1、遡りさんは思い出す
頭が痛い、ふらふらする、体がだるい――
そんなことを言っておけば、みんなが自分を大事にしてくれるのは分かっていた。
面倒なことは、全部、姉に任せておけばいい。
「姉なのだから」「あなたは体が丈夫なのだから」「未来の王妃としての自覚が足りない」と母が姉を叱ってくれる。
今日もそう。姉が綺麗な白いドレスを着ているのが悔しくて、咳が止まらない振りをした。
両親が急いで自分を取り囲み、優しく部屋へ連れて行ってくれる。
寂しそうな姉の顔を見るだけで、満足した。
父に抱えられ、寝台へ移される。
目を閉じると――ふと、美しい青い目の男性が脳裏に浮かんだ。
『貴女がマーレ嬢? 僕はグレイル・アトモス……こういう時、なんて言うのだろうね?』――その、困ったような笑顔が好きだったのに。
(今の……なに?)
見たことない筈の光景や感情が、次々と脳裏に浮かぶ。
『あら、フィクス様? 遊びに来てくださったのね? こちらでお話ししましょう?』『殿下はシエル嬢に会いに来たのだから、邪魔するのは……』『フィクス様だって、一緒の方が楽しいわよね?』――もちろん、一番愛していたのはグレイル様だけど、姉の隣に誰かがいることが許せなくて、我儘を言って自分の相手をさせていた。
(フィクス王子……? お姉さまの婚約者だけど……もっと大人になった時の姿かしら……)
次に浮かぶのは、自嘲めいた笑みを浮かべる王子の顔。
『彼女の代わりに、私達が婚約することになる……人でなしの王と魔性の王妃……お似合いじゃないか』
怖い顔をした大人達が次々と浮かんでは消える。
『同年代のお嬢様方がとうに習得している分野なのに……』『公爵家は一体どのような育て方を……』
自分を囲んでいた友人達は、いつの間にか遠巻きに此方を見ている。
『マーレ様? ……いや、王家と婚約するのだから、僕のような者と関わるべきじゃないと思うよ』『近付かないでくれよ……めんどくさいなぁ……』
『姉の婚約者を略奪して、まだ男漁りを続けるのかしら?』『失礼なことを言わないの。殿下があのような事をしてまで手に入れたかった女性なのだから……私達も突き落とされてしまうわよ』『あら、妹の方がしたって聞いたわよ? 家族ぐるみで虐待していたのでしょう?』
優しかった両親も、次第に暗い表情で自分を見ることが増えていく。
『こんなことになるなんて……』『母の言う通り、私達は夫婦になるべきではなかったんだろうか……』
そして、最後は、あの青い瞳の青年。もう笑顔は見られない。
『最初から婚約する価値のない相手だとは思っていたけどね……ここまでとは』
その後、彼は姉の元へ向かうのだ。
自分に向けていた冷たい眼差しとは一転して優しい微笑みで。
『デビュタントの日に一人で居たあなたを見たときから、とても気になっていた。どうか、私と結婚してほしい』
自分が愛していた人が、自分より愛されていなかった姉に、愛を乞う――屈辱的な光景をそれ以上見ていられなくて、急いで自室へ戻ろうとした。
階段を駆け上がり、足を踏み外し――体が宙に浮いた所で、目を開けた。
見慣れた自室の天井に、柔らかいシーツの感触。
寝台に横たわる自分を見守る両親と、扉の近くで佇む姉の姿。
自分がまだ子どもで、姉はデビュタントを迎える歳――それは確かなはず。なのに、この先どうなるか、なぜか良く分かる。
先程までの光景が、自分が本当に経験した出来事だったのか、確証は持てない。ただ、このままでは自分が愛する人を失う可能性があることは理解できた。
「大丈夫、マーレちゃん?」
「私達が目を離したばっかりに……」
口々に声を掛ける両親よりも、視界の隅に映る姉のドレスが気になった。
今日が姉のデビュタントなら、あのグレイルの言葉が本当なら、今日が二人の出会う――
「そろそろお時間ですが……」
「マーレちゃんを置いて行けというの?」
涙目の母親が執事を睨みつける。父もどうしたものかと佇んでいた。
「……私なら一人で大丈夫です。殿下もいらっしゃるので」
感情を見せない声で姉が呟く。
それだけはまずい、とマーレは気付いた。
「私は大丈夫だから……みんなで行って来て」
衝撃的な光景を見せられて、頭痛や吐き気を覚えたが、かろうじて声を絞り出す。
