真島と平塚
昔から誰かが泣いている姿が嫌いだった。
悲しみを俺が奪い取ってやりたかった。
泣いている少女たちに声をかけられず俺は立ち尽くしていた。
ふと、赤間椎名が振り向いて俺を見た。
「……すみません、取り乱してしまって。ひぐ……、未明さんも大怪我して――」
俺は声を出せなかった。だって俺の姿は朔太郎なんだ。こいつらにとって朔太郎は赤の他人のはず。
赤間のそんな悲しそうな顔なんて見たことなかった。
赤間の言葉が耳に入らなかった。
バタバタと音が聞こえてきた。
看護師さんと医者の先生が血相を変えて病室へ入ってきた。
俺は二人に促され、自分の――朔太郎の病室へと連れ戻された。
悲しみにくれている少女たちの泣き声がずっと耳にこびりついてしまった。
ベッドの上で考える。
何度見ても俺は朔太郎の顔をしていた。俺の唯一の友達。心を許した親友。
俺が死んでも泣かずに看取ってくれると思っていた。
なのに――なんでお前が死んでるんだよ……。
実際は俺が植物状態で、朔太郎は生きているって事になっている。
「くっ……そ、なんで泣けないんだ? 朔太郎? 俺は悲しいはずなのに」
悲しみに包まれているのに泣けない。……これは朔太郎の身体だからか?
ノックの音が聞こえた。俺が返事をする前に誰かが入ってきた。
現れたのは同級生の平塚すみれであった。
ああ、やっぱり友達かなにかだったんだ。
罪悪感が心を占める。
だって、平塚の顔がぐしゃぐしゃに歪んでいた。
「――朔太郎……、良かった……本当に良かった。私、あなたがいなくなったら……どうしようと……」
思い出せ、朔太郎の喋り方を。この少女を悲しませちゃ駄目だ。
平坦で感情が少なくて、それでいて不器用な感情が見え隠れする喋り方で――
「――無論、も、問題ない。この程度の傷は」
平塚の身体が止まった。
悲しみの顔が、教室にいる時の氷の表情に変わっていった。
「――あなた、誰?」
病室は沈黙に包まれた。俺と平塚が見つめているだけであった。
ああ、そうか。やっぱり嘘は良くないな。だが、正直に話しても理解してくれないだろ?
どうりゃいいんだ、くそ、もうどうだっていい。俺だってこんな状況わけわかんねーよ。
「俺は――真島だ。朔太郎の友達の真島文吉だ。すまねえ、こんな事言っても信じてくれねーと思うけど、って、大丈夫か?」
平塚はいつの間にか、俺の横に近づき、綺麗な手で俺の顔を触る。
無表情に見えた顔は、悲しみを押し殺していた。
「……大丈夫よ。……全部理解、したわ。朔太郎なら不思議な事じゃないわ。でも……ごめんなさい。少し一人に――」
俺の顔をじっと見つめる。長い時間に感じられた。本当は一瞬だったかも知れない。
平塚は俺から手を離して、無言で病室を去っていった。
朔太郎を見舞いに来る人は誰もいなかった。
どうやら天涯孤独の身らしい。
時折、平塚が無言でやってきて、朔太郎の荷物を持ってくる。
そして、また無言で去っていった。
平塚と朔太郎は友達か……恋人だったのかもな。
俺が朔太郎じゃないってすぐにバレた。
俺は後悔と罪悪感に苛まれた。
だって、俺の人生なんて余生みたいなものだっただろ? 朔太郎は違う。健康な身体でこの先もずっと生きられるはずであった。
――なんで俺が死ななかったんだ。
みんなの悲しむ顔なんて見たくなかった。
なんで悲しむんだ? 俺は間違っていたのか?
退院した俺は朔太郎が住んでいた小さなアパートで一人膝を抱えていた。
この日の朝も俺は鬱々と過ごしていた。
どうすれば朔太郎が元に戻るか? どうすれば悲しむ少女たちを癒せるのか?
