短編集「胎内の海」
誠一がその事を知ったのは明け方、午前5時のことだった。郵便屋が午前4時に、家に郵便物を届けた。スコン、と蓋が閉じる音とバイクが走り去る音で、たまたま目が覚めて誠一は一階へと降りた。
誠一の両親はよく眠っていて起きる気配がない。仕事で疲れている二人を起こさないように足音を忍ばせ、郵便受けへと向かった。
郵便受けを開けると、茶色い封筒が中に入っている。なんだろうと呟き、それを引っ張り出す。辺りは薄暗く、誠一は封筒の表を見ては顔をしかめている。茶封筒を明るい場所まで持ち歩き、宛名を確認すると彼の父親宛てのようだった。しかし、その封筒の端に印刷されているロゴをじっと見つめた後、誠一は封筒を自室まで運んだ。
彼の名前は藤川誠一。17歳、現在有灘高校3年、パソコン部の部長でもある。有灘高校は県内では有名な進学校で、中学で成績の良かったものが通う高校「ユウコウ」として知られている。有灘高校は昨年、全国プログラミングコンテスト団体戦で優勝した高校で、誠一の力が優勝に大きく荷担していた。誠一自身も個人で第四位の実力者だった。
誠一は幼少の頃からパソコンが好きで、父親に基本を教わった次の年には、父親以上にパソコンに詳しくなっていた。
「デジタルネイティブには敵わないなあ」と父親は言い、母親もその才能に驚いていた。
両親は平日共働きしている。誠一が子供の頃、学校から帰ると家に誰も居ないことが多く、それを少し寂しく感じていた。しかし休みの日は一緒に過ごしたり、県外に遊びに行くこともあり、家庭環境は良好だった。
誠一が思春期になっても両親は相応の態度で接して、特には大きな問題もなかった。しかし誠一は小学生時代、一度だけ大きな反抗をしたことがあった。
「たいち君もお姉ちゃんがいるんだよ?」「はるかちゃんだって弟がいる!」「なんでぼくには兄弟がいないの!?」という反抗で、当時の誠一は何度も「欲しい」と言っているのに対し、言葉を濁されるばかりの返事に癇癪を起こして大いに喚いた。
今となっては、誠一にとって少しおかしな思い出のひとつだ。
誠一はその時以外に、親を困らせるようなことはなかった。
部屋に戻った誠一は、茶封筒の端のロゴをよく観察する。そこには「日本財団」と記載されたロゴがある。封筒を裏返すと『はっぴぃゆりかご部門担当 岡崎修司』と記されていた。
分からないことは調べる性分の誠一は、すぐにパソコンを起動させた。いくつか改良された誠一のノートパソコンは即座に立ち上がり、ログイン画面を表示する。誠一は軽やかなブラインドタッチで、自分のアカウントのパスワードを打ち込んだ。デスクトップ画面に、色鮮やかな海岸の壁紙が表示される。誠一は少し待ってから、慣用したブラウザアイコンをダブルクリックして検索窓のあるホームを表示する。
そこに「日本財団 はっぴぃゆりかご」と入力した。
検索をかけると「はっぴぃゆりかごプロジェクト」というものが一番上にヒットした。誠一はすかさずそれを選択し、そのページを表示した。
『全ての子供には、あたたかい家庭で過ごす権利がある』というキャッチコピーが誠一の目についた。そしてそのすぐ下に「日本財団 THE NIHON FOUNDATION 特別養子縁組」と――――。
誠一はそれを見て、一瞬唖然とした。しかしその直後から誠一は顔を強ばらせながらも、いろいろと調べ始める。両眼を画面上から下へと走らせ、マウスでページをスクロールさせて、一心に読み入っていた。
大部分を読み終わると、誠一は堅い表情のまま溜め息をついた。
「特別養子縁組……か、なんでそんなところから郵便が……」
ここでの特別養子縁組とは、何らかの事情によって子育てが出来ない家庭の6歳未満の子を、別の家庭で育てるといった内容である。その際には、以前の家庭と子供の縁は完全に切るようになっている。
「子供にはあたたかい家庭で過ごす権利がある……か」
誠一は右手で顎を触りながら、茶封筒にもう一度目をやった。現在は5月7日、誠一は5月8日が誕生日だ。明日18歳になる。誠一にはおおよそ偶然とは思えなかった。
