答えることだけだ。
「……分かりません。ここに来るまでの記憶が、全く、ないのです」
「ほう」
口元に微笑みを張り付けたまま、彼の目がわずかに細まった。
怖い。
ここまでだいぶぼんやりしていたが、ここで私ははじめて、はっきりとそう思った。
だってこの人……角、生えてるし。
牙っぽいの、見えてるし。
どう考えても、悪魔とか鬼とか魔王とかその辺のお方ですよねわかります。
周りの景色も、こう言ってはなんだが、だいぶやばい。
木も、岩も、山も、見たことのあるような形をしているが、とにかくやばい。
初めは何なのか分からなかったが。
ちらりと見上げた、真っ白い空に浮かぶ黒い点々……夜空に浮かぶ星を見た時、私は理解した。
景色が全部、白黒逆転しているのだ。写真の、ネガのように。
「まあ、客人はもてなさなければならないでしょう」
にやり、というのが一番しっくりくる笑顔を浮かべた、目の前の人物だけは、私の知っている、普段通りの色をしていた。
「ようこそ、影の国へ」
*
「その、チキュウなる球体の上の、ニホンなる国の住人であられると」
「……はい」
彼が指を鳴らすとどこからともなく現れ、地面に広がったふかふかの布――おそらく何かの毛皮であろうと思われる――に座らされ、何かわからない液体の入ったカップを手渡され、私は仕方なく、彼に聞かれるがまま、自分の知る限りのことを話した。
未だに全く状況がつかめないので、抵抗のしようもない。
どうぞ、と勧められるが、カップの中の液体を飲む勇気は、私にはない。とりあえず、おかしなにおいなどはしないが、安全なにおいもしていない、気がする。
そんな私の様子に気を悪くした風もなく、彼は顎に手を当てる。
「おそらくあなたは……外の住人たちに、贄として呼び寄せられたのでしょう」
「ニエ」
「私への、捧げものです」
「はあ。……いや、いやいやいや……」
「珍しいことではないのですよ」
彼は、どちらかというと迷惑そうにため息をついた。
「ここ最近、見たこともないような変わった牛やら何やらが突然現れるので、扱いに難渋していたのですが、これで理由が分かりました」
パチリ、と指が鳴る。途端に、私の前に、真っ白なモフモフが現れた。
意表をつかれて私はカップを取り落としそうになる。
「これは」
「これが何か、ご存じか」
「はあ、これは、……アルパカ、ですね」
「ある、ぱか」
あるぱか、あるぱか。男は何度か繰り返す。そんな場合ではないはずだが、私はふいに湧き出してきた笑いを必死にこらえる。
「……これは、不味そうに見えますが、喰えますかね」
「……どうでしょう……。人間からすると、食べるよりは、毛を利用する方が、多いと思いますけど……」
「なるほど」
何なんだろう、この状況。
角と牙の生えた異様にきれいな顔の男と、白黒逆転した草原と、真っ白なアルパカと。
私は、そろそろ自分の脳の処理能力に限界を感じはじめていた。
「こやつらは、あなたのいる世界から、送り込まれてきていた訳だ」
角の生えた彼は、ふう、とため息をつく。
「確かに、ここしばらく、供物が途絶えがちだった。飢饉でもあったのか、十分な供物を出せるようなムラがなかったのかもしれないが……」
物思わしげな独り言。
「あやつら、禁術に手を出しおったな……」