どうすれば――
玄関が勢い良く開かれた。
つかつかと俺に向かってくる少女、平塚すみれ。その顔はいつもどおり無表情であった。
膝を抱えている俺は顔を上げた。
平塚の顔が一瞬歪む。俺の頬に衝撃が走った。
「いつまでも家に引きこもってないで。学校行くわ……朔太、いえ、未明君」
「まてよ……。どうすりゃいいんだよ!! 俺は真島文吉だったんだぜ? 朔太郎を殺して俺だけ生き残ったんだぞ? どの面晒して学校行けばいいんだよ!! はぁはぁ……」
感情がうまくコントロールできない。
俺はもっとうまくコントロールできていたはずだ。いや、不完全だったからみんなを悲しませた。もっと心を殺さなきゃ――
平塚は冷たい目で俺を見下した。
「それだけ元気なら大丈夫でしょ。……あなたが真島文吉でも未明朔太郎でも関係ない。私は朔太郎との約束を守る。それだけよ」
「はっ? 約束ってなんだよ? お前と朔太郎って一体――」
「――うるさいわね。未明くんは――ただの、相棒よ。だからあなたが――私の未明朔太郎よ」
その声色は平坦なのに――ひどく悲しく感じられた――
制服に着替えて平塚と一緒にアパートを出たが、平塚は「それじゃあ教室で」と言って一人でスタスタと歩き去った。
多分、俺は嫌われているんだろう。ていうか、そりゃそうだ。俺は植物状態で病院にいる。でも意識は朔太郎の身体にある。じゃあ朔太郎の意識は? この身体にあるのか? それとも入れ替わって俺の身体にあるのか?
そんな事いくら考えてもわからない。
でも考えてしまう。
学校に向かっている時、気がついた事がある。
真島だったときも、視線をいつも感じていた。別に気になる視線ではなかった。
この朔太郎の身体でも視線を感じる。初めは事故にあった生徒が珍しいだけかと思った。
学校に近づくにつれ、視線の濃度が変わってくる。
これは――人を見下した視線であった。
陰口も聞こえてくる。朔太郎の耳は恐ろしいほどよく聴こえる。
「地味な方が生き残ったんだ」
「マジ罪悪感ぱねえよな〜」
「でも事故だから仕方ないよ」
「真島先輩はイケメンだったのに……」
「あの陰キャが死んで真島先輩が――」
「ていうか、あいつちょっと頭おかしくて有名だろ?」
「関わんないほうがいいだろ。あいつパシリだろ」
心に重いなにかが生まれそうであった。
学校へ行く足が重くなる。
なんで人は他人ごとには残酷になれるんだ? 朔太郎が何をした?
俺を助けたんだぞ?
俺は無言で――心の中で叫び声を上げた。
教室の入り口の前で平塚が立っていた。
俺は無視して通り過ぎようとした。罪悪感やら悲しい気持ちやら、心の整理がつかない。それに、俺はこの女が苦手だ。理由なんてわからない。
「未明くん、真島君の事は忘れなさい。あなたがこれから未明くんよ」
「…………」
俺が朔太郎の人生を歩む? そんな事していいのか……、良くないだろ。
俺は何も言わずに自分の席へと向かった――
……朔太郎の目が、平塚の手の小さな震えに気がついてしまった。
俺の、真島文吉の席はそのままの状態であった。
植物状態だからまだ死んでいない。そう、死んでいないだけだ。生きていない。
俺は朔太郎の席に向かおうとした時、黒板の前で諍いを起きていた。
金城姉妹が男子と揉めていた。
あの男は橘勝。優等生のフリをしているけど腹の底が腐っている男子だ。親が官僚をしていて、誰も口を出せなかった。
真島は、いじめをしている橘を許せなくてぶん殴った。
もちろん親が出てきて、土下座謝罪しろって話になったけど、笑い飛ばしてやった。
そのあとも色々問題が起きたけど、常識の範囲内で収まっていたはずだ。
それ以降も何度も俺と諍いを起こしたけど、あいつは丸くなった気がした。
翼が声を荒げている。
そういえばあいつは気の強い翼のことが好きだったな。元婚約者だし。
「だからなんで死んだ事にしてるのっ! 真島はまだ生きてるでしょ!!」
「はっ、どうせもうすぐ死ぬだろ? クズはクズらしくな。ははっ、邪魔者が消えたからいい気味だ。……ふん、俺に勝ち越したまま死にやがって、あのバカが」
橘は暗い笑顔で言い放った。なんでお前が寂しそうにしてるんだ?