誠一は封筒に手をかけた。赤字で「重要書類在中」とも書かれていることに更に疑念を抱く。この封筒の中身が誠一に何を示すのか、真実を語るのか、安堵を招くのか。誠一は大いに昏迷した。何をどう捉えて良いのか判断がつかず、苦悩した。
封筒は一度開けたら戻すのに多大な労力が必要そうである。また丁寧に直しても、開けたことを悟られる可能性もある。
誠一にとって、それはパンドラの匣のようだった。
パソコンの電源を切る前に見た時刻は4時30分。現在は4時54分。午前6時には誠一の両親は目を覚ます。
17歳の誠一は――――。
誠一は、パンドラの愚を犯した。
ただ、すぐには匣を閉めず、内のもの全てを熟読し、解釈し、理解した。
「そう……だったのか」
誠一はそう一言漏らし、窓から僅かに見える海を眺めた。その瞳は幽かに揺れて、炎の揺らめきにも見えた。
誠一は封筒の糊を丁寧に張り直して、郵便受けの中に戻した。後20分もしないうちに両親は目覚めるだろう。誠一は学校へ行く支度を始めた。
誠一は理系の進学希望のクラスで、その中でも数学では群を抜いている。
今日は先日終了したテストが返却される日で、誠一は満点を取っていた。
しかし誠一の心は無彩色の空のようだった。
授業が終わり次第、誠一はすぐに部室の第3PC室へ向かった。部員はまだ一人も来ていない。そのことを確認した誠一は鍵を開け、電気もつけずに無造作にパソコンを一台選んだ。
そのパソコンの起動シークエンス中に、誠一は入り口の鍵を閉めた。
誠一はパソコンが起動したのを見て、ポケットから一本のUSBメモリーを取り出した。
第3PC室の正面で他の部員たちが、鍵の持ち主である誠一を待っている。誠一はカーテンの隙間からそれを視認した。スリッパを脱ぎ、靴を手に持って誠一はベランダに出た。隣の部屋は第三3PC準備室で、そこの窓の鍵が故障しているのを知っているのは誠一だけである。
誠一はいかにも最初から準備室に居たように装って、鍵とキーボードを片手に準備室から現れた。
「あ、先輩、準備室にいたんですか」
「あぁ、ちょっと用事があったからな」
誠一の後輩についで、同級生の三村が声をかける。
「藤川~開けてくれ~」
「今から開けるよ」
誠一はPC室の鍵を取り出して鍵穴に挿し、左に回した。
ガチャリと音を発して、扉は開いた。
部活が終わり、誠一以外の部員は皆帰宅を始める。誠一はPC室のパソコンをぐるりと見回して、自身も帰る準備を始める。誠一が手を加えた一台のパソコンには故障中という紙が画面に貼付されていた。
PC室は室内の蛍光灯が切られ、闇に包まれる。誠一によって施錠もされて――――。
家に帰った誠一は、課題、夕食などを終え、いつもならば明日に備えて寝るのみである。しかし誠一は自分のノートパソコンを机に置いて、作業を始めた。
「学校のパソコンにバックドアを作った……これで万が一ハッキングがバレても、個人の特定はされにくいだろう」
誠一は、事のあらましを追及したかった。何が原因なのか、何を考えていたのか、それらを明らかにしたかった。
そして思い至ったのが、ハッキングだった。
誠一は机の引き出しから、ひとつの黒い四角形のハードディスクを取り出した。それを情報端末同士を繋ぐケーブルで、ノートパソコンに接続した。
キーボードを何度か操作した後、画面に物凄い速さで何かのプログラムが表示されていく。それが5分程度続いて、自作のハッキングツールはその中のひとつを検出し、流れていた表示が止まった。誠一はそのひとつを選択し、画面だけを見てキーボードを高速で弾き始めた。
すると途中で、警告のウィンドウが表示された。誠一は表情を変えずに、一筋汗を垂らして考え込んだ。数秒で誠一は行動を再開した。別のUSBメモリーを左のUSBポートに挿し込んだ。
再び警告音と共にウィンドウがいくつか表示されるが、誠一は意に介する様子もなくキーボードを弾く。すると次第に警告は消えていき、誠一はふっと息をはいた。
