第四十七話・「俺の妹は……」
「ただいまです、お兄ちゃん」
一人の少女が降り立った。
そのまま身構えるハチと対峙すると思いきや、マキはくるりと振り返り、兄と向かい合う。
「お兄ちゃん、格好悪いですよ。マキはがっかりです」
「……うるさい、黙れ……」
マキが膝をつく兄の頬をハンカチで拭こうとする。兄はそれを憮然として受け止める一方で、頬を赤く染めてしまう。久しぶりに見た妹の姿は、やはりいつもと変わらない姿だけれども、ハルにとっては何物にも代え難い感動に変わっていた。感動はハルの中にとどめておくことが出来ず、顔から漏れ出てしまっている。マキはそんな兄を嬉しそうに見つめていた。
「なんて、嘘です。お兄ちゃんはマキの自慢なのです」
「うるさい、黙れ」
マキのおでこに軽いデコピン。照れ隠し。
マキはあまり痛くないはずなのに涙目になり、額を手で押さえる。
「うう……久しぶりの再会だというのに厳しいお兄ちゃん……。相変わらずの愛情の裏返しぶりにマキは感動……快感? すら覚えてしまいます。でも、そんなところがまたお兄ちゃんのいいところだったり、魅力だったり……えへへ」
体を身震いさせて妄想に頬を染める様は、まさにマゾヒスティックな資質を感じさせた。
「そんなお兄ちゃんを……」
兄を見つめるつぶらな瞳が、敵愾心の炎を燃やす。
「マキの大好きなお兄ちゃんを傷つけるなんて、いくら心優しく純粋無垢で純情可憐、なおかつ可愛く純粋無垢なお兄ちゃん大好きっ子のマキでも怒りますよ!」
振り返って、びしり。気持ちよく指を突きつけ、ハチをにらむ。
「同じことを二回言ったな……」
《遺片》の副作用にさいなまれる中、ハルはシニカルな笑みを浮かべている。
「う……お兄ちゃん、マキとしては格好がつかないので、そこは黙って流してくれるとありがたいです!」
兄のつっこみに頬をふくらます。
背中で寒い風が吹いたが、お構いなしにマキは指を突きつけ続ける。
「……と言うわけで、お兄ちゃんが許しても、マキは許しませんよ!」
「許すも許さないも、初めから許されることが問題ではないよ」
両翼を羽ばたかせると、マキに向かって直滑降。
「お兄ちゃん! マキを信じて下さい! マキはお兄ちゃんにとってどんな妹ですかっ!」
「どんな妹だって……!?」
獲物をねらう鷹のように、上空から飛来するハチ。左腕に持った大鎌を大きく振りかぶる。
「そうです! お兄ちゃんが信じてくれればっ、マキはっ!」
ハルの頭に浮かぶ一つの希望。
『マキは、俺の妹は……最強だ!』
叫びが、頭の痛みが、すさまじい衝撃音にかき消される。
瓦礫が揺れ動く衝撃の中で、ハチとマキが肉眼ではとらえきれないスピードで攻撃を繰り出しあう。先制攻撃は、ハチが繰り出した大鎌だ。体を最大限にひねり、ためにためた力を大鎌に付加させる。解放したときには大鎌は音速を超えていた。マキは大鎌の軌道を冷静に読み、地面を蹴る。大鎌が瓦礫をとらえて地面に亀裂を走らせたときには、マキはハチの背後に回っている。
マキの初撃は、ただの正拳だった。
補足すれば、マキが放つのは人間の正拳ではなく、世界最強の妹が放つ正拳。ただの正拳としては雲泥の差がある。
驚きに目を丸くするハチが、あわてて鋼の翼を防御に回した。
「お兄ちゃんの怒りの鉄拳!」
必殺技のような叫び声とともに、拳がハチの翼に入り込む。カレンが幾度となく《千手》を打ち込んでもへこませる程度だった鋼を、マキは一撃でへこませたのだ。それどころか、衝撃の威力はハチの体をはるか遠くへ殴り飛ばしていた。健在しているビルの最上階にある看板を突き抜けて、ビルの壁に体をめり込ませる。壊れた外壁が、ぱらぱらと地面に落ちていく。
「まだですよ! お兄ちゃんたちの痛みはこんなものではないのです!」
跳躍しようとするマキの背中を、ハルが声で制する。
「マキ!」
「おっとっと……なんですか? お兄ちゃん」
「カレーだ」
「カレー?」
「今日の夕食はうるわの手作りのはずだったんだ」
「むむ……聞き捨てならないそのメニュー、マキへの挑戦と受け取りましたよ? お兄ちゃんがカレー好きなのを知ってのことなら、由々しき事態です。……むむぅ、これは早急に手を打たなければ、マキのお兄ちゃんが毒牙にかけられてしまいます……ここはカレーではなくニラレバなんかで……」
眉間にしわを寄せて腕を組む。唇をとがらせてうるわへの対抗心をあらわにする。
「挑戦かどうかは置いておいて……全員で打ち上げをやろう。全員でだ。じゃなきゃ……やらない」
我ながらベタな台詞を言っていると思う。