「あ、あんた……、ゆ、許さないわよ」
「人の婚約者を奪った真島ほどじゃないだろ? まあいいや、真島が死んだからどうでもいい。翼は俺の元に戻る。これは決定事項だ。ほら、そうと決まれば学校なんてサボって――」
橘は翼の手を掴もうとしたが、妹の小鳥が遮った。
「何してるです? 汚い手で姉さんに触らないです。ふんっ」
橘は大きなため息を吐いた。
「もう……、真島はいないんだ。俺が何しても誰も怒らない……。翼は俺の婚約者に戻って、俺は自分なりに楽しめる事を探す。そうだ、またクラスメイトをいじめてみようか? そうすれば気が晴れるかもな。全く、真島が死んだせいで気分が悪い……」
教室の生徒の大半は怯えていた。成績優秀、運動神経バツグンで最悪の性格をしている橘。
誰も逆らえなかった。
橘は金を使って暴力を正当化する。いじめを日常とする。俺が殴るまで誰も止められなかった。あいつも殴り返してきた。そこから橘とのいがみ合いが始まった。
翼が橘を睨みつけた――
「真島は……真島は――、私を守ってくれた大切な人よ!! 不良のフリをしてたけど……本当はすごく優しいの……。わがままで性格悪い私に呆れずに真剣に話を聞いてくれて……、叱ってくれたり、い、一緒にアイス食べたり……、ひぐっ、ま、真島がいなかったら私もあんたと同じ人種になってたの!! そ、それに、真島がいなくなって……本当に自分の気持ちに……」
感情をあらわにしている翼の手をにぎる小鳥。
「……小鳥にとって真島はクズでした。……でも本当のクズは人を見下す私だって気がついたです。真島は私に心を与えてくれたです。感謝してもしきれない恩です……真島自身はなにか理由があって、人から嫌われたいって思ってたです。でも……あんな優しい心を隠せるはずないです。真島の敵は私達金城姉妹の敵です。親のコネでも金でもいくらでも使います。――私は姉さんほど優しくないです」
橘は重い溜息を吐いた。
「……はぁぁぁ。もうおもちゃがいないんだ。俺はまた一人ぼっちで――」
「あんた真島の事好きすぎておかしくなったのよ!! 変なツンデレはやめてよ!」
「……素直に悲しいって言えばいいです」
三人が言い争っている言葉が耳に入らなくなってきた。
胸が苦しくなる。三人から伝わる悲しみが体中に突き刺さる。
嗚咽が出そうなのに、涙が出そうなほど苦しいのに、感情を表に出せない――
俺は嫌われてたんだろ? 俺が死んでも悲しまないはずだろ? いつも俺の事馬鹿にしてたじゃねーかよ……。なんで、だ。
クラスメイトの声が聞こえてきた。
「俺、実は真島に不良から助けられたわ。助けられたあと、誰にも言うなって脅されたけど」
「わ、私、猫を一緒に探してくれたの」
「超怖かったけど、べ、勉強教えてくれた……」
「おばあちゃんを背負ってすごい良い笑顔で歩いているのを見たわ。学校で見たことない顔だったわ」
なんでだよ。なんでお前らも悲しそうにしてるんだよ!? 俺は、嫌われて――
俺の後ろに気配を感じた。柔らかい手が俺の肩に触れた。
「……真島を捨てて未明朔太郎として生きるってことは、あなたの思い出全部捨てる必要があるわ。私はそれを望むわ。……真島は死んで、未明朔太郎が生きてるの。ここで決めて。あなたがどうするか――」
俺が知らないうちに築き上げた繋がり。それはクラスメイトであり、金城姉妹であり、家族との関係でもあり、初恋の思い出でもあり――俺は全てを捨てなければならない。
俺は軽く息を吐いた。
答えなんて決まっている。
そう、俺の人生は余生だった。だから、俺はこれからの人生を朔太郎の意識を取り戻すのに全力を尽くす。
真島文吉を捨てて、未明朔太郎として生きろ。
そして、朔太郎が戻った時――俺は消える。
待ってろ朔太郎、俺がお前を取り戻してやる。
振り返って平塚を見た。
平塚の瞳にうつる朔太郎の、俺の顔に生気が宿る。
「無論、問題ない。俺は……、はっ、流石に喋り方は無理だな。……朔太郎の意識は取り戻せると思うか? 相棒――」