30分後、誠一はとうとう目的のものを見つけ出した。
「藤川誠一……、俺の名前だ。やっぱりあるんだな。
生後2ヶ月の時、藤川秀造、藤川晴子夫婦に養子縁組み……」
誠一はゆっくりと瞬きを繰り返した。そして顔を引き締めて、画面を見た。
「相宮奏……より引き取り、その後絶縁手続きをし、特別養子縁組として――――」
震える声で「相宮奏……」と誠一は呟いた。
そして誠一はハッキングを続け、相宮奏の現住所を見つけることに成功した。誠一が住んでいる県から二つ隣の県である。新幹線を乗り継いで行けば、一時間程度の距離だ。誠一は暗い部屋の中、その住所をメモ用紙に書き写した。静けさが立ち込める夜に、誠一が外を眺めると、遠く――灯台の光が黒い海を照らしていた。
そして、今回のハッキングの痕跡を消し去って、パソコンの電源を落とした。
学校の第3PC室では、暗闇の中からひとつの点灯が消えたのだった。
誠一は夢を見た。テトラポットの隙間に落ちるという内容だった。誠一の身体は小学生くらいに戻っていて、両親がこっちを見ている。防波堤の先端で潮風に吹かれながら、誠一は母親にこう言うのだ。
「お母さん、きょうだいがほしいよ」と。
母親は困った顔をしながら誠一に近づく。すると突風が吹き荒れ、それに煽られた誠一の体は堤防の側の波消しに落ちてしまった。
何とか無事だった誠一は立ち上がろうとするが、足を滑らせてテトラポットの隙間に入ってしまった。
波消し効果のあるテトラポット内部は、潮が押し寄せる度に複雑な流れができる。潮が引き下がる度に強く内側へ内側へと戻される。
小学生の誠一の体は翻弄され、まともに息もできず、死の恐怖に壊れそうになった。ここで死ぬんだと思った。
すると、急に目の前が明るくなった。誠一の父親が真っ赤な顔で手を伸ばして、誠一を少し引き上げている。しかし自分も落ちてしまわないよう、足を踏ん張って届く距離には限界があって、誠一の顔を海面から出すだけで既に精一杯である。父親は母親に助力を求める。母親は首を振るばかりである。
父親の握力が尽きて、誠一は再び海の波の中に投げ出された。その中で母親の声を聞いた。
「私はその海とは別なの、それだけは許して」
誠一が目を開けた数瞬の後、目覚ましのアラームが鳴り響いた。誠一はアラームを止めた後、寝汗で濡れたシャツを脱ぎ捨てた。
誠一は朝食を終えた時、母親に話しかけられた。
「誠一、今日誕生日ね、おめでとう」
「ありがとう母さん。あ、そろそろ準備して出るよ」
「気を付けていってらっしゃい」
「うん、じゃあいってきます」
誠一は通学路で、18歳になったら伝えるつもりだったのだろうかと思った。
授業が終わって部室へ行き、故障中と書いた紙を誠一は剥がした。他の部員が来る前に、USBメモリーを挿し、このパソコンへのバックドアを痕跡を残さず消した。誠一は手に握ったUSBメモリーをぼんやりと眺めた。数分後に、他の部員は三々五々と固まって来ていた。
誠一が家に帰ると、いつもより豪華な夕食が待っていた。父親も早く帰宅しており、誠一を待っている。誠一は自室で上着だけ脱いで、一階へと降りた。
一階のリビングには誠一の両親が席を揃えている。今日は金曜日で、平日に3人で食事をするのは久しぶりだった。いつもは誠一の父親がいない場合が多く、時折母親もいない時もある。誕生日でもどちらかが欠けている年もあった。誠一は何か特別な雰囲気を感じ取っていた。
母親が食事を勧め、テーブルを囲んで食事をする3人。徐に父親が話を始める。母親もそれに参加し、誠一も加わる。会話が途切れ、そして不意に話題が転換した。
「あ~……、そうだ誠一、話しておかないといけないことがあったんだ」
「どうしたの父さん」
誠一は少し顔を強ばらせたが、母親が提案をする。
「お父さん、どうせ残り少ないし、食べ終わってからにしません?」
「それもそうだな」
母親の考えで、皆が食事を終えてから話すことになった。
食器をシンクに持っていき、皆が席につく。誠一はいよいよか、と心構えした。
