第四十六話・「もう一度だけ、もう一回だけ」
何かが折れ、壊れる音。
突き抜けた部位からは赤い液体がしたたり、ひび割れたアスファルトに染みこんでいく。
激しい表皮の痛み。のどが焼けそうなほど熱い吐息。体中が爆発しそうな高熱。内臓をはき出さんばかりの吐き気。
痛みばかりで混濁しそうになる意識。
「ハル!」
「……なんだよ」
腕を突き抜けた配線が、ハルの胸元で止まっていた。右腕を犠牲にして、左腕でプラグを握りしめる。腕から流れる生暖かい流れを感じながら、ハルは背後で聞こえるナナの声に安堵する。
「血が出てるよ! ハルから血が出てるよ!」
ナナが騒ぎ出す。近所で喧嘩をする猫のように甲高い声を上げて。
「ああ……出てるな。でも、それでいいんだ」
プラグを腕から引き抜き、地面にたたきつける。
「……あの拘束を逃れるなんてね」
感心するようなハチの言葉の裏には、怒りが見え隠れする。
「分かった気がする……カレンが夢中になるわけがさ」
それはまるで乾燥梅のような味がした。
適度な酸味と、ほのかに広がる甘み。本来相容れないものが奏でる上品なハーモニー。
「まさか《遺片》を飲んだの!? 駄目だよハル! ハルがおかしくなっちゃうよ!?」
胃の中で熱く広がる溶岩は、すぐに体中に浸透していった。血管という血管が焼かれるような痛み。筋肉の繊維という繊維が引き絞られるような痛み。それは細胞を限界以上に活性化させる痛みだった。膨大な情報にパンク寸前の骨髄と脳が、意味不明な指令を体に下すせいで、汗が噴き出たり乾いたり、吐き気を催したりと際限がない。
「ハル……! なぜあなたが《遺片》を……」
うるわが真っ赤な目でハルを見る。腫れた目元には涙の軌跡。
「拾った。返そうとは思ってた」
臨界点を突破した反動で、全身が悲鳴を上げている。すでに壊れた部分もあるかもしれない。訓練されたカレンと違い、ハルは素人。危険性はナナの叫びが示す通り。
「ナナはいいの! ナナはすぐに直るから! でも、ハルは!」
「いいんだ……それでもいいんだ!」
瓦礫と、倒壊したビルの隙間にとどろく叫び。煙を吹き飛ばし、空に広がり、埋め尽くす灰の雲に吸い込まれていった。それに応じるかの如く、雲が裂け、そこから一条の光が注がれる。ハルとハチの中間に神々しい光が差し込む。曇天に遮られた太陽が、長き沈黙を経て、再び輝きを取り戻そうとしていた。
「最後の最後まで……いや、最後の最後であっても俺はあきらめたくない。カレンも、きっとそう言うはずだ! そうするはずだ!」
手近に刺さっていた鉄パイプを引き抜き、ハチに向かって突撃していく。活性化した体の筋肉が、ハルの期待に応える。人間離れした速度で、ハチに接近。鉄パイプで斬りつける。
……だが、所詮は人間離れの域でしかなく、ハチに軽くさばかれてしまう。
「何もできない……でも、何もしないままでいたくないんだ! 目の前で消えていくものを、失っていくものを見過ごすことなんて、もうしたくないんだ!」
旅立つ両親を。
冷たくなった愛猫を。
病床に伏せた妹を。
犠牲心を貫くうるわを。
説得を試みるナナを。
命をかけたカレンを。
そして、再び消息を絶ったマキを。
「――失いたくないんだ!」
失うことで訪れる寂しさ。一人きりで耐えることが出来るはずだった。人間一人にはあまりにも広い家でも、そこでじっと耐え続けることによって生活していけると思った。悲しみはやがて慣れる。加えて、前髪が伸びる頃には表情すらも隠せるから。悲しいことがあっても隠すことが出来るから。
「無駄だよ。人間が《遺片》を服用したところで《人機》には遠く及ばない」
次々に繰り出すハルの攻撃が、いとも簡単に空を切る。それでもハルは裂帛の気合いとともに、ハチに追いすがる。
「おああああああああっ!」
……クラスメイトを遠ざければ、悲しむ姿を見せることもない。ハルはそう考えた。
不器用なハルにはそれはたやすいことだった。
苦手意識を持たれてもよかった。同情されてもどんな顔をしていいか分からなかった。
一人で猫画像を見て、寂しさを紛らわせる。
馬鹿にされたっていい。陰口をたたかれてもいい。逆に傷つけるよりは、自分から遠ざかっていったほうがいい。遠ざけられた方がいい。また何かを失うのはごめんだから。
「ぐ……っ!」
足がもつれそうになる。よく見れば、足にハチの射出したプラグが刺さっていた。
「こんなもの……!」
ハルはそれを乱暴に引き抜くと、痛みも忘れて鉄パイプを横になぐ。
「うるわたちの痛みに比べれば!」
……ずっと失意に耐え続ける。それでも、気がつけば聞こえてきた。凍っていく心の中から小さな悲鳴が聞こえてきた。そのたびに悲鳴を飲み込み、さらに冷たい氷で覆っていく。その作業の繰り返し。
しかし、完全には凍らせることが出来なかった。
――お兄ちゃん。
楽しそうに寄ってくる妹がいた。幼い頃にプレゼントした安物の赤い髪留めが、定位置にある。前髪を逆さにとめる髪型。プレゼントしたその日から、妹の髪型は変わらない。その妹は、どんなに邪険にしても笑いかけてくる。冗談を言っては困らせてくる。邪魔をしてくる。たとえ病床に伏せようが、それは変わらなかった。
笑いかけてくれたんだ。