「……未明朔太郎なら不可能を可能にする」
「そっか――」
相棒が何かよくわからん。だが、平塚にとって大切な言葉に聞こえたんだ。
平塚は小さく頷いた。感情がわからない顔。それでも、小さく口元が歪んだ。
橘が黒板を叩いた。大きな音が教室に恐怖心を生む。
小さな悲鳴が聞こえてきた。
――全く、黒板が泣いているぜ。
俺は前を見据える。
大きく息を吸って吐く。
一歩歩く。
――腐れ縁だった金城姉妹
猫背だった俺の身体を大きく反らす。また一歩歩く。
――わがままでツンツンしていたけど嫌いじゃなかった金城翼。百円アイスが好きで意外と庶民派で可愛いいやつだ。いじらしくて恥ずかしがり屋で見栄っ張りで……、でも素直なところもあった。赤間がいなかったら惚れてたかもな。
力強くもう一歩を歩く。教室が静まり返った。
――冷たい女の金城小鳥。損得勘定と理屈で生きていた女だ。自分だけ楽しければそれでいい。……ただの寂しがり屋だっただけだ。ゴタゴタのあと、二人で猫カフェに行ったな。あの時の小鳥は柔らかい笑顔が本当に可愛かった。年相応で魅力的だった。恥ずかしがると無口になってほっぺただけが赤くなる。
泣きそうになりながら俺はもう一歩を踏んだ。
顔を前に向ける。ボサボサの長い髪をポケットに忍ばせていた輪ゴムで縛り付ける。
目の前がクリアに見える。
度が入っていないメガネを後ろに向かって放り投げる。
「な、なに? あれ……」
「わ、わかんない。あれって未明君なの? なんだか、雰囲気が大分――」
「止まったほうがいいよ。未明君がいじめにあっちゃうよ……」
「ねえ……、やばくない?」
「うん、未明君ってあんなにイケメンだったの!?」
「ちょっとまって、あの歩き方ってなんだか――」
「真島君に似てるよね」
「真島君と未明君って、確か――」
――ああ、朔太郎は最高の友達だ。
俺は最後の一歩を踏みしめた。
――橘とは腐れ縁だ。なんだってそんな悲しそうな顔してんだよ。俺の事何度も陥れようとしてただろ? 知ってるよ。愛人の息子だから父親から相手にされなくて寂しかったんだろ。変な関係だったな。友達じゃねえ。いがみ合ってるけど――楽しんでいたのかもな。
教室の床がミシミシと音が鳴る。
俺と橘の距離は数センチもない。橘は驚いて後ずさった。
「なんだ、生き残った方の男か。なんのようだ? 俺は今機嫌が悪い。その顔を俺に見せるな」
「み、未明君、い、今は放って頂戴。ま、まだあなたと話すには気持ちの整理が……」
「朔太郎さん……」
なんだ、朔太郎。いつの間にか金城姉妹と知り合いになっていたのか?
そういえば赤間も朔太郎の事知っている感じだったな。
……こうやって目の前に立って話すのがひどく久しぶりに感じる。
まだ数日しか経ってないのに。
俺は軽く息を吐いた。そして、よく通る声で言い放った。
「――真島文吉は必ず戻ってくる」
クラスメイト全員が俺を見ている。
俺は言葉を続ける。
「ならてめえら普通に学生生活楽しめや。俺は――俺は、あいつが必ず戻ってくるって信じてる。だから――」
「俺の親友を待ってようぜ――」
朔太郎の意識を戻して、俺は消える。それでも死ぬ前に思い出に浸るくらいの時間はあるだろ? ならうそじゃねえ。俺はきっと戻ってやる――
金城姉妹が呆けた顔で俺を見ていた。誰にも聞こえない声でつぶやく。
「真島……? 違うのに、なんで真島が近く感じるの……、ひぐっ……真島、真島……」
「姉さん、泣かないで……、私も……真島君を感じるです。もしかして朔太郎さんなら――」
橘は「ふんっ」と鼻を鳴らして自分の席へと帰っていった。あれは機嫌が良い証だ。
俺は黒板の前から平塚を見据えた。
――これで満足か? 俺が未明朔太郎になって、朔太郎を取り戻してやるよ。
平塚は小さく頷いた。
この時、真島文吉の過ごした思い出は胸の奥にしまい込んだ。
真島文吉は俺の心の中で――死んだ。
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