「話なんだがな、誠一……お前は実は養子なんだ。といってもお前が生後すぐだったし、前の親との縁も切れている。まあ実質うちの子と言って問題はないんだけどな」
「そ、そうだったんだね」
「誠一が18歳になったら話すって、お父さんと決めてたの。誠一……あまり驚かないのね」
「まあ、ずっと過ごして来たし、これからなにか大きく変わるわけでもないんだし、知っておくって感じ……っ、あれ……?」
誠一は、喉の奥に何かが込み上げて、うまく話せなかった。
「誠一、そ、そんなにショックだったか……?」
誠一は頭を振った。
「ちが……っ、ちゃん……っと、心の準備も、して……っ」
すると母親ははっとした表情になった。
「誠一、あなたやっぱり封筒を……!」
誠一はギクリとして、顔にそのまま出てしまった。
「いや、あれだけ内容で……誠一、まさか調べたのか!?自分のこととはいえ、ハッキングは犯罪だぞ!?」
誠一は急に涙が溢れて、何も言えなかった。
自分の考えをそこまで理解している父親が、些細な違いを感じとる母親が、長い時間共に過ごし、家族だった両親が、本当の「父さん」と「母さん」ではなかった。誠一にとってそれは、誠一自身が考えている以上に、誠一を傷つけていた。その事が、一日二日のうちに雪崩のように流れて、心が全然追いついていなかった。
実際に両親の口から言われて、初めて誠一は自身の感情が決壊寸前で、今まさに崩れていっているのを知った。
もっと自分を俯瞰できていると思っていた。両親の前で泣くなんて、思ってもみなかった。
誠一はここに居ることが耐えられなくなって、そのまま家を飛び出した。
上着に入っていた携帯端末は、上着ごと家に置いてきてしまった。などと考えながら、誠一はポケットの財布の残高を確認していた。五千円札が一枚と千円札が二枚入っていた。
誠一の両親は、何も間違ったことをしていないし、言っていない。むしろハッキングなど、過ちを犯したのは自分の方だ。と誠一は頭では理解している。親は親なりに考えての行動で、それも間違えていない。それを間違っているようにして、事態を大きくしたのは誠一で、誠一はその事を悔やんでいた。しかし頭でいくら考えて、自分の過ちを悔いても、家には戻れる気がしなかった。
誠一は財布の中に、一枚紙切れが入っていることに気がついた。その紙は、相宮奏の住所を書いたメモ用紙だった。ふらふらと歩いていた誠一は、駅の近くに来ている。
誠一は夕陽の輝きが落ちていく中、決意をした。
新幹線に揺られ、二つ隣の県に着くと、誠一は遠くに来てしまったのだと感じた。辺りは夜の風景となり、少ない街灯だけが頼りだった。片田舎と呼べるその駅から、より住所に近い駅で降りた。
更に暗い場所で、大体100メートルおきにぽつんと電灯があるだけである。「ここから徒歩で行ける距離だ」という駅員の助言通りに、誠一は小高い丘の上の一軒家を見つけた。
誠一が丘を登ると、柔らかな光が家から溢れていた。そこから見える景色は自然が豊かで、雑木林や酢橘畑がある。そこを越えると海岸線が広がって、広大な海が見えた。暗く、見通しが悪くとも、波の音は微かに聴こえてくる。誠一はなんだか胸が苦しくなった。
誠一がインターフォンを鳴らすと、少しして男の人が玄関の扉を開けた。
「どちら様ですか?」と男に尋ねられ、誠一は少し詰まりながらも「相宮奏さんはいらっしゃいますか」と返した。
また少しして、女の人が現れた。
その女性は一瞬目を見開き、息を呑むような動作をした後に、少し震える声で
「藤川……誠一君でしょうか?」と言った。
その女性の後ろには小さな女の子が二人、母親の陰に隠れるようにして覗いていた。
玄関先から客間に移動し、誠一と男性と女性は話し始めた。
「君が藤川誠一君か、奏に話は聞いていたよ。そうか、会いに来たんだね」
「はい。縁は切れているそうですが、どうしても聞きたいことがありまして」
「聞きたいことですか……?」
「はい、単刀直入ですが……どうして僕を特別養子縁組に……?いえ、恨んでいるわけではなく、純粋に知りたくて」
