鐙(あぶみ)とガス冷蔵庫
目が覚めた。ここは? 絵で見たことがあるぞ、アレクサンダー大王の軍?……
日本語はもちろん受験英語も通じない、単なる怪しい者。槍を突きつけられている僕の前に、若き征服王が立つ。
それだけで、小便をちびった。比喩じゃなくリアルに。
だが、ふと気がついた。その脇の、乗馬と戦車。
二つとも間違っている。
靴紐を両方靴から抜く。
小さな馬を押さえてもらい、もやい結びにした靴紐の輪に自分の足を入れて軽くしゃがみ、長さを測る。
それから座る皮の柔らかい部分に小石をくるみ、靴紐の長い端を縛りつけて固定する。キャンプの技だ。
そして、靴紐の輪に片足を入れて楽に乗って見せ、もう一方の紐も少し股関節が痛いが足に通し、両足を踏ん張り馬上に立ってみせる。
大王の目に、凄まじい輝きが宿る。
乱暴に僕を馬から下ろすと、自分も馬に跳び乗り奴隷を呼んで足に紐の輪をつけさせ、陣内を激しく駆け巡った。槍を受け取って振り回し、投げ、凄まじい声を上げた。
僕には聞き取れない、激しい叫びが次々にあがる。僕を斬ろうとする武将もいたが、馬に乗った別の誰かが止めてくれた。
どさくさまぎれに僕は、戦車に馬をつけている、人間が首吊り縄で荷をひいているに等しい縄を叩き、木と工具を求めた。だいたいの形しか覚えていないが、比較実験を繰り返せば、馬を苦しめずより重い荷をひける馬具を作れるだろう。
そうそう、確か大王はマラリアで死んだんだ。なら、蚊帳さえ……
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人類は、馬を飼い慣らしてから何千年も鐙を発明しなかった。
アレクサンダー大王も秦の始皇帝も、鐙を知らない。古代ローマ帝国も知らない。ローマや漢が何百年繁栄し、何百万の人口を保っていても、誰一人思いつかなかった。
そして、間違った方法で馬に車などをひかせていた。これまた長い年月。
人類はそれほど馬鹿だ。
鐙ひとつで、アレクサンダー大王の騎兵隊は何倍にも戦力を増し、戦車は過去のものとなる。
当時の騎兵は、歌舞伎役者や音楽一家の子が幼児期から激しく訓練されるように訓練されて、やっと裸馬に乗れるようになった。乗馬を特技とする、一つの民族を成していた。そんな人々以外は、小さい馬に首吊り縄同然の綱で戦車をひかせていた。
それが、より少ない訓練で誰もが馬に乗れるようになる。馬上から強く槍で突き、安定して弓を引くことができる。
そして呼吸を妨げず全力をかけられる馬具があれば、戦車や荷車の性能向上はもちろん、馬に鋤をひかせて田畑を耕すことができる。それは農業生産力を何十倍にもする。
インドどころか中国まで征服でき、何倍もの人口を養えただろう。
アレクサンダー大王のお役に立てない技術も多くある。
自動車はもちろん、蒸気機関車の設計図も役に立たない。
エンジンやシャフトに必要な、丈夫な=不純物が少なく、正確に熱処理された鉄はない。ピストンやシリンダーを高精度に削る旋盤も、線路のための測量技術も、土木工事技術もない。潤滑に必須な油も、石油技術はもちろん、鯨油をとるにも航海技術がない。
レール用に鉄を大量生産するには、その前の段階の技術がたくさんいる。高炉・転炉には高温に耐える耐熱レンガ。輸送には水運、水運には天文観測・造船、運河や港湾にこれまた測量土木。識字率が高く組織しやすい大人口、組織そのもののノウハウ、広範囲の治安も、天文や測量を支える数学も必要になる。
たとえレールを敷いてやっても、鉄も枕木もすぐに盗まれるだけだ。盗まれない近現代の治安、警察機構がとんでもないんだ。
ベアリングもスプリングもない。ローマ皇帝の命令、帝国数千万の総力でも、ベアリングどころかパチンコ玉一つ無理だ。パチンコ玉の球形精度・鋼品質・表面浸炭や部分焼き入れ・メッキは、夢見ることもできない水準だ……『テルマエ・ロマエ』[ヤマザキマリ]のルシウスが驚嘆した鏡や壜と同様。スプリングも、そこらの名刀よりいい刃物鋼だ。
〈タイムスリップした技師〉がそれをわきまえていなければ、役に立たない。逆にわきまえていれば、できることはある。
鐙は紐ででき、見ればわかる。耐熱レンガやとんでもない精度の旋盤がなくてもいい。
