麗しき憂い
なんとか朝食を終えた僕は、歯を磨くために再び洗面所に向かっていた。腰を曲げながら腕をダラーっと下げ、まるでゾンビのように歩きながら。
「はぁ。なんだかすっごく疲れたよー〜.…」
姉さんにこっぴどくいじめられたせいで、もうヘトヘトだった。これじゃあ『鳴りピョンさん』に起こされた時とさほど変わらない気がする……。
すると、丁度階段に差し掛かったところで。
ドタ、タ、タ、タッ。
と可愛いらしい音を立てながら、階段から何か茶色いモフモフした生き物が降りてきた。そして、その綿あめのような生き物は僕の足元までトボトボ歩いてくると。
「まーお」
こちらを見上げて、反則的に愛らしい鳴き声を発した。
「おはよー、モカぁ。また、姉さんに虐められたよー……」
僕はしゃがみこんでその綿あめ———飼い猫のモカの喉を指でこちょこちょしてあげた。
「んまぁお〜」
ゴロゴロと喉を鳴らしながら、気持ち良さそうに目を細める愛ネコに、僕の表情も緩む。あぁ、癒されるぅ。
「でも、珍しいね。君がこんな早く起きるなんて」
この子猫ちゃんは僕よりも寝起きが悪い。というより1日の大半を寝て過ごしているのんびり屋さんで、このように朝から1階に降りてくるのは非常に稀だ。
そんな彼女———メス猫なのでそう呼んでみる———をなんとなく抱き上げてみた。
「まーお?」
モカはつぶらな瞳をパチクリさせて僕を見つめてくる。僕の胸がキュンっと高鳴った。
「あぁ、可愛いよモカぁ……」
本当に可愛いよう。すっごく可愛いよう……。
「ふぇえ……我慢、できないっ!」
我慢しきれず、抱き上げた小さな体にスリスリと頰をあてがい、その後ぎゅーーっと抱きしめてみた。
「もかぁっ!?」
「あぁ、もうたまらないッ……! 桃源郷はここにあったんだねっ!」
「まーお!まーおっ!もかぁあああっー!」
顔のそばでモカの小さな手がパタパタと振られる。彼女からすれば抵抗しているつもりなのだろうが、それは逆効果だ。だってこんなにも可愛いんだもの!
「モカぁ……! 僕は君を愛してる! ずーーっと大好きっ!」
理性を手放した僕は、そのまましばらくの間モフモフ天国を満喫した。
数分後、なんとか理性を取り戻した僕は洗面所に入った。
洗面台の前に立つと、備え付けの鏡に朝よりも少しやつれた僕が映る。
だけど、それよりも気になるのは————。
「まーお……も、もかぁ……」
僕の"頭の上"でげっそりとしているモカだ。
先程僕がモフモフ天国をしあと、解放した彼女は仰向けのまま倒れてしまった。あのまま放置してたら母さんや姉さんに見つかって玩具にされかねないので、とりあえず頭に乗せて運んできたのだ。
「悪いことしちゃったなぁ……ごめんね、モカぁ」
「も……かぁぁ……」
僕は頭上のモカを下から撫でながら平謝りする。
そんなことをしていた折、ふと鏡に目をやる。そこには頭にモフモフの猫を乗せながら、それを下から撫でる美少女じみた自分が映っている。
「こういうことばっかりしてるから、姉さんにからかわれるんだろうなぁ……」
僕は小さく嘆息して、モカをその辺のバスケットの中に下ろしてあげる。
「ま……まーお……」
未だに復活してないらしく、モカはバスケットの淵に前足と顎を乗せて、ぐでーっと寝そべった。
えっ、なにその仕草。すっごい可愛いんだけど……。ほんと、この子は魔性だなぁ。
「って、こんなことしてる場合じゃない! 早くすませないと遅刻するっ」
僕は一度かぶりをふって緩んだ顔を引き締め、歯ブラシを手に取った。
そのままイチゴ味の歯磨き粉を多めにつけ、いつも通りに歯を磨き、いつも通りに口に水を含んだ。
何気なく前の鏡に映る顔を見てみると、頰がリスのように膨れ上がっていた。
(……さっきの僕も、こんな風になってたのかなぁ……?)
僕自身が言っちゃうのも変だけど、その、今の姿は……確かに少しあざといかもしれない。
姉さんにからかわれ、むくれた時のことを思い出してみると、カァァッと恥ずかしさがこみ上げてきた。
「ぺっ」
僕は溜息のように水を吐き出して、口元をタオルで軽く拭った。
「さて。次は"アレ"をやらないとかぁ……めんどくさいなぁ……」
態とらしく溜息をついてから、櫛を手に取った。そう。これからやるのは『髪の手入れ』だ。
ゆっくりと髪に櫛を通す。寝癖がついてるくせに、ムカつくぐらいスムーズに櫛が走る。この滑らかな毛質は母親譲りだ。
(今日の寝癖は一段と酷いのに……全然関係ないんだね……)
ややあって、頭髪の唯一の欠点である寝癖を潰し終えた僕は櫛を元あった場所に戻した。
……ここまではいい。誰だって寝癖ぐらい直すだろう。僕だってとかさないまま学校に行くのは嫌だし。
でも、僕の『髪の手入れ』はこれで終わりじゃないんだ……。
意を決して鏡に向き直る。
櫛入れにより寝癖一つなくなった僕の頭髪。その"右サイド、正確には右耳の後ろあたりから鳩尾まで燻った二本の束髪"。『サイドテール』のようなその二束を左右別々の手で摘んだ僕は———。
————そのまま頭の側面でリボン結びした。
手を離すと、鏡の中の僕の頭には地毛で結われたリボンがちょこんと付いていた。あぁ、なんて可笑しな髪型だろう。
「はぁぁぁ……」
本日最低音のソプラノな溜息を長々と吐き出し、ジトーっと地毛リボン————通称『りむすび』を眺めた。
「もぉ……本当、なんなんだよぉ……これぇ……」
当然ながら僕はこんなことしたくない。「なんで自毛でリボン!?普通にリボン付ければいいのに!馬鹿なの!?死んでるの!?」って、僕だって思ってるよ。
でも、察してほしい。
この家に母と姉(2人の悪魔)がいる限り、僕に髪型の自由なんてないんだと。
(やらなかったら煩いからなー。あの2人……)
そもそもこの『りむすび』を開発してしまったのは姉さんだ。幼い頃に姉さんがふざけて僕の髪で遊んでる時に偶然出来上がった産物なのだ。
『わぁー!りむかわいいーっ! 見て見て、ままー!』
『あらっ!?りむちゃん、何それ可愛いわ!これから毎日その髪型にしなさいっ!』
頭の中に物心つく前の悪夢の記憶が蘇り身震いした。
のちに成長した僕は、この髪型の恥ずかしさに気づき何度も抗議した。だけど母さんと姉さんは「歯磨きよりも大事。歯は磨かなくてもいいけど、『りむすび』はやりなさい。てか凛夢、可愛いっ!」の一点張り。うん、手遅れでした。
「ふぇぇ…は、恥ずかしいよぉ」
もういっそのこと、家から出たら解いてしまおうか。
「……かといって、今更やめても弄られるだろーなぁ」
僕がこの『りむすび』を強要されてからすでに数年間この髪型で過ごしてしまっている。学校の友達も近所の人も『僕=りむすび』って紐づけてる節があったりするし、ほんと今更やめたところでどうにもならないだろう。
「むぅぅーっ!こんな家、さっさと出ていってやるーっ!僕は容姿の自由を手にするんだー!」
そんなソプラノな意思宣言は無駄に洗面所に反響するだけだった。