「あ……、はい、誠一君には知る権利がありますよね。少し長くなりますが良いでしょうか」
「はい。お願いします」
「えっと、ではまず――――」
誠一は聞かなければ良かったかもしれないと思った。酷い話だったのだ。
まず、パソコン関係の仕事に就きたいと考えていた大学生の相宮奏は、気の弱い女性だった。今でも美人で、男に言い寄られて断るのに苦労したことがありそうだ、と誠一はその時点で思った。
実際そういうことが何度かあったそうで、なんとか逃れていた。そこに強引な男から誘いを受け、断ることが難しかった。困った結果、大学や警察にも相談をした。すると男は厳重な注意を受け、それに対し憤った。ある日男は帰宅途中の相宮奏を、車で拐い、強姦した。それだけでなく、男はその時の写真や動画を撮影し、脅迫した。「これを晒されたくなかったら黙っていろ」と。相宮奏は放心状態で、休学届けを出して家に閉じこもった。相宮奏が違和感を覚えたのはそれから3ヶ月後だった。お腹が膨らみ始めていた。最初は外にほとんど出ず、引きこもっていたため太ったのだと思った。しかし、ふと冷静になって考えると妊娠という考えが頭に過った。相宮奏の思考はそこで停止する。そこから妊娠6ヶ月
が過ぎて堕胎することも叶わなくなった。地獄の海にできた深い深い海溝ような悲傷が、相宮奏の心を引き裂いていた。結果、産婦人科に駆け込み出産のような形で――――。
もちろん育てられるはずもなく、産婦人科の医師に相談した。医師は親身になって、解決策を探ってくれた。そしてたどり着いたのが、特別養子縁組だった。そして誠一は、藤川夫婦に引き取られ、藤川姓となった。
そしてこの話には続きがある。当時、相宮奏は男性恐怖症に陥っていた。しかし相宮奏が唯一話せる、医師の献身的な扶翼によって、相宮奏は徐々に回復していった。数ヶ月後、再び大学に通うことも叶い、相宮奏は卒業後、ネットセキュリティの会社に就職した。その後相宮奏は産婦人科の医師に求婚し、両者は結婚した。現在は篠原姓で家庭を築いている。子供も産まれている。
篠原奏を襲った男は、逮捕されたそうだ。
篠原奏は話を終えると、悲しい顔をして誠一を見つめた。誠一はその瞳に少し怯えた。誠一の感情は、ひどく不安定になっていた。
夜も更け、帰るお金も少し足りない誠一を、篠原家は一晩迎え入れた。篠原家の娘二人は、大人しく純粋な子で、見ていてまた胸が苦しくなった。
その晩、部屋の都合で誠一は篠原奏の夫、篠原徹の部屋で眠ることになった。篠原徹は床に布団を敷いて、誠一はベッドで横になった。
すると篠原徹が、話しかけてきた。
「なあ誠一君、君は藤川家では不幸だったのかい?」
「いえ、両親は共働きですが、僕のことを放ったりせず、きちんと目を向けてくれます。幸せな家庭のひとつだと思います」
「そうか、君はちゃんと幸せだったんだね」
「はい」
「……ひとつ、失礼なことなんだけど、お願いがあるんだ」
「なんでしょう」
「……奏は、君の……その、少しだけ癖のある髪を……怖がっているんだ」
「…………」
「……人道に欠くようなことだとは分かっている。だが、もうここには来ないでくれないか」
「……はい。今日も、突然押し掛けて……申し訳ありません」
「いや、悪いのはこっちなんだ。すまない、恩に着る」
誠一は泣きたい気持ちになった。しかし、涙はもう出なかった。
翌朝、誠一は篠原奏の作った料理を、込み上げる何かを押し戻すように掻き込んだ。
食事を終えた誠一は「何かあったら」と、篠原奏にメールアドレスと電話番号を渡された。誠一は昨日の晩のことも考え、断ったが半ば無理に渡された。代わりに誠一も、ネットのアドレスを紙に書いて渡した。そして、篠原徹の自動車で家の近くまで送ってもらった。
しかし誠一はそのまま家に帰らず、近所のネットカフェへと向かった。
誠一はネットカフェで三時間パックを取った。最初の一時間はネットゲームに勤しみ、残りの二時間を篠原奏の事件の情報収集に使用する。