●乳搾り・食品加工・外科手術・出産補助は、手を洗って酢か酒を塗ってから。道具は煮沸。湯冷ましを飲め[殺菌消毒]
●沼地を避け、魚のいない水は埋め、蚊帳で寝ろ[マラリアや黄熱病の予防]
●豆や穀物のもやし、新鮮なレバー少量や全粒穀物、多様な生野菜や針葉樹の若葉を食べろ[ビタミン]
●マメ科など痩せ地で育つ植物を見出し、緑肥や飼料として活用しろ[空中窒素固定]
●牧草を塔に密封して発酵させ、保存できる根菜を探せ[家畜の越冬]
これだけでも死亡率が激減し、人口も家畜も爆発的に増える。その前の段、耐熱レンガや読み書きできる大人口を必要としない。
手洗いもビタミンCもBも、『栄光なき天才たち』同様の悲劇となったほど人類は馬鹿だが。
患者を百人ずつ試せば死亡率は一目瞭然だ……だが、それは産褥で手を洗うことを発見した医者を潰した当時も同じだったはずだ。タイムスリップして医者に手を洗わせるためには、機関銃やロケットランチャーを持っていくべきだろうか。いや、重火器が轟音をあげ壁を爆砕するのを見せつけられても「保守」「工夫しない」「権威」「前例踏襲」「昔の本」「反対のための反対」「ギルドの空気」「教会の命令」「試してみるのを拒む、望遠鏡をのぞくのを拒む」ためには、死を選ぶ医者が多いかもしれない。
アレクサンダー大王本人がマラリアで死んだのが事実なら、蚊帳こそ彼と帝国にとって最も役立つ技術だった……キニーネは持って行けなくても。
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今普及している技術は、最も優れた、低コストの技術とは限らない。おそらくは近代馬具ができる前の縄と同様に。
QWERTYキーボード。M16ライフル。どちらも、多くの欠点があるのに圧倒的に普及し、デファクト・スタンダードを崩せる品はない。おそらく今世紀中は。もしかしたら来世紀も。
ビデオデッキの、VHSとベータ。
原発だって、トリウム溶融塩炉のほうが、ウラン炉と違い核兵器用のプルトニウムを作れないだけで、安全で安価で優れていたかもしれない。高速増殖炉も、ナトリウムにこだわらず鉛を選んでいればとっくに実現していたかもしれない。自動車エンジンの歴史のように、小さいのからいろいろ何千も作って試すべきだったし、今そうするべきだ。
そして、ガス冷蔵庫。
ガスと言うが、実際には薪でも石油でも火があれば冷蔵庫はできる。それどころか温泉でも原発の温排水でも、電気の熱でも。
冷媒を蒸発させることができればいい。
現実に使われている電気冷蔵庫は、モーターで圧力をかけて気化・液化をやっている。コンプレッサーだ。うるさい。
東日本大震災の計画停電で、「冷蔵庫の音がない」ことがどれほど違うか、普段どんな騒音の中暮らしているか、いやというほどわかった。
ガスの、火を使えば回転部がないので故障は少ない。騒音もない。
合理的にはそちらのほうが、どう見ても優れている。
だが、ガス冷蔵庫は見かけない。世界中で電気冷蔵庫が使われている。
単に、当時のアメリカで、宣伝能力などで電気関係のメーカーのほうが強かった。それだけのことだ。
『お母さんは忙しくなるばかり―家事労働とテクノロジーの社会史』[ルース・シュウォーツ・コーワン]
また西洋式下水処理と日本の下肥、どちらが……さらに南方アジアの豚便所、中国の養魚池も含め、何が本当に優れているか。
『レ・ミゼラブル[ああ無情]』で、ユーゴーはパリの下水網を解説して、それを肥料として周囲の畑に与えることができたらと嘆いていた。なぜそれをしなかったのか、江戸時代の日本のように。最近は日本でも「ベルサイユ宮殿にトイレはない」「窓から道におまるの中身がぶちまけられる」などは知られている。だがなぜ? 日本のようにすることが、文化的にできないからでは? 「ヨーロッパ文化は人糞尿を肥料にすることをタブーとする」のではないか?
戦後GHQが下肥を禁じた本当の理由が欧米の文化的タブーだったとしたら、日本は優れたシステムを文化的独善の押しつけで捨てさせられたことになる。化学肥料を普及させるため、下水技師の職のための陰謀だった、というのならまだわかる。だが、命じた西洋人は単に代案はない、唯一絶対善と思いこんでいただけ……善意だった、としたら?
