歩く。
そこは歩き続ける世界。歩き続けるだけの世界。意味を啓示されることなどなく、歩く世界。
それでも、人々は歩く。歩き続ける。
しかし、皆が皆、そういうわけではなかった。
青年とも少年とも呼べる歳の青年も、またその一人だ。
×××
その青年は幼き日に父親を亡くした。
あまりに幼く、また唐突だったこともあり、青年はもう覚えていない。
「立ち止まってもいい。振り返ってもいい。でも、しゃがみこんだらダメだ」
父親はそう幾度も言っていたが、青年が覚えているかは分からない。
しかし、覚えてなくとも、それは青年の心に根を下ろしていただろう。
「どうして」
青年は問う。
人は皆、立ち止まってはいけないと言う。
中には青年の父親のように異なることを言う者もいたが、それは稀有だ。
多くの者は立ち止まってはいけないと言い、そして疑うこともせず歩き続けた。
そんな中で、青年はやはり普通と違っていただろう。
「どうして」
何度も問うた。
足元にはレールが見える。それは見えなくなるほど遠くまで続き、終わりなどないのではないかと思えるほど延々と伸びている。
そのレールの上を歩き続けることに、青年は疑問を抱いていた。
「なんのために歩く?」
何度でも問うた。
レールは時折、分かれ道になっていた。右と左、あるいは三叉に。
しかし、青年にとってそれは、分かれ道ではなかった。その大半が黒く塗り潰されていたからだ。
だから青年にとって、歩くことはそれ以上の意味を持たない。
「歩くことになんの意味がある?」
問うた。問うた、問うた、問うた。
その昔、まだ傍らに母親がいた頃は、分かれ道の先は明るかった。
そして、その明るい道の方へと、母親は歩いていった。
それからだ。青年の分かれ道が、黒く塗り潰されるようになったのは。
「どこにも行けやしない」
青年は、ふと立ち止まった。
父親に言われたことを思い出したわけではなく、ただ歩くことの意味を問うて、立ち止まった。
引き返そう。そう思った。
この先には何もない。そう悟った。
「歩くことに意味なんかない」
そう言いつつ、青年は希望を抱いた。
昔見た分かれ道の先になら、何かあったのではないか。
あちらへ行くのが正解だったのではないか。
そうして振り返った時、そこには何もなかった。
それまで歩いてきたはずのレールは影も形もなく、ただただ虚空が続くのみ。
「あぁ」
青年は理解した。もう手遅れだったのだと。
膝が折れた。
頭が垂れた。
青年の心に巣食ったように、その愕然と座り込む青年の元に、影が差す。
そして、そこに光を見た気がした。
×××
人生において、『もしも』は意味をなさない。
全ての者は、全ての選択肢において、一つしか選ばない。
そこに『もしも』など存在せず、何度繰り返しても、選ぶ道は変わらない。
しかし、それでも。
問わずにはいられないだろう。
もしも、彼に救いがあったのなら、と。
×××
「青年よ」
青年が振り返ろうとした時、一つの声がかかった。
そちらを向くと、青年の数倍は歩いてきたであろう、一人の老人が立っていた。
「振り向いてはいけない」
老人は皆が言うように繰り返した。
「どうして」
青年は問う。
その問いに意味などなかった。何度も自分に問うてきて、答えなど出なかったのだ。
しかし、老人は指を差した。
「あれを見なさい」
指が差す先には、一人の男がいた。ひどくやつれ、後ろ姿だけでも半生を察することができただろう。
「ああなりたくなければ、ってことか?」
ひどい爺さんだ、と青年は思った。
老人はそれに答えず、ただ眺めていた。
青年は答えを返されなかったことなど気にもせず、それに倣った。まぁ見ていてやろう、と気まぐれに思ったのだ。
不意に、男が振り返った。
後ろ姿と同様にやつれていた顔が、その時輝いた。
「……?」
青年は目を凝らして、それを見た。
男の足元に男の顔色にも劣らぬほど輝く、一つの果実があった。
「なんだ、あんなものがあるなら――」
青年の声は、最後まで続かなかった。
男の前に、一つの黒い影が現れていたからだ。
「どうして気付かない」
青年の言う通り、男がそれに気付く様子はない。
むしろ食い入るように果実を眺め、そして手を伸ばした。
「――」
ガゴリ、と背筋の凍る音を青年は聞いた。
もう、そこに男の姿はなかった。黒い影も、存在しなかった。
「どうして気付かない?」
青年は再度問うた。
「下しか見えていないからさ」
老人は答えた。
「あれは最高の果実だ。振り返りたくなった者には何よりも美味そうに見え、それを頬張るのは何よりの幸福だろう」
青年は問い返そうとした。だからといって見えないはずがない、と。
しかし、それを察してか、問う前に老人が口を開く。
「君なら見えていたかい? 青年。目の前に幸福があってなお、周りを見るだけの余裕があったかい?」
青年は思い出した。自分が振り返ろうとしていたことを。
そして思った。あの時振り返っていたら、どうなっていたのかと。
「あんたは、あんたは最悪の爺さんだ」
青年は唾棄した。
「あんなものを見せられて、立ち止まれるわけがないじゃないか」
今にも走り出したく、逃げ出したくなる気持ちを抑えて、言い捨てた。
「なら、歩けばいい。走ればいい。立ち止まりたくない。食われたくない。それ以上の理由が必要かね?」
青年の苦しみが、それで解氷したとは言えないだろう。
むしろ、より重くなかったかもしれない。
しかし青年は、また歩き出した。ただ化物に食われたくはないと、その一心で。