しかし調べられることには限界があり、誠一は項垂れた。名前だけでもと思ったが、それすら検索エンジンにヒットしなかった。
篠原奏に名前を聞いておけば良かった、と誠一は思う。そして警視庁にハッキングを仕掛けようと考えるが、誠一の技量を越えている。せめてどこかの県の警察署であれば可能だ。しかし、篠原奏が通っていた大学がどこか分からない。誠一は、自身の力では手詰まりとなった。
誠一はドリンクバーでコーヒーを淹れ、それを飲みながら思案に耽った。その結果、誠一は篠原奏に直接聞くことを決断した。早速メールサービスのあるブラウザにログインする。電子メールくらいであれば篠原徹も大目に見てくれるだろうと考えた。すると、誠一のアドレス宛てに新着メールが一件届いていた。
アドレスブックに登録されていないアドレスからだったが、その文字列には見覚えがあった。
「これ……篠原奏さんの……」
そのメールには件名に「篠原奏」とだけ記されていた。
『藤川誠一君へ
私の考えではあなたは今、私の事件の加害者を調べているだろうと思います。
私が一度だけ、母親らしいことを言うなら「やめなさい」と言うでしょう。
しかし私はもう十数年前もから、あなたの母親ではありません。
なので、それを止めることはしません。
そしてあなたには、知る権利があります。私が事件に関する記事を全て消去しているため、普通にしたのでは探しだすのは不可能でしょう。
この画像ファイルに事件の概要を載せてあります。
男の現住所も載っています。
〈kanaaimiyaprofiled.img9937〉
もし、私の勘違いであればファイルを開かず、メールごと破棄してください。
篠原奏』
誠一は顔をくしゃりと歪めた。現在、婦女暴行をした男性は現住所を申請する義務があり、それは警視庁によって管理されている。つまり篠原奏がそれを知っているのであれば、篠原奏は警視庁にハッキングを仕掛けたことになる。またネット上において、事件情報のクラッキングも行っている。誠一の耳にはざわざわと波の音が聞こえた。
事件の概要は、昨日の話をさらに短くまとめたような内容だった。そして男の写真と現住所も記載されていた。男は中川拳という名で、短い茶色の頭髪に癖のある毛がうねっていた。身長は181cmと高めで体重は79kgとがっしりとした体格のようだ。目がつり上がり、眉も細い、だが顔の彫りは深く、奸悪な風貌だった。
住所は篠原家とは逆方向の隣接県で、県境に近いためここから電車で30分程度で着く距離だった。
誠一の両親は土曜日も仕事がある。そのため、夕方までは家が空いていることが多い。しかし、昨日家出するように誠一は出ていってしまった。親も心配して残っているのではないかと誠一は思った。
しかしその予想は外れ、家には車が一台も駐まっていなかった。誠一は郵便受けの中の、小さなケースを手に取った。それは四桁の番号がある、中に何かを収納できそうな小箱だった。誠一は暗記しているその番号に合わせ、中から家の鍵を取り出す。その鍵で誠一は家の中へと入った。
家の中は薄暗く、なにか良い匂いがした。リビングへ行くと、そこにはメモ用紙と食事が並んでいた。メモには
『誠一へ
お帰りなさい。
そして驚かせてごめんなさい。お父さんも、急にいろいろ言ってすまない、と言ってましたよ。
帰ったらお腹が空いているだろうから、ご飯を作っておきました。温めてから食べてね。
お母さんたちは、誠一のこと本当の子のように思っているからね。普段通りに接してくれて構わないからね』
と書かれていた。
ラップがかけられたハンバーグはすっかり冷めていた。しかし炊飯器の中にはご飯があって、鍋の中には味噌汁があった。
当たり前のような光景が、今はとても温かく感じた。
誠一は服を着替えて、取っておいたお小遣いからいくらか引き出した。携帯端末をポケットに入れ、メモに『ご飯美味しかったよ、ありがとう。ちょっと出掛けてくるね』と書き残して、誠一は外に出た。
誠一は電車に乗って隣の県に向かう。海岸沿いを走る電車から吹く風は、潮の香りがついていた。