それが日本だけでないとしたら?
世界全体で、特にアフリカや中南米で。インドでも。支配者である西洋人が善意で水洗便所・下水道を強制し、その結果海や川や湖を汚染し、伝染病で多くの人を死なせ、掘る必要のないグアノを堀り、燃やす必要のない燃料を燃やして窒素肥料を作り、無駄な予算を浪費してきた……いるのではないか? 西洋人の、自分たちのやり方は絶対に正しいという優越感のせいで。西洋人が自分を疑わず、現地人も西洋の指導を疑わない思考停止のせいで。
西洋式下水道を普及させるより、家の近くで完全に堆肥化したほうが、ずっとよかったのではないか? 今も、水洗トイレより電動コンポストのほうが優れている、そちらを普及させるべきだ、という話もある。
さらに巨大な家畜飼育工場からの、大量の糞尿による汚染問題。隣に畑を買ってトラクターで埋めて肥料にし、作物を育ててエサ代を節約するとか、完全に堆肥化して売るとかしないのは、本当に金勘定なのか? 意識していないタブーじゃないか?
陶器の便器とコンクリートや木造の便所……恒久的な構造自体が間違いではないか? 便器は蓋をして中身ごと堆肥化できる使い捨てでいいのでは。床と壁は土塗りで汚れたら削って塗り直すとか、ラップを張り替えるとか、テントにして定期的に洗濯するとか。他にも、便器に尿石がつき、便器とタイルの隙間に汚れが染み、床をモップで拭くより清潔で安上がりなことがあるのではないか?
鐙といえば、『科学の終わり』[ジョン・ホーガン]は、技術の終わりを意味してはいないだろうか。
スマートフォンのモデルチェンジと、より深い海の石油を掘る技術やシェールガス革命以外、進歩の余地はもうないようにも見える。だが、本当にそうだろうか?
鐙を見落としていないか? ガス冷蔵庫を捨てていないか?
鐙ではないか?
極超音速スカイフック。
軌道エレベーターの応用の一つ。最近多く描写される、『楽園の泉』[アーサー・C・クラーク]や『ガンダムOO/ダブルオー』のような、静止衛星の原理で地球の自転と同期する軌道エレベーターと違い、地表には達しない。
乗り移るのにも、とても高い空にものすごい高速で飛ぶ特殊な飛行機が必要だし、たまに端が地表に近づくだけだから、そのときしか乗り降りできない。
だが、地表から静止軌道への軌道エレベーターと違い、それなら何万キロメートルものカーボンナノチューブは必要ない。現在実用されているケブラー繊維で可能とされる。
なぜやっていない?
それで宇宙太陽光発電。エネルギーを電波にして送受信する技術がなくても、極薄の鏡を宇宙に浮かべ、反射した日光を広い太陽光・太陽熱発電所に集め、二十四時間三百六十五日高密度なエネルギーを得る。
それより原発のほうが、石炭火力発電所のほうが、本当にそんなに安価なのか?
化学ロケット以外の宇宙技術は、それだけではない。他にも、地上からのレーザーで水や空気を膨張させる、空気がない高空では電力を電波で送り荷電粒子ビームの反動を推力にするなど、研究されてはいる。だが少なくとも人類の未来を問う言葉の世界、エネルギーについての議論では、そちらの進歩は前提にされていない……ほとんど誰も関心を持たない。
海水で育つ稲も、現時点で海水潅漑できる塩生植物とラクダも、鐙ではないか?
どこがどれだけ光合成をしているか塗り分けた世界地図を見れば、陸から遠い海の多くが、砂漠同様ほとんど光合成をしていない。水・日光・温度はあるが肥料がないから。だから飛行機で肥料を薄く散布し、海藻を養殖すればいい。エネルギーや食料も得られるし二酸化炭素も減るだろう。その地図と地球儀を見比べれば、どんなにとんでもない面積かわかるはずだ。
メガフロートも、ガス冷蔵庫と同じではないか? パレスチナも沖縄米軍基地もクルド人も、メガフロートが一番いい解決策ではないか? それどころか成田空港だって、メガフロートにしていたほうが大騒動もなく、都心に近く安かったのではないか?
他にも、見落とされている鐙はそこらじゅうにあるのでは?
携帯電話。スマートフォン。ノートパソコン。デスクトップパソコン。
これらは、本当にこの形しかないのか?