自分がいなくなる恐怖よりも、心配してくれる誰かのために笑うこと。
優しさ。心遣い。それをするに必要とする強い心。
いったいどれほどだろうか。計り知れない。
「もっと速く! もっと速く動け!」
体に鞭打つ。髪を振りみだし、ハチの頭上に鉄パイプを見舞う。
「このおおおおおおおおっ!」
「無駄だって言っているのに」
ハチは翼を広げ防御する。けたたましい金属音のあとに、ハルの手から鉄パイプがこぼれ落ちた。しびれた手をそのままに翼にとりつく。歯を食いしばり、その隙間から声をはき出す。
「分かったんだ……俺は」
手のひらを鋼で切り裂かれながらも、ハルは翼から生える配線を引きちぎろうとする。配線にこびりつく熱い血液。
「やっと気がついたんだ。理解したんだ!」
ハチがハルを振り落とそうと翼を羽ばたかせる。
「ハル! 無理だよ! ハチには勝てないよ!」
ナナの声は聞こえない。地面に叩き付けられそうになりながらも、ハルはしがみ続ける。必死の形相は、砕けかけたうるわの心を揺り動かす。
「ハル……あなたはなぜそこまでして……私や、カレンすら……」
うるわ、カレン、ナナ……そして、マキ。
この一週間の内に、身の回りは一気に騒がしくなった。現実から逸脱した騒がしさに面食らいながらも、なぜか心が満たされていくのを感じた。悲しみが薄らいでいき、寂しさがどこかへ霧散していくのを感じた。
――なぜだろう、それはとても温かかった。
「気がついた? 何を言っているの? ついにおかしくなった?」
悲しみという極寒の中で凍った心身。
まるで解きほぐされていくようだった。
「そろそろ返してもらうよ! お父さんの《彼岸》を!」
気勢とともに翼が再生する。失ったはずの片翼が背中から飛び出し、一段と激しく羽ばたかせる。ハルは翼から転げ落ちそうになり、あわててコードをつかみにかかる。しかし、コードについた血液が潤滑油となり、翼から滑り落ちてしまう。瓦礫に体を打ち付け、肺の空気を吐き出す。ハルが空に舞い上がったハチを見れば、大鎌を振りかぶるところだった。
雲間から注ぐ光を背負うハチ。不気味なほどに美しい銀髪と、烈火のような朱の眼は、まるで堕天使。でなければ、死神だ。
「俺は寂しかった……」
崩れ落ちそうになる身体を奮い立たせ、ハチを見上げる。倒れるわけにはいかなった。逃げるわけにはいかなかった。《遺片》の副作用が体中を激痛と倦怠感で覆い尽くす。それでも、退くわけにはいかなかった。
大切なものを見つけたから、大切なものに気が付いてしまったから。
「情けないよな……」
凍結した心身を溶かすもの。
「俺は……本当に情けない……」
くすぐったくて、懐かしくて、それでいて温かいそれは何なのか。
見つかった気がする。分かった気がする。
「俺は本当に格好悪くて、最低で最悪だ! 守ってやるような力もない、弱くて、迷ってばかりの最低なやつだ!」
膝をついたまま、ハルは空に向かって吼える。
「それでも……そんな俺でも強くなりたい! みんなと一緒にいたいと思えるんだ!」
……確かに、カレンの言う通り案外直ぐ近くにあった。
なんと言ったか……そう、言葉に出来る、その言葉は。
目には見えない。けれど、しっかりと、堅くつながれていることを示す言葉。
なんと言ったか。
「……そうなんだ」
マキを遠ざけたのは俺。
マキを消してしまったのは俺。
距離をおかなければいけない、そう願ってしまったから。
一人になってしまったときのように、などと願ってしまったから。
――お兄ちゃんが信じてさえくれれば、マキにできないことはないって……バカみたいだけど、そんな気さえするんです!
「………………ああ、信じる」
今にものどから出てきそうな言葉がある。
思い出せないのがおかしいくらいに。
きっと誰しもが知っている言葉。
それぐらい簡単な言葉なんだ。
それでいて力強い言葉で。
かつ心地のよい言葉。
宝石に似た言葉。
「本当に今更だけどな……。俺は信じる。今なら信じることが出来る。なんたってお前は……俺にとっては」
思い出した。
「大切な家族なんだからな」
――絆、だ。
聞こえる、あの歌が。
回る、あの歌が。
――もう一度だけ、もう一回だけ。
頭の中で。鮮明なイメージとなって。強烈な頭痛を発しながら。
あのときと……白と黒で彩られたあのときと同じように。
「くっ、この警告は……!? させないよ!」
大鎌が牙をむく。
「……だから、もう一度だけ、もう一回だけ――」
マキ。近くにいるんだろ。顔を見せてくれよ。
泣いた顔でもいい、笑った顔でもいい、怒った顔でもいいから。
もう一度だけ。もう一回だけ。
「……帰ってきてくれ、マキ……」
雲間から、新たに注がれる光のカーテン。膝をついたまま、ハルはその光に囲まれる。
『帰って来い!』
荘厳な光の中で、ハルの咆哮が響き渡る。
爆発する光。飛び出す帯状の輝き。
目にもとまらぬ早さで帯状の光が球体に集束していく。ハルは頭痛に必死に耐えながら、光球を見つめる。
まばゆい光を放つ球体は、卵が割れるような音を伴って四散した。
刹那、死神の鎌が弾かれる鋭い音。
「都合良く出戻りしてきちゃいました」
ハルの眼前に。
「ただいまです、お兄ちゃん」
一人の少女が降り立った。