第四十九話・「今までありがとな」
午後のかげり始めた日差しが、カーテンの隙間から入り込む。
ベッドの上、少女の小さな体が、暖かい日差しとは別に熱を帯び、小刻みに震えていた。やってくる感情の高まりに興奮を隠せない。ともすれば溢れそうになる歓喜を、どうにかのど元で押しとどめる。しかし、それでもこらえきれずにまろび出てしまう高い声が、ベッドの上にカーブを描いた。
汗ばんだ額。こぼれ落ちる汗。頬を伝い、のどから鎖骨へと抜けて、胸元へと入り込んだ。
「……お、お兄ちゃん……マキは、もう、イっちゃいますよ……?」
震える声で、兄の前髪に触れる。マキの目の前で一心不乱に目をつぶり続ける兄が、決意にも似た熱い息を吐く。
「ああ、イっていい……そのままイってくれ……!」
汗ばむ兄の頬。マキはもう止まることが出来なかった。
自分の行為を途中で止めることなど出来なくなっていた。
「分かりました。お兄ちゃん……イっていいんですね? マキは……イっていいんですね? マキは……マキは……イっちゃいますっ!」
握りしめた拳。耐えられなくなったようにさらに強く握りしめられる。
高鳴る胸、込み上げてくる興奮の波。
寄せては返し、返しては寄せる。徐々に気持ちをを高ぶらせる二人。さざ波だった感情が津波と化し、ついには白光が二人を飲み込んでいった。
――ちょきん。
糸の切れた人形のように、そのときを迎えた兄の体から力が抜けていった。
「あ……ああう……。マキは……イってしまったのです…………」
「そうか……イったのか」
ベッドの上で激しい呼吸が繰り返される。熱い吐息をこぼし、マキは体が予想以上に高ぶっていたことに気がつく。熱い。胸の鼓動はまだ収まらない。
ついに……シてしまった。
今にも燃え尽きてしまいそうなぐらいに。
一つの行為が終わりを告げたところで、マキの体にはどっと倦怠感が押し寄せていた。ほてった体をどうにか起こして、潤んだ瞳で兄の顔を見つめる。
「お兄ちゃん……。お兄ちゃんは、前髪がなくなっても相変わらず素敵です! 思わず抱きつきたくなってしまいますっ! そう! こんなふうに――ぎゃ!」
ベッドに腰掛けた兄に後ろから抱きつこうとするが、顔面を手のひらでロックされて全く近付くことが出来ない。ばたばたと手足を動かすが、兄は全くもって相手にはしてくれなかった。力尽きたマキの手から、ハサミがぽとりと落ちる。
「ん~……前髪がないとさすがにスースーするな……そのうち慣れる……か?」
ハルはハンドミラーを駆使して様々な角度から自分の顔を確認している。真っ白なエプロンの上には、切り落とされた長い前髪。目を覆うほどの長さにあった前髪は、今やハルの一部ではなくなった。以前よりも視界が開け、大げさではあるが、世界が変わったようにさえ見える。
「しかし、マキ……これは切りすぎじゃないか……?」
短くなった前髪をつまむハル。目元を完全に覆っていた前髪が、眉毛にも届かない。
「そんなことはありません! お兄ちゃんにはそれぐらいがちょうどいいはずです! ……マキが、マキが切ったんですよ? マキが初めて、お兄ちゃんをマキ色に染めることが出来たのです……! これは快挙です。歴史的な一歩です!」
ガッツポーズが飛び出す。
絶壁にぶつかる高波を背負うマキ。砕けた波が、勢いよくしぶきを上げる。もちろん、それはハルの錯覚だ。
「ああ、見れば見るほど…………ハァ……ハァ……お兄ちゃん……マキは、今にも嬉しさに昏倒しそうですっ! もっとよく、もっとよくお兄ちゃんの顔を見せてください……あわよくばキ、キス――ひぎゃあっ!」
唇をタコのようにとがらせ、生暖かい息を漏らすマキの頂点に、容赦なくエルボーを落とす。マキは頭を赤い髪留めごと押さえて、ベッドの上でごろごろとも悶え苦しんでいる。
涙が果てなく流れ出していた。
「お、お兄ちゃんの鬼……! 人でなしですっ!」
「黙れ、変態が。前髪を切るぐらいでいちいち大げさなんだ、お前は。前髪を切るだけなのに……へ、変な声をだしやがって……」
「あ……まさかお兄ちゃん……想像しちゃったんですか……?」
「……何をだよ」