誠一が電車を降りてその住所の近くまで行くと、陽が傾く時間だった。夕方の雲が橙色の空を流れている。ここは、そんな風景には目もくれず行き交う人々で溢れていた。
一種の繁華街なのだろう、その場所は様々なお店が立ち並び、中には怪しげなお店もある。居酒屋が多く、この時間は店に入っていく客が多い。誠一は場違いな空気を感じて路地裏へと逃げるように入った。
狭い路地裏は迷路のように入り組んでいて、誠一は目印である高いビルを見失わないよう必死だった。抜け出そうにも複雑で、なかなか出口が見当たらない。誠一が辺りを見回していると、ようやく大通りへの出口を発見した。すると、その出口付近に男と女が話をしていた。
誠一は目を疑った。その男は、かの中川拳だったからである。写真より若干老けているものの、白髪が混じる毛髪は癖があり、毛先がうねっていた。誠一は自分の髪を触ってみる。毛先がくるりと外に跳ねているくらいの癖毛で、誠一は似ているとは思わなかった。
その男が話している女は、大人しそうな外見の少女だった。誠一と同じ高校生くらいで、長い黒髪が特徴的な少女だ。よく見ると少女は困った顔をしている。誠一は即座に悟った。中川拳が篠原奏にしたことと、同じことをしている、と。誠一は思うより先に体が動いた。助けなければと考えた時には、中川拳の前に立っていた。
「連れに何か用か?」と少女の横で中川拳を睨む。
すると中川拳は下卑た薄笑いを浮かべて答える。
「はぁ?俺はこいつが一人で歩いてきているのを見てたんだよ。それともなんだ、お前正義の味方気取ってんのか?なあお嬢ちゃん、こいつ知り合いか?おい!どっちだ!?」
少女は張り上げられた声にびくついてしまう。誠一と中川拳を怯えた挙動で見回している。
「なぁ!聞いてんだよ!?答えてくれよお嬢ちゃん!」
「ひ……っ!」
誠一はこの男を余計に嫌いになった。暴悪なやり口に憎悪すら覚えた。このままでは埒があかないと誠一は即断し、少女の手を握った。
「……走って逃げるぞ」
少女に囁き、目配せをした直後、二人は男を突破して大通りへと走り出る。風を置き去りに、二人は繋いだ手を離さずに駆けた。少女は誠一の速度に合わせて、懸命に走っている。誠一は追いかけてくる中川拳への厭悪でいっぱいだった。
数分走ると、中川拳は追いかけてこなくなった。誠一も少女も荒い呼吸を繰り返して、そして立ち止まる。少女は誠一を少しずつ見て、そして目が合うとすぐに逸らした。
誠一が話を聞くと、少女は買い物をして帰る途中に中川拳に言い寄られたらしい。少女が断り倦ねていると次第に強引になり、路地裏へ連れ込まれそうになった。そこに誠一が現れ、助けてくれなければ今ごろどうなっていたか分からない。と少女は深々と頭を下げる。
「本当にありがとうございました。その、今度お礼に……」
「いや、別にいい」
「そ、そうですか、すみません」
「じゃあ気を付けてな」
「はい。またいつか会いましょう、ありがとうございました」
少女は何度かこちらを振り向きながら、去っていった。誠一は夜の帳が降りゆく街に振り返り、男の行方を追った。
住所の場所へ行くと、古いアパートが建っていた。鉄が所々錆びており、赤茶けた風体と側の点滅する電灯が、誠一には煩わしく感じられた。
中川拳の部屋の電気は付いていない。誠一はどこかに出掛けているのか、と思った矢先、背後からぶつぶつと不機嫌な声がした。
誠一は近くの物陰に身を隠す。声の主は足を引き摺るように歩き、誰かの悪口をぼやいていた。電灯がぴかりと瞬いた時、その男の顔が照らし出された。誠一の考えていた通り、その男は中川拳だった。
中川拳は酒に酔っているようで、ふらふらしながら自室へと向かっている。誠一は気づかれないよう後ろからゆっくりと追う。鍵を取り出し、錠を回したところで、誠一は中川拳に呼びかけた。
「おい、お前は中川拳か!」
「はぁおめぇは誰だよ……ったく、確かに俺は中川拳だ。何の用だぁ?」
電灯の光は安定しない。中川拳は夕方に会ったのが、今のいる誠一だと判別できない。