「だって、マーレちゃんの方が心配だもの」
そんな母の様子を見て、何かをこらえるように姉は目を伏せる。そのまま静かに踵を返した。
「駄目なの!」
姉の背を追いかけるように、咄嗟に、体が動いていた。
驚く両親の間をすり抜けて、部屋を出る。
「お姉様、ごめんなさい!」
飛び掛からんばかりの勢いの彼女を、侍女の一人が抱き留める。
姉は振り返り、怪訝な表情を見せていた。
「私、全然しんどくない、みんなに甘えていただけなの! 殿下に我儘も言わない! お母様は、お姉様がお婆様みたいに真面目で優秀だから劣等感を持っているだけなの! だから、だから……」
グレイル様とやり直したい――そう続けようとした声は、父に遮られた。
「マーレ……それ以上は、もう……」
ふと周りを見ると、青ざめた母の顔と、沈痛な面持ちの使用人達。
「……そう。王家に嫁ぐのだからって厳しく躾けたのはお母様なのにね……」
ぽつりと呟きながら、姉は弱々しく微笑んだ。
「済まない……シエル……」
父がそっと、姉の肩に手をやった。
「しっかりした長女より、手のかかる次女の方が可愛いと、僕も無意識に思っていたんだろうね……令嬢のデビュタントは大事なものなのに……」
私達は行ってくるよ、と父はマーレの頭を軽く撫でた。
「絶対、お姉様を一人にしないでね」
マーレの意図も知らず苦笑した父は、姉の手を取ろうとして――
「……あなたは」
父が振り返った視線の先には、母の姿。
「出掛けられる状態ではないでしょう。僕に任せてください」
その場から動けない彼女を一瞥すると、父は姉を連れて出て行った。
馬車が走り出すのを窓から見届けたマーレは満足したように頷く。
(これで、大丈夫かしら? あとは殿下次第かしら? どうか、お姉様とグレイル様を親密にさせないで……)
祈るような気持ちで指を組んでいると。
「どうして……」
母が信じられないものを見るような目で此方を見ていた。
「どうして、私達の事を……」
「聞こえましたから」
先程見た光景の中に、両親の悔いる姿も含まれていた。
母は、公爵家に嫁ぐには、少し身分が低かったらしい。
祖父の助言や祖母のお小言をはねつけて父は強引に跡目を継いだらしい。
姉に優しくできなかった事を、母は後になって嘆くのだ。
「私、自分がしてきたことがどれだけ愚かだったか分かりましたの。未来の王妃となるお姉様を公爵家で支えることが私達の使命なのに……」
「マーレちゃんまで、あの人達みたいなことを言うのね……」
さめざめと泣く母の姿を見て、これは駄目だと思った。
自分が我儘を言って、母が甘やかす――これを繰り返して、今の環境が出来上がってしまったのだろう。
だとしたら、自分の役割は――
「フィオーレ・タイロス」
自分でも内心驚くほどの低い声が出た。
「公爵家に嫁いだ自覚が足りないようね。ただ自分の感情だけで子を差別するというなら、貴方を母としても公爵夫人としても認めない」
「そんな……」
母がその場に崩れ落ちる。
執事が侍女たちに指示を出し、母は自室へと連れて行かれた。
その後ろ姿を見送ると、マーレに目を向けた。
彼は父の古くからの友人だが、一人でいることが多かった姉をいつも見守っていたように思う。
「お二人のシエル様への態度は目に余るものでした。マーレ様が過ちに気付いて下さいまして嬉しく思います」
他の使用人達も同意している様子だった。いつもなら深く頭を下げ、自分の我儘に黙って従う彼らが、心からの笑みを浮かべているように見えた。
(そうね。今までがおかしかったのね)
マーレは納得した。確かに、今までの自分なら、“あの人”に愛されないと。
これからすべきことを決めたマーレは執事を見上げる。
「手紙を出したいの。手伝ってちょうだい」
「……どちらへ?」
「お爺様よ」
その言葉に、執事が軽く驚いた様子を見せる。
(グレイル様と幸せになるならなんだってするし、誰だって利用してやるわ)
姉を愛される王妃にして、グレイルを寄せ付ける暇を与えない――マーレ・タイロスの計画は、ここから始まったのであった。
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