憮然とするハルだが、頬がほのかに染まりつつある。前髪で顔を隠そうとするが、それは徒労に終わる。何度も助けてもらった前髪とは決別したのだ。今更助けてと言っても、もう遅い。ハルは動揺を隠しきれず、視線を追いかけてくるマキに甘んじて捕まってしまうのだった。
「そ、れ、は、も、う……マキとあーんなことやこーんなことで、あっちっちーでえっちっちーなことです、よっ!」
腰元に抱きついてくるマキの力を利用して、払い腰で床にたたき伏せる。あまりのスムーズな迎撃に、受け身をとれずに背中を打つマキが、海老反りになって昏倒する。
「お、おおぅ……お、お兄ちゃん……今の一連の流れは……オリンピック級ですっ……!」
無視。
エプロンのひもをほどき、切り落とされた髪の毛をゴミ箱へ。
「ああっ! もったいないっ! その前髪は、マキが白紙に包んで丁重に保管します!」
「俺は切腹した侍かっ!」
ゴミ箱をあさろうとするマキの首根っこをつかんで、ドアの外に放り出す。
「……しくしく……いいんです。マキはそれがお兄ちゃんの優しさだって分かっているんです。優等生がたまに悪いことをすると、あ、こいつは実は悪いやつだったんだ、って言われる一方で、不良がたまに善いことをすると、あ、こいつは実は良いやつだったんだ、っていわれる感じで、お兄ちゃんが時々見せる優しさでマキはすぐに救われてしまうのです……! 今までの痛みや、苦しみを帳消しにしてしまうのです! ……うう、涙なしでは語れない浪花節ですね……しくしく」
ドアの外から聞こえるすすり泣きにため息をつき、ハルは頭を振った。
前髪が目の前で揺れることはない。
「今までありがとな」
ゴミ箱からのぞく長い前髪に感謝する。
切ろうと思ったのはハルの意志。
自分に都合の悪いことがあっても決して逃げない。不器用であることから逃げない。感情を隠さない。
その決意があって、ハルはようやく前髪を切ることを決意したのだった。
「それにしても、これは短すぎる……」
前髪は、眉よりもはるか上。
「絶対に笑われるな、これは……」
ハルはさらに大きなため息をつくのだった。
○○○
……今日、何度目のため息をつきながら、うるわは思う。
誰かが、ため息をすればするほど幸せが逃げていくと言っていた。
もしかしたらそれは正しいのかもしれない。
ポジティブだった思考をネガティブに変えるため息にどこかリアリティを感じながら、うるわはカレンの背中を見つめる。
住宅地を我が物顔で闊歩する背中。年相応の背中。それでもぴんと張った背中は、後ろを歩く者を問答無用で引っ張っていくだけのオーラに溢れているように見えた。
金色の髪がゴシック調のコートの上で揺れている。
「うるわ、何してるのよ? 私を迷子にさせる気?」
怒ったように腰に手を当てて振り返る。他人が見れば、ひどくわがままな言葉だったに違いない。気遣いもない上からの言葉。それでもうるわはゆっくりと頭を垂れる。
「申し訳ありません、カレン」
《遺片》はカレンの方向感覚を奪い、どこへ行くにもうるわの同行を必要とするようになっていた。黄金の瞳に不機嫌さを宿しながら、カレンは眼鏡のブリッジを持ち上げる。
「分かればいいのよ、分かれば」
遣える者の背中を守るのがメイドたる自分の役目だった。幸か不幸かを考えるのは私ではない。主が幸福であることが、私の幸せそのもの。異議はない。
「……『いかなる時も、冷静・笑顔・優雅であれ。かつ、最大の犠牲心を持って奉仕せよ』」
国際家政婦条項、冒頭の一節。宣誓式でも誓った言葉。笑顔すら満足に浮かべられないのにメイド・インを名乗る自分自身。それを認めてくれるカレンという存在。主従関係にとらわれない、自由奔放で一風変わった主人である。一時限りの主人であったハル同様、最大の犠牲心をかけるに足る大切な主人。
「……ん? どうしたのよ?」
呟いたうるわに、心配そうな視線を向ける。
「いえ、確認しただけです。カレンのような駄目な主人を持つと、メイドも何かと大変なのです」
うるわの愁いを帯びた眉が、カレンの横にあった。