その恥ずかしさも手伝って顔を背けたいと思ったが、ハルはそれをしなかった。邪魔な長い前髪を乱暴にかき上げて、マキの明るい笑顔を目に焼き付ける。
「もちろんです! お兄ちゃんはマキのものだって宣言しなきゃいけませんからっ!」
「お、おい!」
危うい言葉を地面に置き去りにして、マキは地面を飛び立った。マキの周囲の空気が揺れたかと思うと、次の瞬間にはマキは弾丸と化していた。マキの立っていた地面に大きな亀裂が入り、風がハルの顔に吹き付ける。あっという間にマキはビルの屋上に達していた。めり込んだ外壁から身を乗り出し、ハチが歯ぎしりする。持っていた大鎌をマキに投げつけ、左手に長大な剣を出現させる。身の丈は優に上回る大剣。反射する太陽の光は刃の切れ味を謳う。
その後の攻防は、まさに怪獣大決戦の様相。二匹の怪獣が空と陸を激闘の舞台とする。
「お兄ちゃんはマキが守るんです!」
屋上を飛び越え、遙か上空でハチと激突する。投げつけられた大鎌を驚異の動体視力で華麗にキャッチすると、そのままのスピードでハチに斬りかかった。ハチは翼を羽ばたかせて体勢を安定させると、剣の腹で受け止めようとする。勢いを殺しきれず、ビルの内部に転がり込んでいく二人。壁を五枚、六枚と突き抜け、ハチの背中が社長室の机にぶつかったところで止まる。
花瓶が倒れ、高級なカーペットに水が染みこんでいく。
「僕は……僕はお父さんに会うんだ!」
力の押し合いに歯を食いしばり、ハチは腕の筋力を爆発させた。流動し、ぼこぼことふくれあがったかと思うと、マキの大鎌を押し返す。力の増大に目を見開くマキ。
「僕は負けられないんだ!」
対抗しようとするマキの力を自らが引くことでいなし、マキの体勢を崩す。現れた好機を、ハチは逃さなかった。鋼の翼を大きく開き、マキの背中に一撃をたたき込む。鉄筋コンクリートを背中にぶつけられたような衝撃に、マキは階下に叩き落とされた。社長室の床を突き抜け、会議室のテーブルさえも突き抜け、さらに階下の営業部の床でバウンドする。クッキーの型抜きのように、天井にはマキの体の形が二個、三個と続いている。三階上の天井からマキをのぞき込むハチ。翼を羽ばたかせると、剣の先端部をマキに突きつけ、天井に開いた穴から落下してくる。マキは手を離れた大鎌を見つけ、窓の外に飛び出した。
マキのいた場所に突き立つ長大な剣。ハチの舌打ちが聞こえた。
ガラスを突き破って、三十階立ての高層ビルから重力落下。ガラスとともに地面へ引かれていくマキ。
「逃がさないよ!」
マキを急追するのは空を飛ぶハチだ。鋼の翼を羽ばたかせ、マキの落下にすぐさま追いつく。二人は空中できりもみながら、武器を交える。大鎌と、大剣。巨大な武器同士が火花を散らす。一階落ちるごとに火花が弾け、景色がぐるぐると回転する。
「マキは! お兄ちゃんと……!」
空、地面、ビル。
「僕は! お父さんに……!」
空、地面、ビル。
作用反作用の法則に従い体勢を乱す二人。攻撃を放ち、武器を削りあえば、自ずと反動が襲う。平衡感覚すら失う中で、マキとハチは矛をぶつけ合う。
遠のく空。迫る地面。
そんなものはお構いなしだ。お互いの攻撃がお互いにヒットし、二人は道路を挟んだ左右のビルにはじき飛ばされる。
ともに空中で回転し、ビルを足蹴にして、再激突。
「一緒にいたいのですっ!」
「会いたいんだ!」
ひときわ大きな衝撃が広がり、火花が散る。すさまじい衝撃波に周囲のガラス窓が割れ、雪のように地面に落下していく。その衝撃の中から二つの影が飛び出し、ビルの谷間で攻防を繰り返す。街路樹が転がり、車が面白いように舞い上がる。
マキがコンビニエンスストアにはじき飛ばされれば、本棚が倒れ、レジが吹き飛んだ。札束と小銭が宙に舞い上がって散乱する。
ハチが地面に激突すれば、道路のアスファルトがめくりあがり、地下の配水管があらわになる。水が噴き出し、ハチの翼を洗い流す。ワイシャツが水浸しになり、銀髪をたっぷりとぬらした。口元の汚れをぬぐうと、へこんだ両翼を残り少ない余力で元に戻す。
「僕が負けるはずなんてない……負けるはずなんてないんだ!」
両翼で地面を叩くように舞い上がる。奪われた大鎌を構えるマキに、正面からつっこんでいくハチ。安直な軌道の連続でも、スピードは増すばかりだ。天から晴れ間がのぞく中で、ビルの上では二つの光がついたり消えたりを続けていた。超高速でビルの上を飛び、武器を交える。
灯っては消え。消えては灯る。
まるで破裂する流れ星。複雑な軌道で流れてくる流星群は、互いを削り合う。