携帯電話黎明期。重いバッテリーや熱を出すコンピュータ部を別にし、ヘッドホン+マイク=ヘッドセットと有線で結ぶことは容易だったはずだ。手に小画面とキーボードだけ、バッテリーやコンピュータ部がないので極薄の携帯電話を、有線でつないで持てばいい。さらにヘッドマウントディスプレイ、いや小さい双眼鏡や望遠鏡のようにのぞく超小型ブラウン管。
想像してみよう、手にはカードのようなガラケー。イヤホンを耳に、口元にマイクを伸ばす。バッグの中に単行本サイズの本体。全部有線でつながっている。ガラケーの小さいディスプレイでも電話をかけたり音楽を選んだりできる。大画面を見たい時は小さい双眼鏡のようなディスプレイをのぞけば、ゲームもフルブラウザもDVDもパソコン同様。
そのシステムであれば、最初からパソコンの能力を持つ携帯電話は容易だったはずだ。技術的な無理はないはずだ。二〇〇〇年には、電車内で映画を観ながらメールをし、ホームに降りて通話できていただろう。
デスクトップでも、卓上電灯のようにアームにつながれた、展望台にある有料双眼鏡のような小型ブラウン管ディスプレイをのぞいてもよかった。省エネで立体映像も簡単だ。
それ以前にノートパソコンを鞄に入れたまま、別の携帯電話を使うことがばかげている。ノートパソコンに携帯電話機能ももたせ、ヘッドセットと薄いガラケーを有線で延ばせばいい。今はセパレート型タブレットがあるが、十字キーのついたディスプレイを有線で外すこともできたはずだ。バッテリーだけでも有線で分離すれば、ノートパソコンも携帯電話も格段に楽だったはずだ。
現実は、そうではない。ノートパソコンも携帯電話も、ひとかたまりに全部。ディスプレイは、広く平ら。液晶。
なぜ?
物理法則が、ヘッドマウントディスプレイよりも、大型液晶ディスプレイに味方したのか? 自然が永久機関を拒むように、超小型高精細画面を拒んできたのか? 太陽電池より火力発電のほうが有利なように、人類が宇宙に出られないように?
常識が、マナーが、ファッションセンスが、法律が、絶対にヘッドマウントディスプレイを許さなかったのか? スーツを着る者にはふさわしくなく、ジーンズをはく者には格好悪いから? グーグルグラスまで小型化されない限り? 道路交通法か、世界のどこでも? 電車内で小型望遠鏡に似たディスプレイをのぞくことも許されないのか?
単にスティーヴ・ジョブズの好み。それだけだったのではないか? 彼がスタイラスを嫌ったから、スマートフォンはスタイラスではなく指でこする一枚画面になった、何年も遅れて。そんなもんではないか?
キーボードとマウスの操作系も、アップル・マッキントッシュのシステムがあまりに成功したためではないか? 右手はペンタブ、左手は三十字程度のキーボードにそれぞれ専念してもよかったのではないか? マウスとキーボードで、手を頻繁に移動させるのは面倒だ。
両眼で立体映像をのぞくバーチャルボーイが成功しなかったのも、単なる偶然ではないのか?
疑ってみろ、現状は本当に最善なのか。鐙なしで馬に乗っていないか。ピアノの蓋にしがみついていないか。
書いてきたこと以外にも、そこらじゅうに鐙はあるだろう。「紀元前三世紀? 鋼も安定した質では作れないからエンジンは無理だ。でも鐙ならできたはずだ」と同様に、千年後から見て「二十一世紀初頭? 超光速航行は無理だったな、タキオン制御に必要な○技術がなかったんだから。でも●なら当時の技術でもできたはずだ」と言えることはないのか?
それとも、人間の本性か?
何度やっても、3D映像やテレビ電話が売れないように。
家で主婦が洗濯をし、鍋を洗っているように……何万人もの、一流大卒の女性も含めて。彼女たちにふさわしい仕事と時給を思えば家計にも国家にも損失だ。超一流理工科大学を出て主婦をしている女性たちをロスアラモスに集め、彼女たちの分は工場で洗濯すれば核融合炉だって……と思える。だが馬車で汚れた下着を集めて工場で煮洗いする企業、集団で食事・洗濯・清掃を工業化する生活は、何度も試されすべて失敗した。
太陽神に生贄を捧げる帝国を長期間保つことができた、同じ人間が。
人間には好みがあり、その好みから外れることはできない……政治・経済体制も冷蔵庫も、選択肢はないのか? 人類は選べないのか?
そんな、人間というのは何なんだ?
そう、《我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか。》