「お前に聞くことがある!」
「まあ誰だか知らんがぁ、大家がうるせえから話すにも、はいってからにしろや」
そう言って中川拳は玄関のドアを開いて、部屋のなかに入った。誠一は一瞬躊躇した後に、玄関先で止まり、ドアを閉めた。中川拳の部屋は汚く散らかっていた。中川拳は物を蹴飛ばし、少し入ったところに電気をつけて座る。すると誠一のことを思い出し、顔をしかめた。
「はぁ?なんでおめぇがここにいるんだ!?殴られに来たのか!?あぁ!?」
不意に凄んだ中川拳に、誠一は気圧されそうになりながらも言葉を続けた。
「うるせえ、お前は相宮奏って女のことを覚えているか?」
「はぁ?誰だそいつ」
誠一は苛立ち、舌打ちをする。
「お前が逮捕されるきっかけとなった女性だ」
「あぁ……、その女はよぉく覚えてる、そいつ相宮って名前だったのか」
「覚えているんだな?じゃあ――」
「――あいつはすげぇいい女だったよ。締まりも最高でなぁ、ありゃ見込んだ通りの処女だったなぁ。誰もいない山奥で泣き叫ぶんだわ、助けも来ねぇのになぁ。股間から血ぃ流してよぉ……最高だったなぁ。中に出すって言ったときはもう、抵抗してな、でも弱えぇんだ力が。つき倒して、背を向けさせたあと、髪を引っ張りながら中に出したときゃあ、気持ちよかったなあ。
それなのに二年後くらいに急にあの男が……そうか、恋人か。また捕まってもいいから、住んでるとこ調べて、あの男の目の前であいつをまた犯し――――」
立て続けに喋る中川拳に――誠一は憤怒に狂った。
誠一は頭が真っ赤に熱くなり、腕を顔面目掛けて思いっきり振り抜いた。ごぎっと鳴り、中川拳は後ろに仰け反った。中川拳は眉間に皺を作って、誠一を睨みつける。中川拳は床に落ちていたビール瓶を、誠一に向けて投げつけた。しかしビール瓶は誠一に当たらず、壁にぶつかってガラスを撒き散らす。中川拳は酔っていて、誠一に分があった。誠一の激昂は治まらず、反撃に出る。もう一発、今度は頭を、脚で力任せに蹴り込んだ。中川拳は横に飛び、真っ黒なフライパンと共に床に崩れる。すると、中川拳は急に側面の扉を開け、そこから包丁を取り出した。
誠一が一瞬怯む。中川拳は包丁を握って、見せびらかすように誠一に接近してくる。中川拳の頬が歪につり上がる。
誠一は後退りしながら、玄関に太いロープが落ちているのを発見した。
そのロープを握り締め、誠一は前に出た。対して中川拳がびくりと体を震わせる。誠一は止まらない。遂に包丁を振れば当たる距離になった。中川拳はやけくそに包丁を振り下ろす。
誠一は弛ませたロープを正面に構えた。すると包丁はロープを切断することなく止まった。誠一は隙を付き、包丁を絡め取る。
中川拳は情けなく悲鳴を上げながら、部屋の奥へと逃げていく。誠一はロープを携えたまま、追いかける。最奥で中川拳は逃げようと必死にベランダへのドアを開けようとするが、手元が覚束なく、失敗している。
誠一は、脳髄の痺れを感じながら、衝動のままに、中川拳の首にロープを回した。
誠一は部屋の天井に工具を通し、ロープに輪を作って、男の足元に椅子を布置した。男の筆跡に似せ、書き殴ったような遺書を偽造した。ビール瓶の破片は適当に一ヵ所にまとめておいた。
誠一は鍵を閉め、ドアの郵便受けの中に入れて、部屋を後にした。
誠一は人を殺した。死んでもいいような人間だった。しかし、罪に問われ罰を受けるだろう。そう考えると、誠一は世の中がどうでもよくなった。自分に正しさは無く、世界も正しいと思えなかった。復讐を果たした後は、全てをやり終えてしまったような、疲労感を覚えた。
そして遂に、誠一には帰る場所が無くなった。
何も考えずに歩いていると、海岸沿いの線路まで出た。波が静かに音を発している。
夜の海は真っ黒で――――。
誠一は、靴も脱がずに海の中へと踏み出した。
『ああ海よ。私の海はどこにもなかった。
ああ海よ。母なる海よ。』
誠一の謎の行動力については何も言わないであげてください。やっぱり人物を動かすのは難しいですね。