季節を止めて
第5弾掲載作品
テーマは「旅」
分厚く小さな窓を覗いてみる。一時間前と変わらない景色。眼下にはただ青砥白の世界しか映っていない。
「お砂糖とミルクはお付けしますか?」
「お願いします」
機内サービスはホットコーヒーだけだった。高校生の私には苦すぎるし似合わない。キャビンアテンダントさんが器用に紙コップに注いでくれる手元をまじまじと見てしまう自分が子供っぽく思えてしまった。
「熱いのでお気をつけください」
「ありがとうございます……」
背伸びしないで断ればよかった、と琥珀色の水面を見つめる。ここまで順調にきていただけに、思わぬところで自分の子供っぽさを思い知らされてしまった。「あげる」と渡すパパもママもいない。初めての一人旅の味は、お砂糖が入っていてもやっぱり苦かった。
『今年もお彼岸に行こうと思ったんだけど……パパもママも仕事になっちゃったのよ。お婆ちゃんとこ行くの楽しみにしてたのにごめんね、美郷』
『なら私だけでも行くよ。もう高校生なんだよ? 一人で行けるもん。お婆ちゃんにはパパとママの分もちゃんとお花あげてくるから心配しないで?』
飲み干した紙コップは有名なカフェのデザインにとてもよく似ていた。プラスチックで出来たフタから水滴がこぼれないようしっかり閉め、今日の記念に持って帰ろうと足元のバッグにしまった。
本当はパパの為でもママの為でもない。私の為にお婆ちゃんのところへ行く。
違う。本当はお墓参りも口実で、私が本当に会いたいのは……。
「いらっしゃい、美郷ちゃん。一人でよく来たねぇ」
「秋奈お姉ちゃん、わざわざお迎えにきてくれてありがとね。お世話になります」
お婆ちゃん、ついでなんて思ってごめんね……。
秋奈お姉ちゃんは従姉妹の中で一番歳が近い。だけど高校を卒業してすぐ運転免許を取得したというだけで、かなりお姉さんに感じてしまう。叔母さんの車であろう赤い軽自動車の助手席の扉を開けて「どうぞ」とにっこり笑った。
去年より、また一段と綺麗になったみたい……。
たった一年しか経っていないというのに、秋奈お姉ちゃんの運転する車窓からは懐かしい景色が流れている。物心ついた頃から毎年見続けてきたこの景色。ママの実家であり秋奈お姉ちゃんの家でもあるお婆ちゃんちまでは空港から約一時間。私は窓の外に目を向けつつ、運転席から聴こえる心地よい声に耳を傾けていた。
「はす向かいのみーこちゃんいたでしょう? 最近婚約したのよ。この前紹介されてね……都会の好青年って感じの優しそうな人だったなぁ……。結婚式はそっちでやるみたいよ?」
「東京で? へぇ、みーこさんが……。ちょっと意外だな。みーこさんって秋奈お姉ちゃんと違って、いかにも『田舎のお姉さん』って感じだもん。東京の男の人にはそういう田舎臭い女の人がいいのかなぁ」
「ふふっ、そんな風に言うもんじゃないわ。みーこちゃんだって大学時代はモテてたのよ? 交際相手の一人や二人、いてもおかしくないんだから」
「ふぅん……」
一人っ子の私にとって、大学生とは未知の存在。未知の領域。
そこに飛び込んだ秋奈お姉ちゃんも大学ではモテているのだろうか。それが当たり前の世界なのだろうか。長く上に伸びたまつ毛が揺れる横顔を見つめる。こんなに綺麗な顔立ちの女の子が放っておかれるはずがない。そう思うとますます遠い存在に思えた。
切なくなった。
「美郷ちゃん? 酔っちゃった?」
「え? ううん、大丈夫。ボーっとしてただけ。上手だよ、お姉ちゃんの運転」
「そう? ありがと。おだててくれたご褒美に何か買ってあげないとねぇ。アイス? お菓子? 美郷ちゃんは若い子には珍しくあずきが好きなんだよねぇ?」
「もうっ、高校生なんですけどぉ? 上手なのはほんとなんだし、お菓子でご機嫌取ろうとか思わないでよぉ」
「ふふっ、冗談冗談。美郷ちゃんもずいぶんおせらしくなったよ。さすが都会の子は違うね」
「おせらしく……?」
そういえば、今日は秋奈お姉ちゃんの方言を聞いていなかった。イントネーションこそ標準語から少しずれているけど、東京では聞き慣れない言葉に首を傾げたのは今が初めてだった。私に気を使っているのだろうか。気を付けているのだろうか。
それとも……。
「あそこのおうち、覚えてる?」
秋奈お姉ちゃんが指さしたのは、国道の横にぽつんと建っている二階建ての白く真新しい建物。見上げれば二階部分と屋根の間に看板が掲げられている。
「喫茶店?」
「そう。この辺じゃ働き口も減ってきちゃったからねぇ。地元の人もそうじゃない人も来れるような店にしたいー、って大津のおじさんが家を改装して開いたのよ。繁盛してんだかしてないんだか知らないけど。最近はそういう店が増えてるの。美郷ちゃんがこっちにいるうちに一回は連れてってあげるね」
「へぇ……」
運転席越しに見えていた白い建物が、小さく遠くなっていく。『暑さ寒さもお彼岸まで』というのに、エンジン音に混じってツクツクボウシの声が微かに聴こえていた。
「美郷ちゃんは?」
「え?」
「高校で好きな人出来た?」
フロントガラスの向こうに低い山が並んでいる。私はそれを見つめながら黙って首を振った。秋奈お姉ちゃんの視界には入っていただろうか。私が見えていただろうか。
「秋奈お姉ちゃんは?」
別に聞きたくないのに。
「私? 私はね……」
むしろ聞きたくないのに……。
「あき……秋奈お姉ちゃんに釣り合う人なんていないよっ。秋奈お姉ちゃんは美人だし、スタイルだっていいし、ピアノだって上手いし……。だから秋奈お姉ちゃんは、秋奈お姉ちゃんには……」
誰のものにもなって欲しくない。
どこにも行って欲しくない。
「あははっ、ありがと。そんな風に言ってくれるの美郷ちゃんだけだよ。そんなに褒めてもらったら、やっぱりご褒美あげなきゃだね」
「そんなの……いらないよ。全部ほんとの事なんだから。いつまでも子供扱いしないでってば」
遠くの山が青黒く見える。赤信号でゆっくり減速するに合わせて、秋奈お姉ちゃんのピアスがゆらゆらと揺れた。
「子供扱いか……。ごめんごめん。そうだよね、小学生の頃は一緒のお布団で寝てた事もあったけど、お互いもうそんな歳じゃなくなったしね。最後に寝たのは……私が中一の時だったっけ」
「……そうだったっけ」
嘘。ほんとは鮮明に覚えてる。
秋奈お姉ちゃんの膨らみを意識してしまった私はその夜眠れなかったのだ。そして『いい加減狭くて眠れなかったんだよね。もう一緒に寝るのは卒業しよっか』と切り出され、何も弁解出来ずに翌日から別々に寝るようになってしまったのだ。
あの時、何か言えていれば、あるいは何か変わったのだろうか。今でも変わらず一緒に寝ていたのだろうか……。
「秋奈お姉ちゃん、私……コーヒー飲めないから喫茶店には行かなくていい。その代わり……」
「その代わり?」
ツクツクボウシが、鳴いている。
「いちごのアイス買って?」
〈完〉