「それがふがいないメイドならばなおさらです。私はまたカレンを危ない目に遭わせてしまうかもしれません。自分自身に迷い、悩み、疑問を持つ感情的な人間は、メイドとして失格。メイド・インの名折れです」
どこが感情的なのだろうと小首をかしげたくなるのを抑えながらも、カレンはうるわの頭を優しく撫でる。
銀色に輝くカチューシャが、夕陽に透けていた。
「なんて言うかさ。私も同じだと思うのよ」
カレンはうるわと肩を並べながら、恥ずかしそうにぽりぽりと頬をかいた。
「主従そろって不完全。確かにそれは駄目よ。でも、これからいくらでも良く……強くなっていけるじゃない。うるわも、私もね。今日離ればなれになるわけじゃないし、ましてや明日世界が終わるわけじゃない。私たちの関係は、馬鹿みたいにこれからもずっとずっと続いていくんだから。その中で少しずつ良くなっていけばいいのよ。二人一緒、至らないなりにね。支え合ってこその主従関係よ」
「……はい」
かけられた言葉が深く心に刻まれていく。
カレンが主人で良かった。
うるわは心の底からそう思う。
暮れなずむ住宅街の雰囲気がそうさせるのだろうか。うるわは胸の中のとげが一本、抜けた気がしていた。肩の重荷が下りた気がした。許された気がした。
「……アイツと会うの一ヶ月ぶりよね……」
夕陽に向かって話しかけるカレン。
「ハルは少しぐらいましになっているかしらね。前のままだったら、ガツンと言ってやらなきゃ。うるわ、ハルを甘やかすんじゃないわよ」
「ええ、分かっています」
日が落ちるとともに二人の影が伸びていく。
「そういえば、最近よくカレンの会話にハルという単語が出ますね。今日だけで、四十七回聞きました。新記録樹立です」
「……いちいち数えるんじゃないわよ、気持ち悪い。そんな言い方されると、まるで私がハルを――」
「今ので四十八回目です、カレン」
「くっ……そう言ううるわこそ、今日はどこか楽しそうじゃない?」
カレンがうるわの手元を見る。うるわの手にはスーパーの袋がぶら下がっていた。ジャガイモ、ニンジン、タマネギ、若鶏のもも肉……連想ゲームとしては最低難度だろう。
「そうでしょうか。私はメイドとしての義務と約束を果たしに行くだけです」
「昨日、おととい、その前も、その前の前も……いい加減カレーは飽きたわよ?」
カレンがニヤリと口元を歪める。
「……。……カレーは日をおけば美味しくなるのです。ご存じありませんでしたか?」
後頭部で手を組み、口笛でも吹くようにカレンが夕陽に眼を細めた。
「うるわのカレーは十分美味しいんだから、練習する必要なんてないわよ。ましてやあんなやつのために」
「カレンは何か大きな勘違いをなさっているようですね」
スーパーの袋を右手から左手に持ち替えようとして、中からジャガイモがこぼれる。あわてて拾おうとして、今度はつま先で蹴ってしまい、遠くに転がっていってしまう。うるわの無表情が、一瞬だけ渋いものに変わった。
「そう? ならいいんだけど」
馬鹿にするような笑み。
「……何か言い足りなさそうですね、カレン」
逃げ出したジャガイモを捕まえて、スーパーの袋へ戻す。
「別に。ただ単に、私は馬に蹴られたくないだけよ」
「その台詞、謹んでお返しいたします。……出来れば、カレンにはもう少し言葉の使う時と場所、用法を心得てほしいものです」
カレンを早足で追い抜く。
「なによ」
「なんですか」
追いつき、にらみつけてくるカレンに対して、うるわは無表情で迎え撃った。しかし、ふいにカレンの頬がふくらみ、耐えきれずそのまま吹き出してしまう。ひとしきり笑ったあとで、カレンは遠い目をしてつぶやいた。
「……うるわは変わったわよね」
「あなたこそ、カレン」
しみじみとした空気が、橙色の世界に馴染んでいく。
「変わったと言うより……変えられたのかしら」
「あなたこそ、カレン」
二人、視線を違う場所に投げて、思い思いに記憶の扉を開く。
そこには同じ人物が映っている。時と場所は違えど、それは確かに同じ人物。徐々に心を占拠しつつある無遠慮な人物。弱々しい姿をさらしながらも、強く前に進もうとする意志を持つ人物。
「……ね、乾燥梅、ちょうだい」