殴り飛ばし、はじき飛ばし。殴り飛ばされ、はじき飛ばされ。
隕石のように大地に激突し、周囲の建造物を破壊していく。光を反射する武器の光は尾を引き、戦況を見守る兄の目に焼き付いていく。
「お兄ちゃんが信じてくれてる!」
兄の信じる力を頼りに、大鎌をふるうマキ。
「マキを信じてくれてる!」
その信頼に応えるように、マキの力は増していく。
ハチの翼から射出される数百のプラグ。四方八方からマキを包囲する。八つ裂きにしようと唸るプラグの群れ。ビルの側面を突き刺し、ガラスを突き破り、看板を貫く。間断なく繰り出され、よける隙間すら見あたらない。一瞬でも判断を見誤れば体を貫かれ、蜂の巣にされてしまう極限の状況下。そこしかないという生きるための筋道を、戦闘の中で見出す。
ビルの屋上、ヘリポート部を駆け抜け、マキは大鎌を構える。満を持してハチへと大跳躍。視界を飲み込むプラグの群れ。
マキに迷いはなかった。
プラグとプラグ。正確に体を滑り込ませ、一ミリの狂いもなくプラグの間隙を縫う。服を破られ、頬を傷つけられても、天を駆ける少女はひるまない。
ついにはそのすべてをよけきってみせた。
笑顔が弾ける。
「お兄ちゃんが、マキを見てくれてる!」
マキは懐に潜り込む。
ハチの顔が驚愕に歪んだ。
「嘘だっ! よけられるはず――」
ハチは舌打ちして鋼の両翼を防御に回す。そして、横にないだ大鎌が、ついにハチの翼をまっぷたつに切り裂いた。
羽ばたくすべを失い、ガラス張りの駅の天井に落ちていく。重力に逆らうことが出来ず、二人はもつれ合ったまま駅のど真ん中に落下した。
コロセウムのような外観をした駅。天井はどこもステンドガラスのように色とりどりのガラスに覆われている。幻想的な光を構内に提供していたガラスが、落ちてきた二人に突き破られ、無惨にも破砕した。避難が完了しているのか、構内は無人。落ちてきたガラス片に反応したのか、改札口が一斉に通路を遮断する。
翼をもがれたハチは、それでもガラスの中から立ち上がった。眼球に流れていく情報を読み取れば、全身の状態は警告だらけ。修復機能は間に合っていない。
「お父さん……僕は!」
傷ついた体の機能が制限されようが、赤い瞳の中では未だ大きな怒りが燃えさかる。決して燃え尽きることがない怒り。父に会うという至上命題が力を与えている。大剣を力一杯握りしめると、改札口を飛び越えた先で待つナナに斬りかかる。大鎌を大きく振りかぶり、迎え撃つマキは、その決意の力に押されて駅の売店に突き飛ばされる。ガムが飛び散り、雑誌や新聞が棚から崩れ落ちる。倒れた冷蔵庫から雪崩のようにペットボトルが飛び出し、ハチの前に転がってくる。足下のミネラルウォーターを踏みつぶして、ハチは売店からはい出してくるマキを見た。
「お互いに譲れないものがある。君はハル、僕は《彼岸》……その点だけは共通しているね」
「ベタな映画にありがちな設定ですけど……マキもそれには同意です」
大鎌を支えにして立ち上がる。
「そこで提案」
「あ、マキと和平協定でも結ぶんですか?」
「まさか」
嬉しそうな顔をしたマキを馬鹿にするように肩をすくめる。ハチの背中では、失った翼を探し求めるように、バチバチと火花が散っている。
「お互い次で最後にするっていうのはどうかな?」
「……分かりました。マキもお兄ちゃんが心配でたまりませんから」
左肩を突き出すようにして、大鎌を右に振りかぶる。
「……最後に一つ聞いていいかな?」
「なんですか?」
開いた天井から、光が降り注ぐ。壊れて床に散らばるガラス片が、まるで野に咲く花のようにきらきらと光り輝いている。
「君は《彼岸》……いや、お兄ちゃんが好き?」
「大好きです」
にっこりと笑い、即答。考えるまでもない答え。
「マキからも一ついいですか?」
「どうぞ」
じりじりと間合いを確認しながら、マキは言葉を紡いだ。
「お父さんが好きですか?」
「大好きだよ」
胸を張って、即答。考えるまでもない答え。
――二人の動きが止まる。
駅の構内を足早に吹き抜けていく風。ハチの銀髪を揺らし、マキの赤い髪留めをなでる。
駅の時刻表には、全線運行停止の案内のみが点灯している。動かない電車はスライドドアが開けっ放しになっており、車内には置き去りにされた朝刊や、缶コーヒーの空き缶が転がっている。忘れ物らしきバッグからは口紅とハンカチが飛び出していた。
床に落ちている携帯電話が、体を小刻みに揺らして持ち主を呼んでいる。一向に現れない持ち主をあきらめるように、携帯電話には着信履歴だけが募っていった。
……バイブ音が止まり、二人の体が動き出す。