うるわに手を差し出す。
「駄目です。夕食が食べられなくなってしまいます」
「私を子供扱いする気っ!?」
カレンの声に驚いたカラスが、連れ立って夕陽の向こうに飛んでいった。
○○○
「むむぅ……お兄ちゃん、どうして帽子をかぶってしまうんですか? マキは帽子がない方が、超格好いいと思いますよっ!」
「…………超とか使うな」
マキの言うことは聞かずに、ニット帽を目深にかぶるハル。
「帽子をかぶるなんてそれこそお兄ちゃんらしくないですよ! こんな帽子、マキがはぎ取ってやりますっ!」
無言で脇を通り過ぎる兄に頬をふくらませる。ジャンプ一番、兄の背中に取り付いて、ニット帽に手をかけた。階段を下りる途中だったハルは、妹の来襲にバランスを崩す。
「この! 危ないだろうが! 止めろ!」
マキはだだをこねる子供のようにハルの背中にしがみついて離れない。両足でハルのお腹をロックし、両手でニット帽を引っ張る。奪われそうになるニット帽をさらに目深にかぶろうとするハル。二人は押し合いへし合いしながら、階段を下りていく。
「お前……! いい加減にしないと階段から転げ落とすぞ!」
ハルが身をよじると、肘がふっくらとした得も言われぬ感触に包まれる。
「あ……んぅ……お兄ちゃん、あんまり暴れないでください……変なところがこすれて……あっ……あぁっ!」
耳元に吹きかけられる吐息は桃色。悪のりしたマキが余計に押しつけてくる柔らかい感触。ハルは気になってしまって、それどころではない。
「あっ……お兄ちゃん、そこがいい……です……! マキ……そこが弱いみたい……です……」
兄の耳朶をなめるような声に、ハルは身震いを隠せない。マキが弱いところを暴露するのと同様に、ハルの弱点までも露呈してしまったようだ。悪代官もかくやという笑みがマキを覆い尽くす。
「えへへ~……お兄ちゃん……耳たぶが弱いんですね? ここですか? ここがいいんですか? そうなんですね? ほら、ふー……お、に、い、ちゃ、ん。ついでに甘噛みしてあげます」
執拗な攻撃に、反撃する力さえも奪われていくハル。
「や……やめ……」
玄関のチャイムが、マキの耳たぶ攻撃にかき消されてしまう。
「ふふふ……うへへ……ついにマキは見つけてしまいました! お兄ちゃんの性感帯……もとい弱点を!」
調子に乗って耳たぶに息を吹きかける。身体から力が抜けそうになり、ニット帽に入れる力を思わず弱めてしまいそうになる。玄関のチャイムが何度も何度も鳴らされる中、ハルは何とかニット帽を奪われぬまま、玄関のドアを開けた。
……そこには、腕を組んで眉をつり上げているカレンと、現れたハルに丁寧にお辞儀をするうるわがいた。頭を上げると、うるわの視線がハルの背後に抱きついているマキに動く。
そして、ぼそりと一言。
「……不潔です、ハル」
身も凍るような絶対零度。
「主人命令よ、もっと言ってやりなさい」
額に血管を浮き立たせたカレンの指示に、こくりとうなずくうるわ。
「変態、腑抜け、間抜け、優柔不断、愚兄、シスコン、近親相姦」
ぐさ、ぐさ、ぐさ、ぐさ。ハルの胸に次から次へと突き刺さる冷たい棘。
「隙あり!」
致命的な攻撃を受けて、ハルの力が弱まる。それをマキは見逃さなかった。土に埋まった作物を引っこ抜くように、思いっきりニット帽をはぎ取る。勢い余って、マキの手から離れたニット帽が、カレンとうるわの中間点にふわりと舞い降りていく。主人の黄金の瞳と、メイドの漆黒の瞳が、しっかりとニット帽をとらえて上から下へ。
「う~ん、やっぱりこの髪型が最高ですよ! マキのお兄ちゃんはかくあるべし、です!」
頬ずりするように兄の頭――前髪を撫でる。マキの言葉を止める術はない。解き放たれた言葉を打ち消す術もない。
ハルの背筋に悪寒が走る。背筋を駆け上がるのは蟻走感。恐ろしくもおぞましい未来への絶望だった。
マキの言葉を耳にした主従は、玄関に落ちたニット帽から、マキの額へ視線を移す。
「……へ?」
口をぽかんと開けるカレンの隣で、うるわがスーパーの袋を地面に落としていた。
今まさに、ハルの未来は現実のものとなった。